第3話

 事件現場というのは絶対に物を動かしてはいけないというイメージがあり、誤って何かに足をぶつけてしまわないかと更に緊張が高まる。幸い足の踏み場が無い程に物が散乱しているわけではないので、とにかく床に落ちている物から距離を取りながら部屋に入った。

 御厨さんが机の上に置かれたスマホに目を向ける。その目線を察した佐伯さんが説明した。

「携帯には一度かけたので、振動で最初の位置からは動いたかもしれません。でもそんなに動いてはいないと思います。警察の方に見てもらった時も、向きを変えられたりはしませんでした」

「分かりました。これでほぼ元のままの状態が維持されているということですね?」

「はい。他の物もそうです」

 それから御厨さんの視線が移動していく。僕もそれを追ってビデオカメラを回す。

 本棚からは本やノートが引き抜かれ、それらが床に散乱。本棚の中に残った物も倒れてしまっている。それを見て御厨さんが口を開いた。

「引き抜かれたのは上から二段に集中していますね……それ以外には被害が無い。しかもこれは、一番上の段は元々収納物が少なく、衝撃で収納物が倒れただけに見えます。ということは上から二段目に対して何らかの目的があって収納物を引き抜いたと見ることができますね」

 確かにそうだった。御厨さんの推理の通り、本棚は上から二段目に対して執着というか、意図みたいなものが見える。言われたからそう見えるのかもしれないけど、何だか本格的になってきた。今の御厨さんにはおっとりした笑顔はなく、これが探偵というものかと思わせる空気を纏っている。

 次に、床に散乱する本やノートに目が移った。その中に気になるものがあったのか、御厨さんは腰を曲げた。視線の先には、ノートに挟まった紙片。

「これは?」

 御厨さんの問いに佐伯さんが答える。

「これは……娘の残したメモです。何か思い詰めたように『ヤバイ 死ぬかも』って書いてあるんです。これは絶対、何者かに連れ去られたんだと思います……! 問題を抱えているようには見えなかったけど、何者かに狙われるのを察知していたんだとしか思えません! 娘がいなくなる前の日に部屋の外まで聴こえる声で電話で怒鳴っていたから、それが原因かも……しかも、最近ちょっとチャラチャラした感じの人達と付き合っていたみたいだし。もしかしたらその人達と揉め事を起こしたとか……!」

 そう言って佐伯さんは口元を押さえ、眉を歪めた。話すのも辛いというのがひしひしと伝わってくる。

 御厨さんは更に紙片に顔を近づけるためしゃがんだ。

「このメモには他にも書いてあるようですね……」

「はい……でも何のことか分からないんです。警察の人にも見てもらったんですけど、何かの暗号か、それとも無関係な書き込みなのか……」

「【毛】【爪】【ウェット】【トイレ】【衰え】……」

 メモを読み上げる御厨さん。眉間に皺を寄せているが解読は厳しそうだ。僕も自分なりに考えてみるものの、全く検討もつかない。

 もしかして、この暗号が娘さんの行き先……?

 それとも、この暗号が犯人を示している……?

 そこは判然としないが、この暗号が解決の鍵を握っている気がする。というか、ほぼその線で見て間違いないだろう。そうでなければこんな暗号を残したりはしないはずだ。

 僕はこの暗号をどう解くのか御厨さんを見守った。しかし、しばらく彼女は考えた後、いったん別の方へ目を移した。容易には解けないと判断したのだろう。

 それから机、引き出し、クローゼットと一通り確認し、娘さんの部屋を出た。

 御厨さんは休憩にしましょうと提案した。佐伯さんが辛そうにしているのを考慮してのことかもしれない。

 佐伯邸を出て、僕と御厨さんは車に戻る。

 僕は恐る恐る訊いてみた。

「あの暗号、分かりました?」

 御厨さんは座席の背凭れに身を預け、伏目がちに真剣な表情をしている。ずっと暗号のことを思考しているのかもしれない。娘さんの部屋の調査からずっと、おっとりした空気は息を潜め、まさに探偵という鋭さを感じさせている。研ぎ澄まされた頭脳をフル回転させているのが見えるようだ。プロというのは雰囲気だけで凄みを感じさせるものだと思うが、目の前の女性はまさしくその通りだった。

 それから御厨さんはおもむろにこちらを向くと、にっこり笑った。まさか、もうあの暗号が解けたというのだろうか?

 僕は期待で思わず身を乗り出した。

 探偵の真骨頂、名推理が目の前で聴けるかもしれない。

 そして、御厨さんは両手を広げて、言った。

「ぜんぜん分からな~い!」

 僕は言葉を失った。

 可愛く舌を出して肩を竦める御厨さんは機関銃のように喋り出す。

「だってわたし推理ってそこまで得意じゃないもん。あーこれやっぱり『』よ。『』っていうのはね、ウチの事務所で使ってる暗号で『』のことを言うの。お客様の前で難解ですね~とかはっきり言えないでしょ? 不安にさせちゃうでしょ? だから暗号を使うの。これはもうわたしじゃお手上げね、お手上げ。わたしって高校生の頃からこの業界に憧れて文芸部に入ったし推理小説も読みまくったんだけど、イマイチ冴えなかったのよね~同期で入った女の子の方が全然トリックとか解くのうまかったわ。しかもクラスが一緒で席も前後だから教室でもあの小説がどうだったこうだったって話になるでしょ。そうするとあっちは開始数十ページで既にオチまで予想できてるの。わたしは全然分からなくてもうやんなっちゃう。あーわたしも冴え渡る頭脳欲しいな~IQ400とかになる薬を開発してくれれば良いのに」

 まるで溜まっていた水が堰を切ったように流れ出すがごとく。

 最後にはお手上げをポーズで示す始末。

 この姿を佐伯さんに見せたら訴訟問題に発展しそうだ。

 僕の胸中には急激に不安が広がり始めた。小学校の時公園で野球をやって、車の窓ガラスにボールを直撃させてしまった時の心境と酷似している。

 ヤバイとかマズイとか、まさにそんな感じ。

「あの、でも、これ解けないとまずくないですか? 佐伯さんだって最後の望みみたいな感じで駆け込んできたんだろうし」

 娘が失踪して藁にも縋る思いで探偵を頼ったけど『あ~これはお手上げですね~』とか言われたら絶望するだろう。

 まさか僕の役割って、この後ひたすら謝るというようなものなのだろうか。

 急激に胃が痛くなってくる。

 ひたすら罵倒されながら土下座する自分の姿が思い浮かんだ。

 そんなの嫌だ……とんでもない所にアルバイトにきちゃったな。だから割の良い時給なのかもしれない。単なる雑用だけで良い時給がもらえるわけないんだよ。

 急転直下で鬱に突っ走る思考。

 ハンドルを握り締め、額を押し付けた。全身の力が抜けていく。

 すると。

「ああごめんごめん。不安にさせちゃった? 大丈夫、手はあるから! 助っ人を呼ぶのよ」

 御厨さんが苦笑しながら救済の言葉を投げ掛ける。僕は跳ね起きた。

「助っ人……?」

 ゆっくり溜めを作った後、御厨さんはいたずらな笑顔で、言った。

「〈PΦS68〉って、知ってる?」



 僕はまたベンツを運転することになった。

 佐伯邸から三十分走り、ボロアパートの前に到着する。

「わたしは車に残っているから、呼びに行ってきてね」

 御厨さんは自然な笑顔でそう言うが、声の奥には企んだ色がうかがえる。僕を一人で行かせると彼女にとって最高に楽しいことになるシナリオなのだろう。

「でも僕は面識ないですし」

 ささやかに抵抗を試みる。見知らぬ人に一人で会いに行きたくはない。

「でもわたしが車見張ってないと駐禁とられちゃうかもしれないし」

「それなら所長が行って僕が待っていた方が」

「わたし今からここでお着替えするから~」

 ガバッと突然脱ぎ始める御厨さん。僕はぎょっとして車外へ転がり出た。

 とんでもない手段に出てきたものだ。周囲を翻弄するのがよほど好きなんだろう。

 軽く頭痛がして頭を抱える。それから溜息をついてアパートへと向かった。

 錆びれた階段をカンカン音を立てて上がり、二階の一番奥のドアへ。

 表札には荒々しい字が刻まれている。

【六波羅】

 由緒正しいとか先祖が凄い人とかだろうか、格好良い苗字だ。

〈PΦS68〉なる人物らしいが、いったいどんな人だろうか。アイドルグループみたいな名称だけど、あえてそれに似せるように作った暗号らしい。元々は警察がそういう風に暗号で呼び始めたのだとか。

 ドアの前で溜息一つ。

 呼び鈴を押す前に、どのように声をかけるか考える。何て言えば良いのだろうか。話がかみ合わなかったらどうしよう。気難しい人だったら嫌だな。初対面の人と仲介者も無しで会うのは本当に気が重い。社会人になったらこんなの日常茶飯事になるのだろうか。

 小学生の時、回覧板を次の家に届けてきてと親に言われて行ってきたことがある。その時は別に呼び鈴を押す必要は無くドアノブにかけてくるだけで良かったのだが、酷く緊張したものだった。門を開けて五~六歩進んだところに玄関があるため、無断で敷地に入らなければならないのである。たった五~六歩とはいえ、無断で入っていいのだろうかと、その時の僕は悩んだ。小学生の頭では警察うんぬんよりも、単純に怒られないかと思ったのだ。けっきょく石橋を叩いて渡るように呼び鈴を押して、直接回覧板を渡した。応対してくれたマダムはあら丁寧にありがとうね、と言ってくれたけど、内心はわざわざ呼び出すなよと思っていたのかもしれない。

 都合良くドアが開いてくれないかな。ちょうど近くの自販機まで飲物を買いに行こうと思ったとかで。

 溜息をまた一つ。諦めて呼び鈴を押すか。

 そうしたら、都合良くドアが開いた。

 突然のことに情けない声を上げて飛び退く僕。

 中から出てきたのは、なんと着物姿にお洒落な袢纏を羽織った女性だった。アパートの外観とはあまりにも不釣合いなその姿は圧倒的な存在感を放っていて、一瞬、ここがどこだか分からなくなった。料亭とか旅館に来てしまったのかと錯覚してしまう。視界に映る面積では目の前の女性よりもボロアパートの景色の方が割合が多いはずなのに、存在感は逆転どころか女性が百パーセントを支配しているようだった。

 目が合う。

 何か言わなければいけない、と思う。向こうからしてみたら、ドアを開けたら突然見知らぬ男がいたのだ。下手をしたら大声を出されて警察に通報されてしまうかもしれない。

「あの、僕は怪しいアレとかじゃなくて、その、セールスとかでもなくて」

 すると、着物に袢纏の女性は目を眇めこちらをじろじろと見てきた。明らかに不審がられている。

「じゃあ……何だっていうんだい?」

 その声と口調は時代がかっているというか、気の強い女将というのを連想させた。女将というような年齢にはとうてい見えないけど、若くして既にそれくらいの芯の強さみたいなものが感じられた。

 開けられたドアが開放できる限界点の辺りでぎしぎし言っている。ドアがくたびれた溜息をついているみたいだ。バイクの音が近付き、通り過ぎていく。それ以外は大した音も聴こえない、住宅街。僕の不審者度はこの中ではかなり高い。

「探偵見習いというか、ああ違う、アルバイトで、いや、大ぎゃく生、大学生で……」

 どこからどう説明したら良いんだろう。だから一人で来るのは嫌だったんだ。御厨さんへの不満の声が体内に充満していく。でもそれは目の前の女性には関係のない話で、ここで発散させるわけにもいかない。駄目になった缶詰の内部でガスが発生し、膨張してしまっているけど破裂できない感じ。

「ふうん、そうかい」

 女性は懐からスマホを取り出してしまった。寒気が背筋を伝う。このままでは通報されてしまう。僕は何とか通報を阻止すべくわたわたとするが、女性にキッと睨みつけられてしまい消沈。えらいことになってしまった。女性はスマホで通話を始める。

「ああ? 見てたかい? そうか、楽しんでくれたようで何よりだ。笑った分だけ腹筋も使うしダイエットにちょうど良いんじゃないか?」

 女性は険しい表情から一転、にこにこしながら話し始める。その変わり身の早さといったら演劇でもやっているのかというほど。舞台女優とかではないだろうか。着物というのもそうそう見かけるものではないし、役作りか何かかもしれない。着物というのは成人式とかそういう式典でなら見かけることはあるだろうが、今日は何の日でもない。いや厳密には毎日が何かの日ではあるらしいのだが。

 僕は通報という恐怖に身構えたままだったが、最悪の事態は回避できたようで安堵する。いったいどこにかけたのか。って誰だ?

 いや、ってのことか。まさか本当にそう呼ぶ奇特な人がいるとは思っていなかったので、すっかり忘れていた。しかも親しげに話しているので、目の前の女性はミクりんと呼び慣れているようだった。

 ああそうか、ようやく分かった。これは全部仕組まれたことだ。車の中で御厨さんが企んでいるように見えたけど、これがその企みだったのだ。僕を驚かせ、その姿を車内で見て今頃は笑い転げているところだろう。何といたずら好きなアラサーだろうか。

 通話が終了すると、女性は袢纏を鮮やかに脱いで右手に持ち、肩に掛けた。ふわりと浮いた袢纏の軌跡は美しく、鯉幟がはためき始めたようだった。袢纏が風を孕んだ時の音も心地良く耳に入ってくる。展望台で風そのものを感じられるような優しい音だった。まるでキザな紳士が外套を肩にかけたように、袢纏が格好良く肩に収まる。そして左手は腰に当て、自信に満ちた笑顔を浮かべた。

「ようこそ、私は六波羅呑天ろくはらどんてんだ!」

 ポーズもセリフも、あまりにも決まっていたので、一瞬僕は舞台でも観ているのかと錯覚してしまった。ボロアパートというのも惑わすためのハリボテなんじゃないかと疑ってしまう。周囲の景色が霞むほどの鮮烈な光景は、意識しなくとも脳裏に焼きついた。背景などは無地でよく、彼女の存在のおまけでしかない。彼女の存在が全てを支配した写真というべきか。

 それぐらい、この出会いは衝撃的だった。

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