第19話
六波羅さんの言葉がリフレインする。
君は本当に良い助手だね……君は本当に良い助手だね……君は本当に良い助手だね……
認められた!
これで本当に認められたんだ!
今回は六波羅さんの恋人、要はライバルに塩を送ってしまった形になる。
でもこれで良いのだ。昏睡状態の相手にアンフェアな戦いはしたくない。
たとえ六波羅さんが気持ちを取り戻したとしても。
それを上回る気持ちを僕が獲得すれば良いんだ!
僕はまだ見ぬ相手にメラメラと闘志を燃やした。
「あらあら~強奪? 寝取られ? 呑天ちゃんも罪だな~」
いつの間にか隣にやってきた御厨さんが僕の思考を読んだようだ。
まあ、今の状態なら六波羅さんには何も聴こえていないだろうから何を言っても平気だが。
「人聞きが悪いですよ」
僕が訂正しようとすると御厨さんがくすくすと笑う。
「これは面白くなってきたわ~しばらくこれで弄り倒……うまくアシストしてあげるからね」
「本音が漏れてますよ」
「うふふ。そうそう、約束果たしてくれてありがとうね」
「……僕なんかが六波羅さんの助けになれるなんて思ってもみませんでした」
「わたしは確信してたわ」
「偶然ですよ。たまたま、そう……たまたま六波羅さんと僕は、立場が両極だったから。だから互いの言葉が響いたんだと思います」
「それはもう運命じゃないの?」
「運命……?!」
僕は思わず顔が熱くなるのを感じた。中学生に戻った気分だ。
確かに、こんな偶然は有り得ない、かもしれない。奇跡みたいなものだ。たまたま僕があんな振られ方をして、六波羅さんは事件に遭って。互いの経験がうまく噛み合うなんて。更にこの探偵事務所に来なければ出会うこともなかったのだから。
これは本当に運命というやつなんじゃないか……?
「まあキミのお父様がこれを狙ってキミをウチに来させたんだけどね」
「最悪だ!」
僕の運命を返せ!
「キミと呑天ちゃんの経験がうまく噛み合ったのは本当に奇跡よ。でもキミのお父様からキミがこれこれこういう経験をして落ち込んでいるから何とかならないか、と相談されたのよ。キミのお父様には最初の案件で成り行き上、呑天ちゃんの経緯も話してあったし、それで思いついたみたいなのよね。互いに向き合うことができる立場の二人を会わせてみれば、何か良い化学反応が起こるんじゃないかって」
「それは何か実験されているようで嫌なんですけど」
「違うのよ、キミのお父様、本当に困り果てていたの。自分の力が足りないばかりに息子を励ましてやることもできない、情けないばかりですって言って頼み込んできたのよ。キミのことを本当によく思ってくれている良いお父さんじゃない」
それを聞くと、返す言葉が無かった。
僕は落ち込むあまり、周囲に耳を傾けていなかったのではないだろうか。冷めた目で斜めから世の中を見ていたけど、本当は何も見えていなかったのではないだろうか。
心が解凍されていく。
案外、自分のことを気にかけてくれる人はいるものなのかもしれない。自分がそう思っていないだけで。
よし、頑張ろう。根が単純だからこれで良い。
「あ、小説が出来上がりみたいですよ」
安辺さん達が怪訝な表情を浮かべる中、六波羅さんの小説は書き上がった。今、六波羅さんは外の車で印刷をしてきている。せっかくなので休憩室から場所を執務室へ移した。中垣さんのデスクの周囲に全員が集まっている。
部屋の外から足音が近付いてきた。六波羅さんだ。
ここで僕は助手としての小さな、そして大事な仕事を果たす。
「みなさんにお願いがあります。これから何が起こっても、決して怒らないで下さい」
この言葉は絶妙なタイミングで言わなければならない。今がその時だ。
安辺さんを始め全員首をかしげるような感じだったが、すぐに分かるだろう。
六波羅さんが袢纏を颯爽となびかせやってきた。その手には原稿が握られている。
待ちに待った小説が、届けられた。
「さあ、読んでくれ」
中垣さんのデスクに原稿が置かれる。紙とインクで構成されただけの物体、だがそれがとても神々しい輝きを放っているように見えた。まさにこれは宝箱の中に入っていた宝物ではないだろうか。原稿とは、宝物なのだ。
僕は宝物に接する態度で原稿におずおずと手を伸ばす。
そして、遂に事件の真相が明かされた。
〈耕平はビルを見上げて呟いた。これで良い。そしてビルの入口を見て呟いた。これで良い。それから踵を返してからも、呟いた。これで良いんだ。
これで清算できる。
耕平の頭の中は、これからしばらく職場を去ることへの罪悪感と、自分の悩みを清算できる安堵という全く違う感情がぼこぼこと湧き出していた。プラスの感情とマイナスの感情を同時に持つのは不思議なものだ。だが人間とはそういうものだろう、と思う。一つの方向性しか向けないとか、完全なる一貫性とかは、少なくとも俺の中にはない。常に矛盾を抱え、もがき苦しみながら微かな希望を持って生きていくのだ。
ビルから離れるにつれ、外の空気の冷たさに気付く。頬を撫でる風が冷たい。手がかじかむような空気が冷たい。晴れた空が冷たい。
このパスワードは解けるだろうか?
可能な限りヒントは残してきた。辿り着けるはずだ。
でも、辿り着けなかったら?
ついビルを振り返ってしまう。もう少しヒントを残してきた方が良かったか。でも簡単すぎるのはよくない。これには、意味があるのだから。
ぐずぐずしていると未練が体に巻きついて足が鈍ってしまう。最悪引き返させてしまう。それでは駄目だ。
思いを振り払い、心を鋼にする。そして駅に向かって歩を速めた。〉
同じ言葉を集中的に配置する、独特な技法。
どうやら中垣さんがクローズアップされているようだ。そしてこのシーンは、弐平さんにヒントを伝えた後、まさに失踪しようとしている時だろう。『清算』とは何か。弐平さんとのうやむやを清算し、プロポーズするとか? いや、でも指輪を渡すというパスワードは間違いだった。じゃあ正反対に、きっぱり関係を終わらせるという清算か?
それがこの後、徐々に明かされていく。
〈耕平は亜果莉のことを大事に思っていた。
しかしそれは『好き』ではない。
好きになってはいけないのだ。
何故なら、亜果莉には彼氏がいるのだから。
刈葉候周という、彼氏が。〉
「えええっ?!」
僕は大声を上げてしまい、そして驚いているのが僕だけだと気付いた。周囲を見回すと、社員のみなさんは『何を今更』みたいな顔をしている。資島さんが周囲に囁いた。
「誰も教えてなかったんですか? わたし、てっきり教えてあるものだと思ってました。だって弐平さんと中垣さんのデートの話を知ってたし。刈葉さんが彼氏なのに……って話は当然伝わっているものかと」
「僕もそう思ってました」「私も」
州輪さんと土能さんも同意する。刈葉さんが頬を掻いた。
「済まない、僕が説明した時に中途半端に教えてしまってた……」
そうか、そういうことか。僕達が刈葉さんに教えてもらった時は『彼氏がいるのに弐平さんは中垣さんとデートした』とだけ聞いていた。その時、彼氏が誰かという話にはならなかったのだ。僕達の頭の中では、社内の人間が彼氏という可能性よりも外部の可能性を自然に信じていた。だって社内の人間が彼氏なら、名前で教えてくれるだろうから。しかし説明者の刈葉さんが彼氏本人だったことが災いした。刈葉さんも自分が彼氏であるということは気恥ずかしさがあって言えなかったのかもしれない。だから彼氏の名前が示されなかった。たぶん資島さんとかに教えてもらっていたら、刈葉さんの名前が出てきただろう。
でも、何故六波羅さんはこれを見抜けたのか。それは後で訊こう。
〈耕平は不思議に思っていた。亜果莉は今でこそ普通に、いや親しく会話してくれているが、最初はずいぶんとむっつりしていて、避けられていると感じていた。それはだいたいの人が同じ反応なので、それを別段気にもしていなかった。
耕平は完全な効率主義者である。だから口数も少ないし、そっけない。すると自然に、敵意を剥き出しにしてくる者が現れる。だがそれもさして重要視していなかった。仕事に私情を持ち込むのは効率が悪いのに、程度にしか考えていなかった。亜果莉と一緒に仕事するようになると、他の人と同じ通りの反応を見せ、やたらと対抗心を燃やし、くってかかってきた。仕事上の話では質問を連発し、何とか言い負かしてやろうという気概も見てとれた。そんなことがしばらく続くと、だんだん亜果莉は無口になっていき、冷戦状態になった。それでも仕事だから必要最低限の、極めて事務的な会話は交わす。人間関係としては最悪だが、この状態は非常に効率が良かった。最低限のやり取りで完成を目指せる。
だが、いつの頃からか亜果莉の態度が一変した。いったい何の心境の変化があったのか。耕平は考えてみたものの、そうした心の機微に疎いので分からなかった。いつも敵意や悪意ばかり向けられていたので、好意的に接せられると、逆にどうしていいか分からなかった。積極的に話しかけてくる亜果莉は魅力的だが、どうも裏があるのかと思ってしまう。昼にも時折誘われたので、どうしたものかと思いつつも、断る理由がないのでついていった。
会話を重ねていくと、亜果莉はますます笑顔が増えていくようだった。ますます好意的に話しかけてくるようになった。
耕平の中に引っ掛かりはあった。亜果莉には候周という相手がいるはず。別に好きとかそういうことを言われたわけではない。でもこうして話しているだけでも候周にしてみればおもしろくないのではないか。〉
緊張感が高まってくる。中垣さんと弐平さんは仲良くなってきた。そして中垣さんが心配していることは、恐らくこの後で現実のものとなってしまうのだろう。
修羅場を想像してしまい、ページを捲る手に力が入る。ためらいが生まれる。読むのが少し怖い。でも読まないといけない。
〈そんな心配が不幸にも結実してしまったのが、【赤あど】での事件だ。亜果莉に誘われ夕食を共にしていたら、最悪のタイミングで候周が入店してきたのだ。いや、タイミングというか最初から尾行されていたのかもしれない。激高した候周と泣き出す亜果莉を宥めるのが大変であった。
それからというもの、露骨に周囲からの風当たりが強くなった。耕平は慣れているものの、亜果莉まで肩身の狭い思いをしなければならないようだった。それを不憫に思った耕平は、これ以上亜果莉の状況が悪くならないように接触を控えた。会話もよほど周囲に誰もいない限りは最低限に留めた。いわば、『元に戻った』と言えよう。これならもう候周にも怪しまれないはずだ。
だが候周は疑り深かった。しばらく経ってもいっこうに亜果莉を許そうとしない。亜果莉と候周の仲には、低音火傷みたいに長く残る傷跡ができてしまったようだった。亜果莉は俯いて過ごすことが多くなった。
耕平は仕事の合間に考える。これは自分の責任だ。自分が候周に遠慮し、亜果莉の誘いをことわっていれば良かったのだ。
だが、亜果莉の事情を知っている以上、相談に乗ってあげたかったのも事実。亜果莉は今、不安定だと打ち明けていたのだ。候周との結婚を考える時期に入っていた亜果莉は、この先この人と何十年、連れ添っていけるだろうか、という思いで支配されていたようだ。時期は早いがマリッジブルーのようなものだろう。重大な選択をしようとしている時、本当にこの選択肢で良いのかと考え込んでしまっているようだった。そしてその不安定な状態を、候周に打ち明けるわけにはいかない。別の人に頼り不安を和らげたいという希望だった。だから耕平は色々とアドバイスした。自分で良ければ、と。これがまさか、候周と亜果莉の仲をぎくしゃくさせてしまうとは。
亜果莉は候周から気が移ったわけではないはずだ。それを候周に伝える手段はないか。耕平は悩んだ。自分がいくら言葉を重ねて説明したところで、候周が納得するはずがない。亜果莉からの説明も、見たところ功を奏してはいないようだ。二人は結婚も考えているという時期であったのに、これではいつまで経っても前に進めないだろう。
こんなことで二人が破局したら、あまりにも悲しいではないか。互いに好き合っていて結婚まで考えているというのに、たった一つの疑念が二人の築き上げた思い出を瓦解させてしまうというのか。
それはなぜだか、あってはならないような気がした。彼らは幸せになるべきだ。
それから考えに考えて、考え抜いて。
この関係を清算しようと決めた。
ここを去ると。
候周に言葉は届かない。それは確証がないからだ。まだ隠れてこそこそ亜果莉と耕平で会っているんじゃないのか、と疑っているのだ。
だが耕平が去ってしまえば、候周も確証が得られるだろう。もう亜果莉と耕平には、何の心配もないのだと。
だから耕平がここを去るのは、己の仕事の才能を知らしめるためではない。亜果莉に愛を伝えるためでもない。
ただ亜果莉と候周の幸せのために、去るのだ。〉
重苦しくて何とも言えない空気が広がった。次々と明かされる意外な真実に、圧倒されそうになる。いや、刈葉さんなんかは完全にノックアウトされていた。刈葉さんは頭を抱え、気力が尽きたように床にへたりこんでしまう。
「僕はいったい何をしていたんだ……」
搾り出すような声は本当にからからになった喉からやっとの思いで出てきたようなものだった。そこには後悔や情けなさや、色んな自責の念みたいなものが滲み出ていて、聴いているこちらまで悲しくなりそうだった。今になってようやく、誤解が解けたのだろうか。
刈葉さんの様子を見るだけで、この小説が真実を表しているのが分かった。六波羅さんは確か『中垣さんの思いに届かないといけない』というようなことを言っていた気がする。彼女はちゃんと届いたのだ、中垣さんの思いに。これだけ多くの人の思惑が絡み合う中でそれぞれの証言が複雑に正解を隠していたが、六波羅さんは見事にかいくぐって辿り着いたのだ。誰も気付くことのできなかったところを見出したそのプロファイリング能力は凄まじいとしか言いようがない。
その後はしばらく中垣さんの仕事に関して書かれていた。特に仲が悪かったのは公指さんや土能さんで、次に州輪さんと資島さん。刈葉さんもそうだ。そういえば、主にこの五人が中垣さんに批判的だった気がする。仲が悪いということが、彼らの証言にフィルターをかけてしまうことになってしまったのか。
そして、彼らに嫌われていることを知りながらも、中垣さんは彼らの成長のことを気にかけていたらしい。そのことで阿藤さんとはよく話し合ったようだ。阿藤さんとは微妙に合わないところがありつつも、互いを認め合っていたとか。確か、誰かの証言で『中垣さんが提案したけど阿藤さんに却下された』ような事案があった気がする。微妙に合わないところもあるというのは、そういうことだろう。まあ、そもそも完璧に合う人なんてのはいないと思うが。
何だかみんな複雑な表情になってきた。中垣さん、誤解されすぎだったんじゃないか。
読み進めていくと、遂にパスワードのところになる。
再び緊張感が高まった。一気に鼓動が速まる。みんなが身を乗り出した。
いったい、順位表はどう読むのだろうか?
それが今、明かされる。
〈耕平は死に物狂いで仕事に打ち込んだ。連日徹夜もいとわない姿勢だった。今の仕事を納期よりだいぶ前に終わらせる必要がある。
片手間で独自のパスワードロックのシステムも作った。
そして、全ての準備が整った日。
耕平は亜果莉に最大のヒントを与えた。
『偶然で素敵な奇跡』『二人で頑張れば』という二つのキーワードだ。
まず『偶然で素敵な奇跡』だが、耕平は完成した順位表を見て奇跡を感じたのだった。
これは特にパスワードのために作った順位表ではない。あくまでみんなが今どれぐらいの実力で、どういうところを目指せば良いのか、といった指針になれば良いと思い作ったものだ。各人には断片的に順位を教えてあるので、それを繋ぎ合せれば完成するだろう。
順位表の見方はこうだ。
【1位:阿藤瑛都(あとうえいと)】
【2位:刈葉候周(かりばこうしゅう)】
【3位:安辺大衛(あんべだいえい)】
【4位:土能夕香(どのうゆうか)】
【5位:公指慶太郎(こうしけいたろう)】
【6位:州輪真査緒(しゅうわまさお)】
【7位:市野鉄太(いちのてった)】
【8位:壱松隆弘(いちまつたかひろ)】
【9位:弐平亜果莉(にひらあかり)】
【10位:資島叶多(ししまかなた)】
全員の漢字の先頭一文字を繋ぎ合せると。
『阿・刈・安・土・公・州・市・壱・弐・資』
これを平仮名にすると。
『あ・かり・あん・ど・こう・しゅう・いち・いち・に・し』
これはまさに奇跡だ。
『亜果莉&候周1124』になるのである。
亜果莉から相談を受けた時、亜果莉と候周が付き合い始めた日が十一月二十四日だということは聞いていた。二人が結婚を考えているのなら、その日を思い出してくれ、二人の思いが通じ合った日を思い出してくれ……そんな願いを込めるには最適なパスワードではないか。
だからパスワードは次のどれかである。
【Akari&Kousyu1124】
【akari&kousyu1124】
【Akari&Kousyuu1124】
【akari&kousyuu1124】
『二人で頑張れば』きっとできる。
亜果莉と候周の二人で、頑張れば。〉
胸の中に不思議な気持ちが渦巻いてきた。
中垣さんは、最初はみんなの話を聞いて凄く嫌な奴だと思った。仕事のできる自分を鼻にかけて、プライドが高く迷惑な感じの。でもここに表された中垣さんの胸中はどうか。そんな風に嫌われながらも、他人の幸せを願いここまでのことをしているではないか。これでは中垣さんのプライドの線で考えても、弐平さんとの恋愛の線で考えても、正解のパスワードは導けないはずだ。『十一月二十四日に【赤あど】で指輪を渡す』とか見当違いもいいところじゃないか。僕がカップルが喧嘩しているのを見て気付いたことを六波羅さんに伝えた時は、『中垣さんと弐平さんの付き合い始めた記念日』かと思っていた。でも六波羅さんはそのヒントから、『弐平さんと刈葉さんの付き合い始めた記念日』だと思い至ったのだ。
しかし、刈葉さんは何故その日を覚えていなかったのだろう。確か、刈葉さんと弐平さんは昼食の時【赤あど】でその話をしていたはずだ。刈葉さんは明らかに十一月二十四日のことを覚えていなかった。
ちらと刈葉さんを見てみると、頭を抱えて机に打ち付けていた。忘れていたのが一目瞭然。
ああそうか、これが大学の友人である医杉の言っていた話の通りか。男が記念日を忘れているのである。弐平さんはキレたりはしなかったが、悲しんでいたことだろう。
ページを捲ると最後の締めがあった。
〈耕平は全てを振り切るように会社のビルを出た。
しばらくは不安とか、仕事に対する未練とか、そんなものがあって落ち着かなかった。
でも駅に着く頃には、清々しい気分になっていた。
どうか、幸せに。
二人はまだ、好き合っているんだろう?
だったら、もう前に進むべきだ。
汚点となった自分は、このまま悪役として消えるから。
だから、どうか幸せに。〉
沈黙が降りた。
誰がこの真相を予想できただろう。ただ一人、六波羅さんだけがこの真相に辿り着いた。中垣さんの名誉が守られた。悪役を一手に引き受けて身を引くなんて。
僕は震える手でキーボードに手を這わせた。
六波羅さんの小説の正しさを証明しないといけない。中垣さんの思いを証明しないといけない。それは他のみんなも同じようで、熱い視線が集まってきた。
一文字ずつ、ゆっくりと入力していく。何度も確かめながら。
キーを押すたびに緊張が高まる。このパスワードで通れ、通ってくれ。
【Akari&Kousyu1124】
最後まで入力し、エンターキーに指を置く。
通れ、通れ!
誰かが僕の肩に手を置いた。他の誰かが僕の背中に手を置いた。まるで僕が切り札を握っていて、他のみんなが僕に願いを託しているかのよう。僕の肩や背中に置かれた手はぎゅっと握り締められ、思いまで伝わってくる。
全員が心の中で叫んでいるのだ。
いけ! 通れ! いけ!
僕はエンターキーを押し込んだ。
いけ!
画面に変化が起きた。
パスワードロックは、解除された。
割れんばかりの歓声、拍手。スペースシャトルの打ち上げが成功したみたい。
僕の体はがくがくと揺さぶられ、抱きつかれ、握手を求められた。僕は放心してされるがままになる。
ああ、良かった。
これで六波羅さんの小説の正しさが証明された。
そして中垣さんの思いも伝えることができた。
少しだけ冷静さを取り戻すと、本当の立役者である六波羅さんの姿を捜す。彼女はみんなから少し距離をとったところで微笑していた。誇らしげにウニをお手玉している。
「六波羅さん、どうやって弐平さんと刈葉さんが付き合っているって気付いたんですか?」
僕が尋ねると、彼女は怪訝な顔をした。
「最初の段階で刈葉さんと弐平さんのやりとりがおかしかったじゃないか。刈葉さんは弐平さんを押し退けるように出てきた。これは同僚という関係では成り立ち難いし、友人という関係でもなさそうだ。例えば、親密であるけど喧嘩中、といった関係性であれば成り立つのではないかと思ったのだよ。その後の二人の証言も特徴的だ。弐平さんは刈葉さんの話をする時に一度も『さん』を付けなかった。刈葉さんが弐平さんの話をする時も一度も『さん』を付けなかった。我々が来た最初の頃は他人行儀に『さん』を抜くのは分かる、しかしある程度話していると、誰しもが誰かの話をする時に『さん』を自然に付けていたと思う。その段階になっても弐平さんと刈葉さんは互いに『さん』を付けなかった。ここには個人的な感情が介在していないはずがない。中垣さんを嫌っている人達が中垣さんに『さん』付けしないのも個人的な感情が介在していたからだろうしね。【赤あど】に二人で来ていたのも重要な要素だ。それから弐平さんと中垣さんのデートを見つけたのが刈葉さんだということもね」
そう説明されると、よく考えてみれば刈葉さんと弐平さんの関係を示す情報は沢山あったのだと分かる。僕が鈍感だったようだ。
誰かが大声を上げた。それから全員が部屋の入口の方へ向き直る。何だと思って僕も振り向くと、そこには弐平さんの姿があった。六波羅さんが真実を教えれば帰ってくるはずだと言っていた気がするけど、ちゃんとメールで伝わってくれたようだ。
刈葉さんが飛んでいき、弐平さんを抱き締めた。
「済まなかった! 僕が悪かったよ!」
二人の止まっていた時間が、再び動き出した。そんな気がした。
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