第16話
僕らから三つ離れたテーブルに、弐平さんと刈葉さんの姿があった。話声は集中すればかろうじて聴こえてくる。
「資島さんから聞いたよ」「何を?」
刈葉さんが会話を主導し、弐平さんが応じるような形だ。
「十一月二四日にここで中垣から何かあるんだと。パスワードを解読したらそうなるらしい」
「え、そんな……」
「十一月二四日って、なに? 何の日なの?」「え、それは……記念日だよ」
「は? あいつとの?」
何だか不穏な空気が流れているようだ。聴き耳を立てるのも下世話な気がしてくる。ただ、今は探偵事務所のアルバイトとして調査中の身でもある。情報は集めないといけない。
と、そこで刈葉さんが周囲を見回し、こちらに気付いた。そして咳払いすると黙りこくってしまった。
六波羅さんが短く「出よう」と言って席を立つ。これ以上ここにいる必要はないし、いても不審がられるだけだろう。
近くの喫茶店に移動し、僕らはさきほどの話について分析してみた。
ウニを弄びながら六波羅さんが口を開く。
「十一月二四日は記念日だと言っていたね」
「記念日ってなんでしょうね。いちおう誕生日も記念日と言えますけど。さっきの話からすると、他の可能性も有り得るってことですかね」
僕の話に六波羅さんが頷いた。
「『あいつとの?』と刈葉さんが訊いていたね」
「『あいつ』とは中垣さんのことでしょう。ということは、弐平さんと中垣さんの何らかの記念日がある、ということですかね」
「刈葉さんはそう思っているようだね。弐平さんは口ごもっていたが」
六波羅さんは目を瞑り、微妙な言い回しをした。しかしどことなく自信のようなものが表情から感じられ、かなり小説を書く段階に近付いてきたという印象を受けた。たぶん彼女の中でストーリーが組み上がりつつあるのだろう。そんな印象が合っているかどうか、僕は確かめたくなった。
「もしかして、もうかなり視えてきました?」
すると、六波羅さんは口の端を持ち上げた。
「君は良い助手だね」
直接の回答はなかった。でも、これは肯定と受け取って良いんじゃないだろうか。しかも、褒めてくれた。六波羅さんの隣というポジションをこれで確立できたのではないだろうか。
「刈葉さんって中垣さんの話になると怒りっぽいですよね。これってあれですか、刈葉さんって……弐平さんのことが好きなんですかね? ご飯を一緒に食べているのもそうだし、中垣さんの話になると怒るのも対抗心だったら説明がつくような気がするんです」
別に男女が一緒にご飯に来ているというだけで色恋沙汰に結び付けるつもりはない。でも、仮にここで六波羅さんが別の男の話ばかりをしていたら僕だって対抗心が芽生えるだろう。そうした根拠あっての推測だ。
果たして六波羅さんは、僕程度の推測をどう思うだろうか。稚拙と笑うだろうか。
そんなことはなく、彼女は淡々と言った。
「好きである可能性は高いと思うよ」
ただ、ちょっと考えながら、という感じなので含みを持たせていた。微妙に僕とは違うことを思い描いているのかもしれない。
まあ、そこら辺は事件解決時に小説で教えてくれるのだろう。それを先に訊き出すのは小説のネタバレとなってしまうので六波羅さんに失礼だ。ここは我慢。僕の役目はひたすら彼女が閃くために情報を提供し続けることだ。
それから六波羅さんは視線を落としながらウニをお手玉し、深い思考に入った。喫茶店はお昼休みぎりぎりまでくつろいでいようという客で賑わっており、その波が引いてしばらくするまでずっと六波羅さんは黙考していた。
お昼から戻ると休憩室の寝袋はなくなっていた。阿藤さんは仕事に戻ったようだ。
まだじっくり話ができていないのは阿藤さんと市野さんくらいか。そう思い休憩室の出口を見張っていると、市野さんがコンビニ袋を提げて通りかかった。ちょうど良かったので声をかける。市野さんはけだるそうにしながら僕達のテーブルへやってきた。
「これから食べようと思ってたんで、食べながらで良いですか?」
どうやらマイペースな人のようだ。こちらとしては情報が聞ければそれで良いので問題ないが。提案を快諾すると、市野さんはコンビニ袋から冷やしラーメンとおにぎりを取り出した。
こちらとしては尋ねることは決まっている。中垣さんにまつわるエピソードが何かないか、訊いてみた。
すると、市野さんはこちらを向くでもなく淡々と食事しながら答えた。
「俺は他人がどうだろうと何も思わないタイプなんで、中垣さんについてもこれといって無いです。普段どんな仕事しているかも分からないし。ただ、失踪の一週間前くらいからけっこう徹夜していたみたいですね。俺が通りかかった時『もうこうするしかない』って鬼気迫るような感じでした。それがパスワードと関係あるかは分からないですけどね」
新たな情報。どうやら中垣さんは失踪前にけっこう徹夜していたようだ。それはこう推測できる。失踪の準備はその時進められていた。『もうこうするしかない』という言葉を漏らすことから、切羽詰まったような、追い詰められたような状況だったのだろう。追い詰められた状況というのはつまり、デートで見付かってしまった後のことだ。ただでさえ周囲とうまくいってなかった中垣さんは、デートで見付かってしまった後は更なる軋轢が生まれて精神的に追い詰められる状況になっていたのではないか。その中で、ここからいっそ消えてしまいたいという思いが醸成されてもおかしくない。ただ、弐平さんへの想いだけは伝えておきたい……そこでパスワードという形で残すことにした。徹夜が続いたのは独自のパスワードロックを作るため。
そんな風に考えると、全て辻褄が合うような気がした。
ただ、だからといって順位表の読み方が解明されるかというとそうでもない。もっと分かりやすいパスワードにしてくれれば良かったのに。だいいち、中垣さんは弐平さんが順位表の読み方が分からなかったら想いを伝えられない、というところを考慮したのだろうか。難易度が高すぎてこれでは想いが伝えられないと思う。僕らがやってこなかったら、順位表すら完成しなかったのだ。
市野さんとしてはこれ以上の情報はないらしく、食事も終わったので戻りたいという。引き留める理由も無いの了解した。
だが、次の瞬間。僕はある物を見つけて思わず大声を出してしまった。
「あ、それだ!」
そしてテーブルに置いてある順位表をひったくり、5位と6位の所を凝視した。やはり、目を皿のようにしても間違いない。
みんなの視線が集まる中、僕は順位表を見せて説明した。
【5位:公指慶太郎(こうしけいたろう)】
【6位:州輪真査緒(しゅうわまさお)】
「ここの読み方が分かりました。公指さんと州輪さんの、漢字の二文字目を繋げると『指輪』になるんです! これまでの解読から、『十一月二十四日に【赤あど】で何かがある』ということが分かっています。これが『十一月二十四日に【赤あど】で指輪を渡す』だったら、文章として成立するんじゃないでしょうか」
僕は、市野さんが戻るといって立ち上がろうとした時に、その左手に指輪がはまっているのを見つけて大声を出したのだ。『指』の文字も『輪』の文字も公指さんと州輪さんの名前にあるし、中垣さんが弐平さんに想いを伝えるという行為にも合致する。中垣さんは、プロポーズするつもりだったんだ。
他人に興味がないという市野さんも、これにはさすがに驚いたようだった。
「それは……刈葉さんが滅茶苦茶怒りそうですね」
そうだと思う。昼食時の不機嫌なんか比べ物にならないくらいになりそうだ。
「六波羅さん、これならいけるんじゃないですか?」
僕が興奮気味に話すと六波羅さんも頷いた。
「良いんじゃないかな」
好感触。六波羅さんを差し置いて正解を出すのは忍びないが、一刻も早く事件を解決する必要がある。小説が書き上がる前にパスワードを試してしまおう。
さてパスワードはどうなるか。
【赤あど】は【Akaado】
【指輪】は【Yubiwa】
【1124】は【1124】
これを組み合わせて、
【AkaadoYubiwa1124】
こんな感じだろうか。
でも待てよ。
【Akaado】は【akaado】かもしれない。
【Yubiwa】は【yubiwa】かもしれない。
いや【Ring】かもしれないし【ring】かも。
複数候補があるのは困りものだ。もっと間違えようがないパスワードにしてくれれば良かったのに。
しかし、それら全ての組み合わせを試すとしてもそんなにパターンが多いわけでもない。
僕は市野さんが戻るのと一緒に執務室へ向かった。
大々的に宣伝するのは嫌なので静かに中垣さんのデスクへ足を運ぶ。だが市野さんが大々的に宣伝してしまった。
「パスワードは『十一月二十四日に指輪を渡す』っていう言葉らしいぞ!」
いらんことをするな、と心の中で毒づくも、既に遅し。衆目を集めてしまった。
困った、としかめっ面になりながら周囲を見回す。刈葉さん怒ってるだろうな。ああやっぱり怒ってる。歯を食いしばりながらこっち見てる。
でも、弐平さんの方は椅子に座ったままだった。肩を震わせ俯いてしまっている。あまりの気まずさに耐えられないのかもしれない。やがて立ち上がると、彼女は部屋を出ていってしまう。ちょっと同情というか罪悪感というか、僕が傷付けたわけでもないのにそんな気持ちが混ざり合って苦さが胸に沁み渡る。
中垣さんも大胆なことをする。でも、それだけ一途な想いだったのか。何だかドラマで結婚式当日に花嫁を略奪に来た男みたいだ。新郎がいる目の前で新婦に想いを告げ、さらってしまうのである。しかしそれは、ドラマだから何気無く見ていられるのであって、リアルでそれをやるのは大変なことだ。もし略奪に行って、新婦に断られたら目も当てられない。そんなリスクを考えると、とてもじゃないが実行に移そうとは思わない。
凄い恋のドラマみたいなところに居合わせちゃったなあ。まさかパスワードを巡ってそんなドラマがあるなんて。
不思議な気持ちになりつつ、僕はパスワードを入力し始めた。
【AkaadoYubiwa1124】
ブブー。間違いのようだ。
【akaadoyubiwa1124】
ブブー。これでもないか。
【AkaadoRing1124】
ブブー。雲行きが怪しくなってきた。
【akaadoring1124】
ブブー。周囲の視線が冷たい。
嫌な汗が出てきた。今回は別に探偵を気取って格好つけたわけじゃない。それでもなおこのプレッシャー。周囲が今どんな顔をしているだろうかと思うだけで怖いので、誰かと目を合わせることもできない。自然に唾がたまり、ごくりと音を立ててしまう。周囲の人影がゆらゆら揺らめいて口々に囁き合っているような錯覚が起こる。
僕は逃げ出すように下を向きながら休憩室へ戻っていった。
「やっぱりなあ」
六波羅さんがけろりとして言った。僕は恨みがましい目つきになった。
「分かっていたなら先に教えて下さいよ……」
「でも、可能性がないわけじゃなかったからね。思い付くものはすべからく可能性が存在しているのさ」
「だから試したいと言われれば止めはしないって? いそいそとビデオカメラまで持って?」
僕の抗議の口調も暖簾に腕押し。六波羅さんは満面の笑みで返す。
「おやおや、君がパスワード入力係になったら私が撮影する以外ないじゃないか。これは致し方ないことなんだよ。ああ今回も良い画が撮れた」
「はあ……今回は物凄く自信あったのになあ。だって『十一月二十四日に【赤あど】で指輪を渡す』なんて文章にできるなんて、偶然とは思えないじゃないですか。これはまさしく『偶然で素敵な奇跡』だと思ったんですよ。それでも違うなんて……」
そうやって総括しながら、僕は自然な動きでビデオカメラに手を伸ばす。六波羅さんも自然な動きでひょいとビデオカメラを取り上げる。奪取に失敗、残したくないシーンが消去できない。
「でも、もう視えたんじゃないの?」
御厨さんが何か確信めいたものを持って尋ねる。すると六波羅さんは真面目な顔になった。
「殆どは視えた」
その顔は到底嘘をついているようには見えない。目に灯った力のようなものが頼もしく感じられる。みんなの名前を文字列に変換するやり方では駄目で、【赤あど】などの文章になりそうな文字の並びを順位表から見つけるのも駄目だった。もう何もやりようがないのでは、と思い始めていた。他に順位表の読み方が、あるというのか。
「本当ですか?」
目を丸くする僕に、六波羅さんは頷いた。
「まだ少しピースが足りないがね。君が間違えてくれたおかげでもあるよ。他の可能性を潰してくれたことで、よりストーリーが鮮明になった」
それなら僕の失敗も無駄ではなかったということか。
「足りないピースってどんなところですか?」
「そうだね、それを埋めに行こうか」
六波羅さんが立ち上がる。そして袢纏を揺らし颯爽と歩いていった。古代遺跡にやってきて宝のありかが分かったみたいに一直線。彼女の進む道の先には答えが鎮座している。僕と御厨さんはいよいよ解決が近いと見て期待しながらついていった。
執務室に入ると向かっていったのは、阿藤さんのデスクだった。阿藤さんもただならぬ雰囲気を感じたのか、こちらを振り向いて問いたげな表情を見せる。
六波羅さんは順位表を手渡した。阿藤さんがそれに目を落とす。六波羅さんの問いは単純なものだった。
「これは妥当ですか?」
そういえば、と僕は思い出す。六波羅さんは一度同じような質問を阿藤さんにしている。その時は電話がかかってきたか何かで話が中断してしまったけど。それを、もう一度質問したのだ。
阿藤さんは額をぽりぽり掻いて順位表を見やる。今まで刈葉さんにしろ公指さんにしろ土能さんにしろ、妥当性はことごとく否定されてきた。それを阿藤さんはどう判断するのか。
特に迷うことなく、阿藤さんはすんなり回答を出した。
「まあ、こんなもんじゃない?」
意外すぎて言葉が出なかった。みんなに否定されたこの順位表を、阿藤さんは肯定するという。しかも、阿藤さんは順位表で1位、それだけ仕事ができる人なのに。なんとも奇妙だ。
しかし六波羅さんは納得した様子で笑みを浮かべた。
「そうですか、そうですか」
この言葉ってたまに出てくるよな。この言葉が出た時って、もしかしたら彼女の中で重要なことが判明した、という意味を持つのかもしれない。
「こういったものについては前々から話は聞いていたよ。というか、オレの意見もこれに反映されている。あいつは一見嫌な奴に見えるが、むしろ仕事ではよくやってくれてオレ以上じゃないか? それになに考えてんだか分からないように見えて、割と熱い思いを持っていた。二人で話した時各メンバーの長所とか短所とか話し合ったんだけど、誰々はどういう風に育っていけば良いのでは、みたいにみんなのことを気にかけてもいた」
衝撃の事実だった。この順位表は、中垣さんだけで作ったものではなかった。それをみんなしてケチをつけていたということか。しかも中垣さんの意外な一面まで判明。本当に分からなくなってきた。本当の中垣さんはどっちだ? どういう人物なんだ? 良い人物像と嫌な人物像どちらも語られるので分からない。正解が迷路の奥にあるように思えてくる。
しかし六波羅さんは迷路の道順を最初から知っているように、そしてこの道順で合っていますかと尋ねてその通りですという答えを得たように、驚きも見せなかった。
「ありがとうございます。これで一つ、ピースが埋まりました」
阿藤さんは不思議そうな顔をしながら、曖昧に「そりゃ、どうも」と言って画面に顔を戻した。阿藤さんにしてみれば、たったそれだけの質問を何のためにしたのだろうという気持ちだろう。実のところ僕にだって分からない。
六波羅さんは首を回し、今度はとあるデスクの方を向いた。
「さて、残るピースはあと一つ……おや? いないね?」
空席、それは弐平さんのデスクだった。ちょっとした離席だろうか。しかし、六波羅さんにとって最後のピースが弐平さんというのは意外だ。弐平さんとはけっこう話したのに、まだ訊かなければならないことがあるというのか。まさか弐平さんにはまだ隠していることがあるとか、それとも嘘をついているとかだろうか。ではやっぱり中垣さんの人物象は……
核心に迫った六波羅さんの瞳には、何が映っているのだろう。それは彼女の小説によって明らかになるはずだ。それがもう少しで読める。早く読みたくなってきた。
しかし、待ち人は何分待っても戻ってこなかった。
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