第18話

 僕は最初、何が起こっているのか分からなかった。悲鳴が六波羅さんのものだと理解するのにも時間を要した。彼女が取り乱すことなんて見たことが無かったから。

 六波羅さんは震える手で口を押さえ、指の隙間からは血が零れてきた。

 最初の案件で椅子から転げ落ち救急搬送されたと聞いてはいたが、いまいち現実感が無かった。目の前の光景を見て、初めてそれが現実のことだったのだと理解した。

「六波羅さん!」

 僕は駆け寄り、彼女の肩を支える。彼女はもう椅子に座っていることもできなそうだ。転げ落ちる寸前だった。

「まずは呑天ちゃんを横にしてあげて。それでコートを枕代わりに……」

 御厨さんの指示で僕はゆっくり六波羅さんを床に降ろす。それから僕のコートを枕にしてあげた。六波羅さんは全身に力が入り、握り潰すような勢いで額と口を押さえていた。

 オロオロする僕をよそに御厨さんが自販機で水を買い、それを僕に渡す。僕はそっとペットボトルを近付けると六波羅さんは口を押さえる手をどける。唇の周囲に血をこすった跡が残り危険な感じがした。ゆっくり水を飲ませると六波羅さんは口を開いた。

「血を吐いたわけじゃないから安心して良いよ……頭痛から気を逸らすために唇を噛んだだけさ……」

 そうだったのか。でもこんなに血が出るほどなんてよっぽどだ。いや……それだけ激しい頭痛なのか。他の痛みで紛らわせなければならないほどの。

 御厨さんは部屋を出て行ってしばらくすると氷嚢を持って戻ってきた。

 氷嚢を頭に載せると六波羅さんの全身から少しだけ力が抜けた。

 御厨さんはそわそわしながら言った。

「ダメそうなら言ってね、救急車呼ぶから」

 六波羅さんは苦しそうに呻きながらも首を振った。

「いや、今日中にパスワードを解かないといけないのだろう? 後もう少しなんだ、記念日が……記念日、が……うっあっああっ!」

「…………何か思い出しそうなのね?」

「そうだ、映像が、『彼』といる映像が、ぼん、やり……ぐっ!」

「無理しないで! 辛かったら良いのよ、無理に思い出さなくても……!」

 御厨さんが悲しそうな表情でスマホを握り締めた。六波羅さんはしばらくもがいていた。僕の腕を掴んできたが細腕からは想像できない力だった。

 十分もすると社員の人達がなんだなんだと休憩室に集まってきてしまう。

 御厨さんが慌てて社員の人達を部屋から押し出し、入口付近で状況説明を始めた。

 社員の人達からは『解けないからって演技でごまかすつもりじゃないのか』と御厨さんに詰め寄っている人もいる。

 何て心無いことを言うんだと僕は歯噛みした。

 だがその言葉に押されたように六波羅さんは起き上がろうとした。

「ダメですよ安静にしてないとっ」

「安辺さん達も余裕が無い……」

「あんな心無い言葉なんて気にする必要無いですよ」

「こちらの事情は彼らには分からないのだからいたし方ないさ」

 六波羅さんは震える手で椅子を掴み、這い上がって座った。まるで手負いの獣のような気迫だった。

 だがキーボードに指をかけた途端、それ以上進めなくなる。強く目を瞑り、何かを断ち切ろうとする。しかし頭痛が治まる様子は無かった。再びぐらりと体が傾いていく。僕は咄嗟に彼女の体を支える。それから床へ降ろした。

 入口へ目を向けると刈葉さんや土能さんなどが殺気だっている。御厨さんが抑えるのももう限界そうだ。

 六波羅さんは意識も朦朧とし始めていた。

 窓の外へ視線を移すと空がオレンジになってきていた。時間も無い。

 僕はスマホを固く握り締めた。

 安辺さん達の納期が守れない。

 案件に失敗すれば御厨さんと六波羅さんの信用も失われる。

 でも……

 僕はスマホのロックを解除し、救急車を呼ぼうと――

 だがそこで腕を掴まれた。六波羅さんが首を振る。

 僕は焦りで強い口調で言った。

「この状態じゃ無理ですよ……!」

「恐れだ」

「え……?」

 突然のことに僕は聞き返した。すると六波羅さんは掠れた声で語り始めた。

「思い出すことへの恐れだよ。だが何としても思い出したい。その相反する二つの気持ちが激しく衝突しているんだ。しかも独楽同士がぶつかる風に火花を散らして。それが強烈な頭痛を生み出しているのだよ」

「思い出したいけどそれが恐い……それは、いったい……」

「もう隠していてもしょうがないから教えよう。私が恋愛小説に拘るのは、

「……FBI元捜査官ですか?」

 何となく今までの話から、予想していた。FBI元捜査官が恋人で、その人を亡くしたから恋愛小説に打ち込んでいるのかもしれない、と。

 だが、六波羅さんは違う、と首を振った。

 あまりの衝撃に僕は絶句してしまった。

 恋人の記憶自体が無い?

 記憶が無いのに恋人?

 何がなんだか分からない。

 六波羅さんは続ける。

「順を追って話そうか。私はアメリカへ留学中、恋人ができたらしくてね。だがある日、事件に巻き込まれた。恋人の方は重傷、私はその傍で頭から血を流し呆然と立っていたらしい。私は記憶の大半を失っていた。だから傍で倒れている人があなたの恋人だと言われても、知らないわけだ。恋人になったことすら、名前さえ……忘れていたわけだから。恋人の方は心臓こそ動いているものの、未だに目を覚ましたことがないよ。これが、『恋を失った』ということさ」

「記憶を……失ったんですか……!」

 恋人がいたことすらも、名前さえも、失ったのか。

 六波羅さんは頷いた。

「小説を書いている時に、何かキーワードが引っ掛かればそれを取っ掛かりとして記憶が蘇るようになった。今回は『記念日』がキーワードだ。私は今まさにそこを書こうとしていたのだが、それを書けば私の記憶の扉も開いてしまう。それが堪らなく恐いのだ。思い出したい筈なのに、思い出すことが私の贖罪だというのに……!」

 そして六波羅さんは袖の中からウニを取り出した。

「これは、私の失った一部なのだよ。私がウニを持つのは、。まだ彼のことを一部しか思い出せていない謝罪の気持ちさ。私はたいそう彼のことが好きだったのだろうが、その気持ちが分からないんだ。この手の中にその気持ちが、無いんだ……」

 六波羅さんはウニを持っていない方の手の平を空虚に見詰める。

「今の私を見たら、彼は酷く悲しむだろうと思ってね。申し訳ないと思うしか無いのさ。いや、申し訳ないと思うのも相手に失礼かもしれない。悲しもうとして悲しめないのは思った以上に辛いものだった。自分は薄情なんじゃないかと思えてくるよ……」

 六波羅さんの抱える哀しみは想像を絶するものだった。

 申し訳ないと思うのも相手に失礼かもしれない。そう思ってしまうともう袋小路ではないか。気持ちの持って行き場が無い。逃げ場も無い。哀しみも辛さも奥底に抱えて表面では平気そうに振る舞うしかない。

「私の仕草や軽口がアメリカ映画っぽいと言われたね。それは何かを演じなければ生きていられなくなったからさ。事件当時、ミクりんが私を発見した時私は自失していた。それまで私がどう振る舞っていたのかも分からなくなっていた。表情を変化させることもできなかった。本当に何もできない私は事情聴取にも応じられない状態でね、そこで私はミクりんにどうすれば良いか尋ねたのさ。ミクりんが咄嗟に思いついたのが『誰かを演じること』だった。私は最初に駆けつけた警官を見て真似するようになった、演じるようになった。私という存在、まあ外面だけだがね、それを上書きしたのさ。こっちに戻ってきてからは過去の写真や家族との思い出話などによってある程度過去の私に近付いた筈だよ。その中途半端さが『映画っぽい』んだろうね、演じ始めた当初は完全に向こうの人間そのものだった」

 僕は唇を噛んだ。

 全てが留学時の事件に繋がっていた。恋愛小説のことも、ウニのことも、仕草や軽口のことも。

「僕が最初に何故恋愛小説を書くのかと尋ねた時、六波羅さんは衝撃的なことがあったと語っていました。それまでストイックなものを書いていたけど、衝撃的なことがあって変わったのだと。そして、それまでの旧作を破棄したのだと。プロ意識だと思っていた、それは……」

 僕は喋りながら胸が締め付けられていった。半ば答えが予想できるから辛いのだ。彼女の小説家という肩書きからしたら身を焦がす思いだったろう。

「恋愛小説を書いて彼の記憶を取り戻すためだよ。恋人のことなら恋愛ネタを書いている方がキーワードに引っ掛かり易い。それには断ち切るしかなかった。過去の作品が目に付いては後ろ髪を引かれてしまう。だから過去の私を……殺したんだ」

 六波羅さんは自身の襟の重なる辺りをぎゅっと握り締めた。

 予想通りの答えに僕の胸は苦しさで掻き毟りたいくらいだった。

 小説家としてはまさに自分を殺す行為だ。

 僕が最初思い描いていたのは決意の表情で旧作を火にくべる彼女の姿だった。でも本当は、涙を流しながら旧作を火にくべていたのだ。やむにやまれず原稿から手を離したのだ。

 六波羅さんは再び起き上がり、よろよろと椅子へ這い上がる。

「私は自分の恋を取り戻したい……それには書くしかないんだ! だが過去を取り戻すことに異常な恐怖を抱いている自分もいる。何か思い出したくない事実でもあったのかね。それなら思い出さない方が幸せなのではなかろうか? だがそれは自分勝手で、彼への裏切りになるのではないのか! 相反する思い、自問が永遠に続く……! そうして加熱した頭が激しい頭痛を引き起こし私を苛む! 誰か私を助けてくれ……! いや、分かっているさ、私が私を助けるしかないんだ。一刻も早く書き終らなくては……!」

 僕には彼女が刃の森を進むように見えた。進むほどに傷付いていく。満身創痍になりながらそれでも歩みを止めない。

 そんな彼女を僕は助けたいと思った。スマホを握る手に力がこもる。

 御厨さんは僕に、六波羅さんが困っていたら助けてあげて、と言った。

 僕にできることは何か。

 ……六波羅さんと最初に会った時の颯爽と袢纏を肩に掛ける姿に釘付けになった。

 僕でもできることは何か。

 ……見事な推理の後に展開される間違った恋の小話、六波羅さんの『うっさい!』に惚れた。

 僕がしてあげたいことは、何か……!

 ……六波羅さんは冷めていた僕の希望になってくれた!

 六波羅さんの言葉が思い出される。

『途中で変わったのさ。恋愛小説との出会いは衝撃的だった。私という存在を変えるくらいにはね。だからそれまでの作品は全て破棄したのだよ。今ではよく思い出せない』

 全て破棄したのだ。破棄せざるを得なかったんだ。そしてそんな辛さすらも隠して方向転換したことを告げなくちゃならないなんて。辛すぎるだろう。切なすぎるだろう。

 彼女の苦しみを、背負っているものを、分かち合えたら。

 それならば、僕のすることは、一つだ。

「六波羅さん、僕の話を聞いて下さい……!」

 声が若干震えてしまう。深呼吸しながら

 六波羅さんは手で顔を覆って痛みに耐えていた。返事は無いが聞いてくれるということだろう。

 僕の弱さがトラウマへのアクセスを何度も拒絶する。自分と向き合うのは痛いんだからやめておけ逃げた方が楽だと警告を鳴らす。無かったことにしようよと甘い囁きがこだまする。

 だがここで退くわけにはいかない。六波羅さんは過去を話したのだ、僕も話すべきだ。

 パンと自身の頬を張った。痛みと共に一瞬甘い囁きが止まる。そこを逃さず話し始めた。

「僕の彼女は、……!」

 すると六波羅さんが言葉に反応したように耳をぴくりとさせた。関心が向いた。

「正確には、まだ正式に彼女じゃなかったんですけど。大学受験する時のことです。僕には仲の良い女の子がいました。一緒に図書委員もやったし一緒にファミレスで勉強もしたし、息抜きだと緊張しながら遊びに誘ったらOKしてくれてカラオケや食べ歩きに行ったりして。はしゃぐとすぐに駆け出して振り返ってイエーイと意味不明なこと言って可愛らしい笑顔を見せたりする娘でした。花火を見に行った夜は帰り際に『ずっと一緒にいようね』って言ってくれて、同じ大学に行くことを誓いました。そしてキスまでしたんですが……」

 その後は受験に集中ということで遊びに行くことはなくなった。

 まあキスまでしたんだからもう彼女も同然だろうという気持ちがあった。

 でもそれは慢心だったと思い知ることになった。

 彼女はある日事故に遭った。ビルの看板の一部が落下し直撃したのだ。

 彼女は一部の記憶を失った。

 僕と遊びに行ったことも、もちろんキスしたことも。

 僕と仲良くなったという事実だけがすっぽり抜け落ちたようだった。

 しばらくすれば治るのではないかという医者の見立てだったし、淡い期待もあった。ドラマのお約束では必ず奇跡が起きるのだ。

 受験にも見事合格、彼女の記憶も僕が呼びかければ復活するのではないか。

 だから告白した。そうしたら……

『はあ? 何それ? ずっと一緒なんてあたし言ってないよ』

「……キモがられて激しく振られました。それから三日間は『はあ? 何それ?』が頭の中でリフレインし続けました」

 今では女性に『はあ?』って言われるだけで胃がきゅうって痛くなる。

 六波羅さんは聞いている内に手を顔から離し、腕組みしていた。頭痛が消えたかは分からないが、少なくとも苦痛に歪む状態からは脱したようだ。そして彼女はうわごとのように呟いた。

「気の毒だな」

 気の毒。そうか、そんな言葉があったか。さすが六波羅さんだ。家族に慰められた時も友人に慰められた時もそんなに気の利いた言葉を使う人はいなかった。

「もはや泣くより笑うしかないですよ……」

「しかし、君は『』だったか……」

 やはり六波羅さんは鋭かった。僕は彼女の背中に頷く。

「そうです。六波羅さんは『』で、僕は『』なんです。僕は忘れてしまった彼女のことを恨みました。薄情だと思っていました……でも、六波羅さんの話を聞いて救われました。六波羅さんは忘れてしまったことに哀しんでいて、しかも取り戻そうとしている。自分を薄情なんじゃないかと責めている……それを聞いたら、何だかあの娘のことも許せそうな気がしてきたんです。今まで僕は『忘れてしまった側』の気持ちが分からなかった。でも、もしかしたら……それは僕が相手のことを考えていなかったからかもしれない。六波羅さんがこれだけ苦しんでいるのだから、あの娘も表に出さなかっただけで、本当は苦しんでいたのかもしれません……」

「相手のことを考えていなかった……」

「そうです。六波羅さん、『忘れられた側』の僕が保証します。六波羅さんは薄情なんかじゃありません……! 『忘れられた側』から言わせてもらえば、思い出そうとしてくれるだけでも嬉しいですよ。『忘れられた側』が一番怖れているのは、相手の中から自分という存在が消え去ってしまうことです。でも、思い出そうとさえしてくれていれば、記憶がなくなっていても自分という存在が消え去っていないと思える……安心できるんです!」

 六波羅さんは遂に振り返った。その表情からは険しさや苦しさがすっかり抜け落ちて柔和なものになっていた。

「……『忘れてしまった側』が思い出せなかった場合は?」

「思い出せなかったら、もう一度思い出を作るという方法もあります。重要なのは、たぶんそこじゃないんです。忘れてしまったんだからもういいや、とそのまま放置されたりしなければそれで良いんです」

「そんな小さなことで安心できるものかい?」

「ええ。六波羅さんの恋人が羨ましいですよ。僕なら飛び上がって喜びます!」

 僕は言ってから、しまった、と思った。きわどいところだが、勘が働く女性なら好きだと気付いてしまうだろう。

 だが六波羅さんはこういうところには鈍感だった。

「そうか……君の立場でそう思うのなら、そういうものなのかもしれないな……!」

 僕の気持ちには一切気付かずうんうん頷く六波羅さん。ほっとしたような残念なような。

 六波羅さんはノートPCに向き直った。

 僕はその背中へ声をかける。

「六波羅さんの執筆は針山を歩く贖罪でなくて良いんです。文章でできた乗物で記憶を探す旅ですよ」

 小説家が相手なので限界まで想像力を働かせて言葉を紡いだ。

 六波羅さんは肩を震わせくつくつと笑った。そしてピアノの演奏を始めるかのように両手を空中で構えた。

「その乗物には運転手が必要だね。君が運転手であると書いておこうか」

 彼女の手が振り下ろされる。

 タンッと小気味良い音が響いた。

 止まっていた六波羅さんの『語り』が、遂に再開された……!

 六波羅さんは去り際に大事な言葉を投げ掛けるように。

「君は本当に良い助手だね」

 それから執筆へ没入して喋らなくなった。

 僕は腹の底から込み上げてくる嬉しさにガッツポーズをした。

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