第5話

 六波羅さんは窓に目を移すと、呟いた。

「鍵は閉まっているみたいだし、損傷の形跡も無いね」

 それから、クローゼットへ移動する。彼女は流麗な動作でしゃがみこむと、下に落ちたハンガーを眺めた。そして上に目を戻し、掛かっている衣類に目を向ける。冬物のコートやストール、それからお洒落な上着と見ていった。それを二周、三周と繰り返し、唐突にウニを頬に当てて転がし始めた。と同時に口を開く。

「娘さんは、犬派ですか猫派ですか?」

 一瞬、意味が分からなかった。佐伯さんが戸惑いつつも答える。

「確か猫が好きとか言っていましたけど……」

 六波羅さんはウニをぐりぐりしながら大きく頷いた。

「そうですか、そうですか。このコートの胸元を中心に動物の毛が散見されます。きっと猫を抱いていたのでしょう」

「ウチでは飼っていないんですけどねえ。野良猫でも相手しているのかしら」

「どうでしょう。野良猫というのは警戒心が強く、抱き上げることができるとなるとなかなかレアケースかもしれません」

「そ、そうですか……」

 佐伯さんは不思議そうな顔だ。娘さんの猫好きが判明しても、それが手掛かりになるのだろうかという心境だろう。

「この部屋で得られる情報はこんなところかな」

 六波羅さんはおもむろに立ち上がる。御厨さんが尋ねる。

「どう? ?」

「あとちょっとだね。もう殆どいる」

 二人の間で交わされた『来た』『来て』とは『閃いたかどうか』というようなニュアンスだろう。よく何かを閃いた時に『降ってきた』とか単純に『来た』とか言ったりする。

 どうやらこれまでの調査で推理はかなり組みあがったようだ。もう少しでドラマみたいな推理を聴くことができるのだろう。期待が高まる。

 六波羅さんは佐伯さんに尋ねた。

「念のため他の部屋もざっと見ておきたいのですが」

 すると佐伯さんは恥ずかしそうに慌て始める。

「それじゃちょっとだけ片付けのお時間いただいてもよろしいですか? 何せ私も少々、というかちょっと片付けが苦手なものですから、私の部屋とかここみたいになってしまっててお見せするのもアレなもので。やあねえホント、ズボラだとバレちゃうわ」

「そんなことはないでしょう。それに、この部屋と同様なるべく物を動かしていない方が望ましい」

「あーホントやだわーこれじゃ笑われちゃう」

 佐伯さんは観念したように案内してくれた。

 まあ、こういうのは謙遜だろう。散らかっててすいませんなどという言葉は社交辞令だ。笑われちゃうとか言いながら、内心では綺麗になった部屋を褒めてほしいと思っているはずだ。

 そう楽観視していたが、佐伯さんの私室に入ってみたら酷いものだった。謙遜でも何でもなかった。これでは笑えない。見た目ではそんなにズボラに見えなかったんだけど、人は見かけによらないんだな。



 結局家中を隈なく調査し、最後に居間へ帰ってきた。

「最後に、いくつか質問させて下さい」

 六波羅さんウニを弄びながら訊く。

「ええ、何なりと」

 佐伯さんはウニに視線を奪われがちに応じた。六波羅さんはただでさえ着物に袢纏と目立つ格好をしているのに奇妙な物を手にしているものだから、とにかく視線を集めやすい。僕だって気付くとウニや六波羅さん自身を目で追ってしまっている。次に何をするのだろう、何を言うのだろうと気になってしまうのだ。

「娘さんはご夫人とご主人のどちらに似ておりますか?」

「完全に私に似ています。ズボラなところが遺伝しなきゃいいのにって思っていたけどしっかり遺伝しちゃったのよ。参っちゃうわ」

 ほう、と声を漏らし六波羅さんはウニの匂いをかいだ。何の意味があるのだろう。

「娘さんについて親族にご連絡は?」

「私の実家と主人の実家、どちらも電話してみたんですけどだめでした」

「どんな会話だったか電話した時を再現する感じでお願いできますか?」

「私の実家の方は、父が出ました。私は『娘が帰ってきていないんだけどそっちにいる?』って訊いたんです。父は『いない。そっちに帰ってないのか』って。父は元々堅物でそっけない人だから、そんな感じでした。だから私は『うん、それなら良い』とだけ言って切りました。主人の実家の方は義母が出ました。私は『娘が帰ってきていなくて、もしやとは思いますがそちらにうかがっていたりしないでしょうか?』と訊きました。『こちらには来ていませんが、何かあったのですか?』と返事があって、軽く説明しました。電話したのは、昨日の夕方頃です。六時頃だったか……」

 また六波羅さんはウニの匂いをかいだ。

「ここ最近で何か変わったことはありましたか?」

「そういえば、今朝主人が出て行ってしばらくしたら電話してきたんです。家の周囲に怪しい奴がいたから追いかけてみたけど逃げられたって。顔もはっきり見ていないから男か女かも分からないけど、小柄だったって言ってました」

「ほほう……そうですか、そうですか」

 それで質問タイムは終わったらしく、六波羅さんは目を閉じた。ウニを両手でそっと握り、それを胸の前に持ってくる。

 一瞬の沈黙。

 それから彼女はしっかりと目を開き、よく通る声で言った。

「ああ、ストーリーが組み上がったぞ。私に……

 僕が、佐伯さんが、おおっと声をあげて身を乗り出す。

 遂に、名探偵の推理が始まる!

 娘さんの身にいったい何が起こったのか。そしてあの暗号は何なのか。それらを六波羅さんはどう解き明かすのだろう。早く聴きたい!

 しかし、御厨さんがこのタイミングでとんでもないことを言い出した。

「バッグの中にノートPCが入っているから、それを呑天ちゃんに渡して!」

「へ?」

 つい間抜けな声が出てしまう。だってこれから推理が始まろうというのに、何を言っているのだろうか?

「早く!」

 有無を言わさぬ感じで急かされてしまい、仕方なくバッグを漁る。ごちそうを目の前におあずけをくらった気分だ。

 心の中でぶつくさ言いながらノートPCを取り出し、六波羅さんの目の前に置いた。何に使うつもりなんだろうか。

 それはそれとして、推理だ。早く聴きたい。

 六波羅さんはノートPCの電源を入れた。充電は恐らく済んでいるのだろう。

 僕は待った。おあずけをくらってもう待てないという気持ちになりながら。

 PCの起動は済んだようで、六波羅さんが操作し始める。

 そして。

 無言でタイピングを始めてしまった。

 推理が始まらない。

 五秒経っても、十秒経っても、始まらないではないか。

「え、ちょっ……」

 僕の言葉は佐伯さんの心境も兼ねていたと思う。

 ついさっき、六波羅さんは確かに『語らせてくれ!』と言っていたはずだ。

 それが一向に語り出さないのだ。どうして?

 すると、代わりに御厨さんが衝撃的なことを口にした。

「彼女の『語る』とは、のことです。彼女は……小説家です。彼女がこれから書く作品が全てを解き明かしてくれるでしょう」



 張り詰めた空気。佐伯さんは眉をわななかせ、その表情は引き攣っている。何とか平常心を保とうと微笑を作る努力をしているが失敗しているようだ。その目は口惜しいような、怒りに染まっているような、そんな色を宿し鋭く光っている。御厨さんが『決して怒らない』という約束をここで再度念押ししたからかろうじて保っているものの、ともすれば大噴火してしまいそうだった。

 そりゃそうもなるよな、と思う。推理を始めるのかと思ったら小説を書き始めてしまったのだ。こんな探偵聞いたことない。というか、小説家であると紹介されたから探偵じゃない?

 じゃあ、探偵でもない人を名探偵とか思ってしまっていたのか。

 探偵に相談を依頼しているのに、助っ人を呼びましたと言われて探偵でもない人間を連れてこられたら、誰だって怒る。素人に推理させないでくれよって思う。

 佐伯さんが拳をぎりぎりと握る姿を見ていられなくて、僕は顔をそむけた。

 一言で言うなら、あちゃー……だろう。

 これは本当に土下座の準備をしておいた方が良いかもしれない。

 六波羅さんはというと、そんな僕らのことなどまるで視界に入っていないようで執筆活動に没頭している。人の家で、しかも娘が失踪した状況下で執筆活動とか凄いな。彼女のタイピングはピアノの演奏のようで、繊細かつ強弱が効いていて素早かった。目は活き活きとしているが熱中しているようで瞬きが少ない。完全に自分の世界に入りこみ、手を口元に当て独り言を呟いたり、次の瞬間には上を向いて唸ったり、下を向いて考え込んだりしていた。ウニを弄ることもあり、ウニを額に当てたり頬に当ててぐりぐりしたり、匂いをかいだりした。その動作は全く休まることなく、五分、十分、三十分と作品制作が止まることはなかった。このままでは永遠に休みなく執筆を続けるんじゃないかという気迫である。

 ノートPCの打鍵音だけが響く。

 二時間、三時間と経ち、夕方になった。

 佐伯さんはお茶を淹れてくると言って席を立った。その顔色の悪さからは何とかして気を紛らわせようという思いが感じられる。お茶を入れるのは十一回目だ。

 対照的に御厨さんは余裕の表情。スマートフォンを見て呟いている。

「うわメール百通も来てる。やだなー」

 そんなのほほんとした調子にこちらの不安は増大する。

 そして、遂に六波羅さんの動きが止まった。

「……完了、と。できた、できたぞ!」

 勢いよく立ち上がると彼女は部屋を出ていってしまった。車にプリンターがあり、印刷してくるのだと御厨さんが教えてくれた。

 しばらくして原稿を抱え戻ってきた六波羅さん。

 自信に満ちた表情で御厨さんに原稿を渡す。

 御厨さんはパラパラ捲って感嘆の声を漏らした。

「ああ……そういうことだったのね」

 その声には安堵すら見てとれる。いったい何が書かれているのか。

 佐伯さんが耐え切れなくなったように催促した。

「早くそれを見せてちょうだい!」

 御厨さんが原稿を渡すと、それを佐伯さんはひったくるように手にした。そこで玄関から音がする。男性の声でただいまと聴こえてきた。佐伯さんはああもう、と言って出迎えに行く。早く読みたいところでご主人が帰ってきたから、タイミングが悪いなあもう、と思ったのだろう。実際はご主人と一緒に読んだ方が後で見せる手間が省けて都合が良い気がするんだけど。

 簡単にご主人と挨拶を済ませると、佐伯さんがご主人に経緯を説明する。ご主人は眼鏡をかけて鋭い雰囲気を持ち、しかめっ面で聴いていた。

 経緯を聴き終えたご主人は、単純に言うとキレた。

「何だこの原稿は! ふざけているのか!」

 怒鳴り声が居間に響く。恐れていたことが起きてしまった。あちゃー、という感じ。

「でもあなた、この原稿に推理が載っているって……」

 佐伯さんは複雑な表情で説明。自分でも納得していないけど、とりあえず宥めにかかっている感じ。気持ちが板挟みになっているのが容易に想像できた。

「お前は何でそんなに無思慮なんだ。こんなの途中でおかしいって気付くだろう。どうせ金だけ取られて終わりだ。詐欺だよ詐欺。何で途中で追い出さなかったんだ!」

「でも雰囲気が名探偵っぽかったし……」

「探偵じゃなくて小説家だったんだろう?! 素人にやらせるとは何事だ!」

 ご主人は唾を飛ばしてヒートアップ。これは収集がつかなそう。

「旦那様、私どもの解決手法はちょっと変わっておりまして、決して怒らないで下さいというお願いをしております。まずは原稿を読んでいただいて……」

 御厨さんも加勢するがご主人は止まらない。

「これが怒らずにいられるか?! いいか、詐欺で訴えてやるぞ。そうだ、まずは警察、警察を呼ばせてもらう」

 そんなご主人を佐伯さんと御厨さんで必死に説得するが、十の言葉を並べても二十の言葉を並べても聴く耳を持ってもらえなかった。取り付く島がなく返ってくるのは怒号ばかり。詐欺という単語と警察という単語をそれぞれ十回ずつは聴いた。

 僕は怒鳴り声が轟く中、本格的に土下座を覚悟する。いや、警察来たらそれじゃ済まないんじゃないか。アルバイト初日で警察のご厄介になろうとは。これって僕はどんな罪に問われるのだろう。主犯じゃなくても詐欺を助けたとかで裁かれるのだろうか。

 だが、状況は唐突に一変する。

「まったく……こんなみたいなものに付き合ってられるか!」

 ご主人がそう言った時のことだ。

 ぷぴー……と、間抜けな音がした。

 全員がある一転に注目する。

 六波羅さんが、おもちゃの笛を吹いていた。縁日とかで見かける、先端が丸まった紙になっていて吹くとそれが伸びるやつだ。吹き戻しというらしい。

 居間に静寂が訪れる。今まで烈火のごとく怒鳴っていたご主人でさえ黙った。

 再度ぷぴーと音がする。スリーウェイタイプの笛は正面と左右に巻かれた紙が伸びていた。

 僕は戦慄した。この状況下でこれはありえない。案の定ご主人は怒りを通り越して鬼の形相になっている。

 しかし六波羅さんは涼やかに言った。

かどうか、確かめてみればいい。その上での感想なら甘んじて受けよう。厳しいご意見も小説家の糧だ」

 まっすぐご主人と目を合わせる彼女には底知れないオーラが漂っていた。まるで燃え盛る炎の中一人だけ涼しげに散歩しているような。そんな不思議な力を持っているように見えた。

 ご主人は歯軋りしながら睨みかえしていたが、やがてぐっと堪えるように唾を呑み下した。怒りを抑えようと呑み込んだみたいだった。くそ、と吐き捨てて原稿と向き合う。

 そして佐伯さんとご主人、それから僕も加わって原稿を読み始めた。

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