第5話
俺はエレナに借りた本を持って雷斧亭へと向かった。
昼前の雷斧亭に入ると予想通り客入りは少なく、まったく忙しくなさそうだ。
中の様子を確認してから店の奥へと向かおうとすると、奥から嬉しそうな表情を浮かべてこちらに近寄ってくるローラさんの姿が見えた。
「あっ、シンジさん! ここで働く気になったんですね!?」
「えぇ……しばらくはここで働こうかと思いまして」
満面の笑みを浮かべるローラさんに対し、俺は照れながらそう返答した。
「あれ? それは本ですか?」
そう言ってローラさんは俺が手に持った本が気になる様子だったので、俺は彼女に本を差し出した。
「魔術基礎理論?」
どうやらエレナに借りた本の題名は「魔術基礎理論」と言うらしい。
「魔法使いにでもなるつもりなんですか?」
「いや、そんなつもりはないですよ。文字の勉強です」
「文字の勉強……簡単な文字なら私でも教えられますよ? シンジさんがよろしければ教えましょうか?」
「本当ですか!? 手取り足取り!?」
「手取り……足取り……?」
そう言ってローラさんは言葉の意味を理解しない様子で首を傾げていたが、店のカウンターの方からの凄まじい殺気が放たれているのを感じ取った。たぶん、マスターにこの会話が筒抜けだったのだろう。ローラさんに冗談でもちょっかいを出したら殺される。そう思って俺は慌てながらに訂正した。
「い、いや!! なんでもないです!!」
「ん? どうしたんですか? そんなに慌てて?」
「いやいや、慌ててないです! 至って冷静です!」
――とにかくこれ以上おかしな事を口にしない様に気を付けよう。
不思議そうな視線を俺に向けるローラさんを苦笑いで対処すると、ローラさんは近くの空いたテーブルに座り、その近くの椅子に俺も座った。そしてローラさんは俺から受け取った本をおもむろに読み始める。
「魔術とは、魔法陣・触媒・詠唱の三つで構成されている……」
そうやって彼女は本の内容を淡々と言葉にして行く。
魔術は魔法陣・触媒・詠唱の三つで構成されている。
魔法陣は魔法の発生位置の指定・発生した魔法の維持させる装置。
触媒は魔法陣を作動させる為の動力源。
詠唱は魔法陣を起動させるための鍵。
魔法を発生させる装置が在り、動かす為の動力源が在り、それを起動させる為の鍵が在る。それはまるで機械的な何かだと俺は感じた。
その他にも、魔法陣は魔導師しか作る事が出来ない・魔法陣が無くても魔法は発動させられる・身近に在る触媒についてなど魔術についての記述が書かれているようだ。
そうやってローラさんが俺に本の内容を読み聞かせていると、何かに気が付いた様子で朗読を中断する。
「すいません。これじゃ文字を覚えられませんね……」
そう言って彼女は苦笑いを俺に向けて謝るのだった。
「でもこれ、文字を覚える為の本にしては難しいと思いますよ?」
「ですよね……」
薄々感づいては居たが、魔法基礎理論なんて難しそうな書物の時点でコレは無理だなとは思っていた。
「なので紙と羽ペンを使って、簡単な文字から覚えて行きましょう」
そう言ってローラさんはいつも注文を取る時に使う羽ペンとメモ用紙を取りだして、紙に何かを書いて俺に見せるのだった。英語の筆記体に似た短い文字列。何が書かれているのかサッパリわからない。
「これはお肉」
ローラさんはもう一枚文字を書いて俺に見せる。
「これはお魚」
そして再度、ローラさんは文字を書いて俺に見せるのだ。
「これは野菜。あとは……」
そう言って彼女はメモ用紙に書いた言葉は全て食材や料理に関する文字ばかりだった。肉・魚・野菜などの大まかな部類に分けられた食材の名前。煮る・焼く・蒸すなどの調理方法。塩・胡椒・香草といった調味料などだった。
「これくらい覚えておけば、十分役に立ちますよ!」
文字を覚えたいと言ったが、ここで働く為に必要な文字を教わりたい訳ではないのですが。とは、口が裂けても言えなかった。ま、まあ、文字を教えてくれた事には間違いないのだから。こういう所から覚えて行くのも悪くないよね……うん。
そう自分に言い聞かせながら、ローラさんが書いた文字の下に漢字で読みを振って行った。するとローラさんは横から不思議そうな視線を向けている事に俺は気が付く。
「えっと……?」
「その下に書いてるのはなんですか?」
「文字ですよ。この世界とは別の世界で使われている」
「別の世界。もしかしてシンジさんって異世界人……なんですか?」
「えっ? まあ、異世界人なんでしょうね。自分でも良く理解はしてないですけど」
「そ、そうなんですか……」
異世界人という単語に何か気になる事でも在るのだろうか。彼女の顔を少し曇った様子を浮かべていた。
「どうかしましたか?」
「いえ、なんでもないんですよ。ただ、ちょっと……」
「ちょっと?」
ローラさんは少し口ごもりながら何かを迷っている。俺はその様子をじっと見つめていると、彼女はゆっくりと口を開いた。
「異世界人って……この世界じゃ不幸を齎す《もたらす》と良く言われるんですよ。実際に異世界人が原因で事件も起きたりもしてますし、少し嫌われたりするかなって……」
「そうなんですか……」
「でも、私はシンジさんの事が好きですよ! 嫌いになったりしませんから安心してください!」
そう言ってローラさんは俺に真っ直ぐな瞳を向け、真っ直ぐな言葉を口にする。
彼女は素直で真っ直ぐな女の子なのだ。だからこそ魅力的で在り、誰からも好かれる存在に違いない。彼女がこうして自分の気持ちを素直に言葉にしてくれたのだ。なら俺も……。
「お、俺も……ローラさんの事は好きですよ。嫌いになったりしません」
おぼつかない口調で俺はそう口走った。
店の奥から禍々しい殺気の様なモノが垂れ流されているのが感じるが、後悔も反省もしていない。俺がこの後でマスターに何らかの危害を加えられようとも、俺のこの気持ちは変わらない。
「それは良かったです! これからも仲良くしてくださいね!」
そう言ってローラさんは嬉しそうな表情を浮かべてこう続ける。
「歳の近いお友達として!」
「……」
そう言ってローラさんは満面の笑みをこちらに向けてから立ち上がり、カウンターの方へと走り去って行った。奥から入れ違いになるようにしてマスターがやってくると、落ち込んだ俺の肩を何も言わずにを優しく叩くだけだった。
雷斧亭は毎度の如く忙しく賑わっていた。午前中にはそれぞれの仕事を終わらせたのであろう冒険者達が、昼飯を食べに雷斧亭へやってくる。仕事終わりで羽振りの良い冒険者達は、毎日大量の料理を注文し、沢山の金を落としていってくれるお得意様なのだ。まあ、金を沢山落としてくれる分。こちらは忙しくなるのだが……。
昨日の様にローラさんが注文を受け、マスターが料理を出し、俺がそれを運ぶ。
昨日一日働いたお蔭で二日目の今日は動きにずいぶんと余裕が在った。
だからこそ店内の状況やローラさんの位置を把握しながら仕事をしているせいか、ローラさんの指示は余り飛んでくる事はない。
そして、昼の賑わいが徐々に落ち着いてきた所にマスターで俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
「おい! 新入り!」
「はい!」
元気良く返事を返しながら俺はカウンターの方へと向かって行った。
「ほら、昼飯だ」
そう言ってマスターは肉と野菜の特盛塩パスタをカウンターに置いた。
その量はかなりのもので二、三人前は在るであろう代物だった。
――これは食べきれるのだろうか? まあ、マスターの事だから無理矢理食べさせられるに違いないけど……。
俺は一つ息を呑んでからこの化け物を全て平らげる覚悟でフォークを掴み、そして食べ始めた。
見た目はただのデカ盛りパスタなのに塩味がしっかりと利いていて、やみつきになる美味しさだ。
――これなら全て食べれる!!
こうして俺は手を休めることなく、目の前のパスタをおもむろに貪るのだった。
「お前……異世界人なんだって?」
「へぇ、ほうでふよ《ええ、そうですよ》」
たぶんマスターはさっきの話を遠くで聞いていたのだろう。
でも、この世界で異世界人ってのは意外と聞きなれた言葉なのだろうか?
なので俺はそんな疑問をマスターに聞いてみた。
「まふたー《マスター》……」
その直後マスターの猛烈なチョップが俺の頭に振り下ろされた。
「食べながら喋るな!」
俺は口に含んだパスタを飲み込んで「はい」と一言。そして再度質問した。
「マスター。異世界人ってのは余り珍しくないんですか?」
「そうだな……珍しいには珍しい。けど、今となっては良く在る話だ。ここに来る冒険者の中にも異世界人がいるだろうし、冒険者の集まる場所でちょっと探せば一人くらいは見つかるだろうよ」
「意外と珍しくはないんですね」
「で、お前はなんでこの世界に来たんだ?」
「なんでって言われましても……。無理矢理召喚されたとしか……」
「なんだ、来たくて来た訳じゃないのか?」
「まあ、来ようと思って来れるもんじゃありませんし。来たくなかったってのも確かですね」
そう、俺はずっと自分の部屋に居たかった。
俺の願いはそれだけだったのに……今はこんな事をしている。
少しばかり過去の事を思い出すと俺は憂鬱な気分になり、溜息を吐いてしまった。
すると二度目のチョップが俺の頭に振り下ろされる。
「人が感傷に浸っているのにチョップしないでくださいよ」
「ふん! そんな事を知ったことか! 俺の料理を食べながらそんな顔をするんじゃねぇ!」
とんでもなく理不尽だ。まあ、しけた顔するなというマスターの激励なのだろう。
俺はゆっくりパスタを食べながら、マスターに魔導師について尋ねてみた。
「ところでマスター。魔導師って何処に居るか知りません?」
「魔導師か……数人会った事は在るが居場所までは知らんな」
「流石……元冒険者ってのは本当なんですね」
「なんだローラから聞いたのか?」
「いえ、あの女から聞きました」
「あの女? ……ああエレナか。で、なんで魔導師なんだ?」
「俺が召喚された魔法を造った魔導師を探し出せれば、元の世界に帰れるみたいなんですよ」
「なんだ、帰りたいのか?」
「ええ、ここは居心地良いですけど。住み慣れた場所で生きて行く方が良いんですよ。俺は」
「そうか……なら少し話を聞いてみよう」
「えっ?」
「そう驚いた顔をするなよ。ここで俺が何年酒場をやって、何年冒険者をやってたと思ってるんだ? そのくらいの宛ては在るが……余り期待はするなよ?」
「おおっ! ありがとうございます!」
エレナの言う通り、ここで働いて良かったと思えた瞬間だった。
これなら近い内に元の世界へ帰る手掛かりが見つかるかもしれない。
そんな淡い希望が見え始めた。
とりあえず聞きたい事は聞いた。特にマスターとの会話は思いつかなかったので俺は黙って食事を続けていると、突然マスターが別の話題を持ち出してきた。
「ところでお前……本当にローラが好きなのか?」
その言葉を聞いて俺は食事を吹き出して軽くむせた。
それと同時に「食べ物を粗末にするな」と三度目のチョップが飛んでくる。
「マスターもさっきの会話を聞いてたでしょ……俺はローラさんにとって良い友達です……」
「今はな……」
そう言ってマスターは真剣な表情を浮かべて続ける。
「男と女って言うのは一緒に居れば居る程そいつの事が気になって、好きになってくもんだ。だから、お前らもそうなる可能性は高い。だからだ……もしも本当にローラと一緒になりたいなんて考えているなら強くなれ。それも俺を倒せるくらいにな……」
「人を好きになるのにそんな力が必要なんですか?」
「大切な人を守る為には力が必要だろ?」
人を好きになるのは簡単だ。だがその関係を維持するのには力が必要だ。
マスターの言う大切な人を守る為の力。それは確かにこの世界では必要なのかもしれない。この世界じゃ武器はそこら辺で買う事ができ、魔法の使い方だって流通している。いつ誰かが襲ってきてもおかしくない状況が起きる可能性が無い訳では無い。
だからこそマスターは、ローラさんと一緒になる条件として強さを求めているのだろう。
「でも、俺は元の世界に帰るつもりですし。そもそも普通の人間がマスターより強くなれる訳がないですよ」
そう普通の人間は目に見える程の殺気を放ったりしない。
「お前、俺をなんだと思ってるんだ? 俺は普通の人間だぞ」
「えっ……人間だったんですか……」
「どこからどう見ても人間だろうが……」
「人の皮を被った化け物だと……」
その言葉を全て発する前にマスターの本日四回目のチョップが振り下ろされた。
「痛いです、マスター」
「痛いのが嫌ならおかしなことを口にしないことだな」
俺は不満そうな顔をしながら残りのパスタを掻き込んだ。
「ご馳走様でした」
そう言って俺は立ち上がり、休憩を交代しようとローラさんの方へ向かって歩き始めると後ろからマスターの声が聞こえる。
「そうだ、俺より強くなる方法が一つあるぞ?」
その言葉が気になり俺はマスターの方を振り向く。
「なに、簡単だ。お前も冒険者になればいい」
俺は困った表情を一つ浮かべ、何も言わずにローラさんの方へと向かって行くのだった。
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