第17話
弐平さんのデスクの前で立ち尽くす僕達。
刈葉さんがこちらを気にして、話しかけてきた。
「そういえば、弐平はけっこう前に出ていったままですよ」
六波羅さんが確認するように尋ねる。
「何分くらい前ですか?」
「あなた方がパスワードを試していた時だから、もう三十分くらいかな」
「そんなに戻ってこないものなんですか?」
「いや、あまりそういうことはないですけど。でも徹夜してる人も普通にいる職場だから、しばらくふらっと出てくる人もけっこう多いので、これぐらいの時間ならいなくてもみんな気にしません」
まあ、だらしないとか厳密に言えば駄目なことなんだろうけど、阿藤さんが午前中寝袋にはいっていたりしたのを見る限り、時間の感覚がなくなるような激務なのだろう。
だが六波羅さんは考える素振りで言った。
「パスワードを試していた時というと、弐平さんは顔面蒼白でしたね。単にふらっと出ていっただけでしょうか?」
すると刈葉さんは苦い顔になる。
「それは……でも、その内帰ってくるんじゃないですか?」
「弐平さんは中垣さんとのデートで後悔や反省の念に駆られていました。そしてパスワードを試す時『十一月二十四日に【赤あど】で指輪を渡す』という言葉を聞いた彼女は、後悔や反省が更に呼び起こされたとしても不思議ではありません。強くなりすぎた後悔や反省は、その人を追い詰めます。追い詰められた人は、どういう行動に出るか分かりません。刈葉さん、あなたは本当に弐平さんがちょっと出ていっただけだとお思いですか?」
まるで六波羅さんの言葉は諭すようなものだった。刈葉さんは頭を抱え「僕にどうしろって言うんですか」と呟く。まあ刈葉さんは弐平さんが好きなんだろうけど、刈葉さんとしてもどこまで干渉していいか分からないのだろう。
それから刈葉さんはおもむろにスマホを取り出した。そして電話をかける。相手は弐平さんだろう。繋がると、不機嫌な声で話し始めた。
「今どこにいるんだ?」
しかし電話の向こうから何やら返事があると、途端に刈葉さんは取り乱し始めた。
「は? おい、どういうことだ! 待て、今どこに……ああくそ、切れやがった!」
電話の掛けなおしをはかるが、しかしそれ以降は通じなくなったようだ。
しばらく沈黙が流れる。重く危険な臭いのする沈黙。
僕達の視線に耐えかねたのか、刈葉さんが搾り出すような声を出した。
「場所は分かりませんが、『ごめんなさい、もうそこにはいられない』と言って切れました」
危険な臭いはにわかに現実味を帯びてきた。さっき六波羅さんが言っていたことが思い出される。
追い詰められた人は、どういう行動に出るか分からない。
僕は手を握り締めた。次々悪い想像が浮かんでは消えていく。その中では最悪の結末さえ浮かんできていた。足腰に寒気と震えまで想像のせいで起こった。このままで良いのかといても立ってもいられない気持ちになってくる。
六波羅さんがこのどろりとした危険な臭いの中、真っ先に冷静な判断を下した。
「捜しに行きましょう。出てから三十分程度なので、歩いて三十分で行ける範囲を捜索。まずは弐平さんがよく使う道や店などから絞り込んでいきましょう。人は知らない道より慣れた道を選択する確率の方が圧倒的に高い。ただ、今の弐平さんの精神状態は不安定なので、闇雲に移動している可能性も有り得る。その場合捜索が困難になるでしょう。時間が経過するほど捜索対象範囲も広がります、即行動すべきです」
まるで歴戦の司令官。だれていたところに水をざばりとかけたように、みんなの動揺が緩和されていく。
次に御厨さんが指示を飛ばした。
「では捜せる人は捜索に協力して下さい。弐平さんの行きそうな場所に心当たりのある方は情報の提供をお願いします。わたしの電話番号を教えますので何かあり次第連絡を入れてください。それから呑天ちゃんはここに残って。あなたには成すべきことがある」
「分かったよ。弐平さんを見つけたらあることを訊いてほしい。その情報さえ手に入れば私は語り部となるだろう」
六波羅さんは頷いた。彼女の『成すべきこと』は瞬時に分かった。六波羅さんは小説を書かなければならない。弐平さんの情報が手に入り次第。
安辺さんの号令で、社員は全員捜索に協力してくれることになった。中垣さんの失踪後ということもあって、もう失踪者を出したくないという思いのようだった。ぞろぞろと集まった中で御厨さんがスマホに地図を表示し、指で円を描いた。
「歩いて三十分だと、このビルを中心にだいたいこれぐらいですね。人数がいるので、東西南北で分担して捜しましょう」
担当決めも終わると、早速僕らはエレベーターに直行。焦る気持ちでビルを出て散開した。
六波羅さんが弐平さんに訊きたいことも教えられた。それは単純なことだった。
『十一月二十四日が何の記念日なのか』
弐平さんと刈葉さんが【赤あど】で話していたのが、まさにその話だった気がする。その時は途中で話が中断し答えを聞くことができなかった。その答えが、事件解決の鍵を握っているという。
ここへ来て事件解決の鍵を失ってはならない。最悪の結末などにもなってほしくない。
六波羅さんは既に解答に手が届くところまで来ている。古代遺跡で宝がある部屋を見つけたみたいな状態だ。後は宝の部屋まで一直線。しかし、古代遺跡で宝の部屋と言えばトラップがつきものだった。まさか解答の入った宝箱を開ける鍵が行方不明になるなんて。
職場の近くだったので【赤あど】は当然調べた。店外の窓に張り付くようにして中を確認したので不審者と思われたかもしれない。でもこちらもそんな見てくれに構ってはいられない。それからぐんぐん足を伸ばし、担当である東側を捜索。悪い予想が当たりませんようにと難度も胸中で祈りながら街を駆ける。いちおうビルとビルの隙間にも視線を走らせる。こんな所に普通いるかね、と思うような所も今回は可能性があるのだ。精神状態が不安定な時というのはそれだけ行動も不安定になる。初めての失恋などした時にどこをどう歩いて帰ったのか分からないなどの話はよく耳にする。
時間との勝負のような気がした。時間が経てば経つほど弐平さんの移動可能な範囲も広がっていくし、パスワードも今日中に解かねばならない。既に時計は十五時を回っている。六波羅さんの小説を書く時間も考慮すれば余裕などない。今すぐにでも弐平さんを見つけ出して最後のピースを埋めなければならない。
商用ビルが立ち並び、スーパーや小さな公園などを通り過ぎる。住宅地もそれなりにあり、都心とまではいかない風情の街。時間的に出歩いているのは大半がスーツ姿。犬の散歩をしている人も見かける。いっそのこと犬を連れている人に弐平さんの特徴を教え、見かけなかったか尋ねてみようか。犬を連れている人は地元の人だろうし土地勘もある。でも土地勘がこの件に関して有効に働くだろうか? やっぱり関係ない気がする。見かける人は見かけるだろうしそうでない人はそうでないだろう。都心ではないとはいえ都会の一員でもあるこの辺で、果たして通り過ぎる人をいちいち覚えているだろうか。希望的なことを言うなら、今の弐平さんは不安定で危うげな空気を纏っていたりして誰かの目に留まり、印象に残っているのかもしれない。案外そこら辺の人に尋ねてみたら『ああちょっと危なげな歩き方してる女性がいたよ』なんて目撃情報が手に入るかもしれない。でも、そう思った直後に、そんなうまくいくわけがないだろうと思いなおす。特徴をそもそもどう伝えたら良いのか。写真でもあればわざわざそれを伝えなくても良いのだが。特徴を頑張って説明している間にもどんどん時間が経過してしまうのだ。
僕の担当で弐平さんが行きそうな場所というのは、フィットネスジムだった。幾つかの交差点を過ぎると、大きな看板が見えてくる。五階建てくらいのビルだ。暗雲立ち込めるという言葉の合致するかのように雲が張り出してきている。雨が降りそうなほど怪しい雲ではないが、こんな時だと空模様がこの先を占っているようで怖い。低いビルが並ぶ通りは人影がまばらで僕が進む歩道には前にも後ろにも遠くにしか人影なし。車道を挟んで反対側の歩道には数人のスーツ姿が見える。歩道に商品がせり出している棚を避け、足裏で地面を叩き続ける。息が弾み、次第に荒くなってくると頬に当たる冷たい風も気にならなくなってきた。視界はメトロノーム状態で右左右左。フィットネスジムの正面玄関に辿り着く。
入口脇には運動不足を楽しく解消できるという誘い文句がでかでかと書かれている。たまに運動するから既に息が上がってしまっていて、この誘い文句に乗って少しは体を動かしたほうが良いんだよなあと思う。こういう感想は年に数回は抱いている気がする。
中に入ってみると、すぐに受付があった。にこやかな女性と爽やかな男性が受付台で待ち構えている。勝手に動き回ると不審者になってしまうだろう。考えなしに来てしまったが、これはまずい予感がする。予感が的中しないように祈りながら受付の人に尋ねてみた。
弐平さんについて来ているか尋ねてみると、そういった情報は教えられないと冷たく返された。予感が的中してしまった。個人情報にこれだけ厳しい世の中だ、教えてくれるわけがないのだった。
がくりと顔を落とし、出る。いちおうこのことを御厨さんに連絡した。誰か会員の人が来れば中に入って調べられるんだろうけど。
その後は色んな路地を曲がり、蛇行しながら東を捜索していった。ぜんぜん見付からないとここが荒涼とした砂漠に思えてきたり、これがコンクリートジャングルかとか思えてきたり、気持ちがマイナスの方へ傾いていく。この街の中で一人の人間を見つけるなんて、できっこないんじゃないかと思えてくる。足の運びは鈍っていき、溜息も出てきた。
あっという間に三十分、一時間と経過していった。
「ああくそ、まだ誰も見つけてないのか?」
スマホを見ても御厨さんからの連絡はなし。代わりに医杉武瑠からのメール受信があった。大学の友人だが、今はこのメールを見ている場合ではない。
走る気力が失せ、ビルの壁に寄りかかった。途方に暮れる。
捜索開始時は歩いて三十分圏内が対象だったが、そこから既に一時間以上経過した。捜索範囲も二倍、三倍の距離に膨れ上がっている。もはや見つけるのは不可能に思われた。タクシーや電車で、既に家に帰っているのかもしれない。誰かが弐平さんの家に行った方が良いのではないか。
なんか、最後の最後で駄目になってしまった気がする。古代遺跡の宝箱を見つけたは良いが開けられない。宝を目の前にして手をこまねいていることしかできない。
安辺さんには申し訳ない。社運がかかっているんだったか。納品すべきゲームが納品されないとなると、どんな修羅場になってしまうのだろう。うわあ、想像したくない。
そのままずるずると座り込んでしまいそうになった。気力が完全に抜け落ちてしまい、補充できない。何かポジティヴなことを考えたりしないと体すら満足に動かせそうにない。でもポジティヴな考えなどこの状況でどう浮かんでくるというのか。
ヤケになったみたいにイラついた言葉さえ出てきた。
「何だよ、クソッ……こんな終わり方、ありかよ……!」
目の前に映る街並みが弐平さんを隠しているみたいで恨めしく思えた。いっそ全部のビルがなくなって更地になってしまえ、捜索の邪魔だ。
ああ、もう。
そんな時、視界の端に一組の男女が映った。何やら言い合いをしている。うるさいなあ。
もはや全てが捜索の邪魔みたいに思えているので、目を眇めてそちらを見やる。
「あのさあ、あんた今日が何の日か覚えてないの?!」「えっと、覚えているよ、ほらアレだろ、アレ」「アレってどれ?」「アレだよアレ、オレオレ」
女の方が問い詰めているが、男の方が半笑いで流そうとしている。女が蹴った。
「なにがオレオレだこの詐欺師!」「いてっ折れた! だから許して!」「何であたしの誕生日覚えてないんだバカ、死ね!」
最後はハンドバッグでの強烈なビンタ。男が悶絶して蹲る。
うわあ、と思った。男の方が彼女の誕生日を覚えていなかったようだ。大学の友達に言われたが、女性の方は記念日にうるさいらしい。
そういえやそれを教えてくれた大学の友達こそ医杉武瑠だった。メールの受信直後に医杉にまつわる話が目の前で実現するとは。ああでも、彼から教えてもらったのは別だった気もするが。
記念日か……弐平さん、十一月二十四日とは何の日なんだ?
誕生日ではないらしいんだけど。
と、頭の中で何かが引っ掛かった。
ずっと分からなかったパズルが、諦めて風呂に入っている間に『あ、あれはもしや!』と閃いてしまったような。
医杉から教えてもらったことは、何だった?
『俺、実家から通ってるんだけどさあ、俺も一人暮らししたくなっちゃったよ。姉貴がいるんだけどうるせえの。彼氏と付き合って一年になるんだけど向こうが付き合った記念日を覚えてなくてキレたらケンカになったとかで』
『へえ、そんなことでケンカになるの?』
『そう思うだろ? だから俺もそう言ったんだよ。そんなことでキレるなよって。そうしたらそこで姉貴がキレちゃってさあ何故か俺が説教くらった。正座で恋愛とは何かとかいう講義を聞かされてさあ参ったよ。だから君も気を付けなよ、付き合った記念日はメモしておいた方が良い』
これは……
付き合った記念日はメモしておいた方が良い。
…………そうだ、これだ!
中垣さんは、これを覚えていて、パスワードに設定したんだ!
この閃きがもしかしたら宝箱を開ける代替の鍵になるかもしれない、そう思うと手が震えてきた。そんな状態でスマホを操作し、取り落としそうになりながら御厨さんに電話する。そしてそれを伝えると、いったん六波羅さんに伝えるからといって切れた。そうしたら今度は知らない番号からかかってきた。状況から浮かんだのは、六波羅さんだが。出てみると、やはりそうだった。
『よくやってくれたね! 弐平さんから聞けたわけではないが、それが最後の鍵だろう。今、私は語り部となった。この舞台は複雑に張り巡らされた思惑が絡み合い舞台袖を厳重に隠していたが、その糸も全て解すことができた。ああ、ストーリーが組みあがったぞ。私に……語らせてくれ!』
ずっと聞きたかった六波羅さんの言葉に鳥肌が立った。そうだ、この言葉を聞きたかった。六波羅さんがこう言った以上、遂に事件を解決に導く小説ができあがる。
電話は切れた。僕は嬉しさを抱き締めるように思い切りスマホを抱き締め、
「うー…………やったあ!」
十年ぶりくらいのガッツポーズをした。
そして安辺さんの会社のビルへ踵を返し、走りだした。
やった! やった! 助手としてこれほど良いパス出しはないだろう!
自分自身で『良い仕事した!』と褒めてやる。他人に褒められることが滅多にないから自分で褒めてやる癖がついていた。
失われた鍵、でも新たな鍵を作りだし、宝箱を開けることができた。
さっきのカップルが不審者を見る目をしていたけど、全く気にならない。早く戻って、六波羅さんの小説を読もう。
僕はビルに戻ると大急ぎでエレベーターに飛び乗った。待ち遠しくてボタンを連打してしまう。休憩室に入ると、そこにはノートPCを前に執筆中の六波羅さんがいた。御厨さんも既にいた。どうも御厨さんの息が全く乱れておらず疲れた様子もないのが気になるが、この際そこは触れないでおく。
熱中している六波羅さんには話しかけないのがマナー。こちらはじっと待つだけだ。僕は疲れているので、自販機でジュースを買っててきとうに椅子に着いた。御厨さんがにこにことして労ってくれる。
「やったじゃない、大金星ね」
「いや、たまたまというか……でも、けっきょく弐平さん見付かってないんですよね?」
「電話が通じないから、メールは出してあるわ。呑天ちゃんのメッセージが伝われば、必ず弐平さんは戻ってくるはず。弐平さんもわたし達も、勘違いしていたのよ」
「え、勘違いですか?」
僕はジュースを飲む手を止めた。どこを勘違いしていたのだろう。
そんな時だ。
「あぐっ……ああっ!」
突如として悲鳴が響き渡った。
何だろう、社員の誰かが仕事のしすぎで倒れてしまったのか?
阿藤さんのミノムシを見たりしたから、真っ先に思いついたのがそれだった。
だが休憩室を見回してみると、違った。
悲鳴を上げ苦しんでいたのは、六波羅さんだったのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます