第2話
出てきた部屋の扉が滑らかに閉まっていく。
扉には『Staff Only』のプレート。
御厨さんは何事も無かったようにオリエンテーションを始める。
「今いた部屋が執務室。待機部屋でもあるわ。スタッフだけで話したいこととかも執務室で話せば良い。見たとおり和気藹々とした風通しの良い職場だから安心してね」
「は、はは」
笑えない。小柴さんの震える姿をさっそく思い出してしまったではないか。
すると御厨さんはむくれてしまう。
「もう、さっきのアレは冗談だってば。本当にみんな仲良しなんだからね」
「あ、ハイ分かりました」
そうであってほしい。
洒落た空間が広がり、ブースが林立したスペースに差し掛かる。
御厨さんはお客さんに配慮して右手を口元に寄せ、囁き声で説明してくれた。
「ここは相談ブース。相談に使える部屋が一つしかなくて、部屋が埋まっちゃっている時にこのブースを使うの。防音とかできる限りの配慮は施してあるんだけど、もっと資金があれば部屋がいっぱいある所に移転したいところね」
ブースは三つあるが、どれも使われているようだ。相談者がそれだけ来訪しているということは、人気なのだろう。アルバイトを募集したくなるのも頷ける。
次に行ったのは受付。御厨さんは受付に立つ美男美女を示して言った。
「ここが受付。後で社員証みたいな首掛けのストラップを渡すから、それを提示して受付を通るようにしてね。それから、どう? ウチの受付なかなかのものでしょ? 採用も厳選に厳選を重ねているんだからね」
確かに、ぱっと見て分かるほどの美女とイケメンだった。エレベータを降りてすぐ受付が目に入ったし、人目につくところで華やかなのは良いとは思う。まあ、僕にとっては美女さえいれば、と思わなくもないけど。イケメンの爽やかな笑顔は、僕なんかにとっては少々複雑なのだ。
しかし、そこら辺の個人的な感想は別として、少々気になることもあった。厳選に厳選を重ねて、というが、その重要性が分からない。それをすることによって、どんなメリットがあるのだろうか。せっかくオリエンテーションとして時間をとってもらっているのだから、質問してみた方がいいだろう。無反応だと、教えている側からすればちゃんと聞いているのかと疑いたくなってくるんじゃないだろうか。
僕は頷きながらも、疑問を口にしてみた。
「はい。でも、受付にそこまでする必要ってあるんでしょうか? 案内さえできれば良い気もしますけど……」
すると御厨さんは得意気に指をちっちっと振った。
「これがなかなか売り上げアップに効果あるのよ。ウチみたいな業種の場合、まず中に入っていただけるかどうかが最初のハードルなの。男性客には美女が、女性客にはイケメンが応対すれば高確率で中に入っていただけるのよ。だからここは妥協しないの」
おおっぴらには言えないけどね、と最後にウインクする御厨さんはいたずらっ子の笑みを浮かべている。確かに容姿採用は言えないだろう。僕はまずもって落ちそうだ。
「それから、わたしと彼らの格好の違い、分かる?」
御厨さんの質問に、僕は視線を移す。御厨さんと受付の人達の違いといえば、単純に思い付くところがあった。
「スーツであるかないか、ですかね?」
御厨さんは仕立ての良さそうなカジュアル、受付の人達はスーツだ。
「そう。受付だけはスーツを着てもらっているの。これも重要なのよ」
僕はここでも疑問を持った。スーツに対しての見解というのは複雑だ。今でもスーツと勤め人というのはイコールとしてイメージが定着している。でも新進気鋭のベンチャー企業を中心に服装の自由化の波も押し寄せているのも事実だ。特に夏の厳しさは増すばかりで、夏季期間だけでもカジュアルにしているところは非常に多くなってきている。そろそろスーツ以外認めないという風潮ではなくなってきているのではないだろうか。
また、受付だけスーツというのも不可解だ。僕は別にスーツに抵抗があるわけではないのでスーツに統一するというならそれでも良い。
これも質問してみようか。スーツの見解について長々と述べるのははばかられたので、視線を逸らし、少しの間思考して言葉を選んだ。それから視線を戻し、口を開く。
「そうでしょうか? 別にスーツで出迎えしなくても良い気がしますけど……」
すると、御厨さんは待ってましたとばかりにそう思うでしょ、と得意気な微笑を見せた。
「それがけっこう重要なんだな~。わたしが持っているアンケートデータだと、四十代の方だと三十%以上、五十代の方だと四十%以上の方がスーツ着用を希望しているわ。スーツで対応してくれないと信用できないという方もいるの。見ての通りわたしはスーツでなければならないとは思っていないんだけど、そういったお客様にも受付でスーツで対応することで『わたしどもはスーツに理解があります』とアピールできるのよ。これもさっきと同じで売り上げアップのためなのよ」
楽しそうに話す御厨さん。いい質問だね、とばかりに理由のところを丁寧に教えてくれた。
一つ分かったことがあった。
御厨さんはおっとりな外見だけど、売り上げというところを凄く重視している。けっこうやり手の経営者なのかもしれない。
それからトイレの場所とか、一階の喫茶店には自由に休憩に行って良いとかの話を経て、最後に彼女はいるのと聞かれ、受験期のトラウマが軽く掘り起こされてしまった。
オリエンテーションは全て終わったようで、御厨さんは腕時計を確認する。
「それじゃ説明はここまで。今日のところは執務室に戻って資料でも眺めててもらおうかな。何か手伝ってほしいことができたら声をかけるから」
どうやら初日からバリバリ働くことにはならないらしい。雑用とはいえいきなりでは勝手も分からないし、バリバリやらなくて済むのは助かる。
資料を眺めていろということだが、過去の事例とかだろうか。あまりプライバシーに関わる内容は読むのに抵抗があるが。でもそうしたら知識がつかないし。そこら辺はあまり深く考えない方が良いのかもしれない。
そんなことを考えながら御厨さんと執務室へ戻っていくと、途中でブースから男性が出てきた。その男性は御厨さんを見つけると、丁度良かったと安堵の表情で声をかけてくる。
「所長」
「どうしたの片桐君」
どうやら本気でミクりんと呼ぶ人はいないようだ。
「それがですね……ちょっと今受けている相談が『NA』っぽくて……」
「へえ、どんな内容なの?」
よく分からない専門用語が出ると、御厨さんが興味を示した。それから二人で内緒話を始める。僕は立ち聞きするのもはばかられたので、距離をとった。でも、聞かないのも逆に仕事としてはまずいのかもしれない。どうなんだろう。そこら辺の按配がよく分からないところだ。慣れない仕事場に慣れない業種というのは難儀なものである。
かといって御厨さんと一緒でなければ執務室へ帰るわけにもいかない。最低限自分の席もしくは居場所をもらってからでなければ一人でいることもままならないのだ。
御厨さんは顎に手を当て真剣な表情で片桐さんの話を聞いている。難しい相談が持ち込まれたのだろうか。
雑用から始め、いずれは僕もそうした相談に対応していかないといけないのかもしれない。
まあ、いますぐというわけでもないと思うのでまずは資料を読んで雰囲気だけでも掴みたいところだ。
そんな初心者気分でいると、御厨さんが話が終わったらしく、こちらを振り向いた。
そしてにっこり笑って指を立てる。
「手伝ってほしいことができたら声をかけるって言ったよね?」
「あ、はい」
「さっそくできちゃった、手伝ってほしいこと」
「……はい?」
僕は嫌な予感がして胃に負荷を感じた。せっかく初心者気分でいたのに、いきなりディープなところに連れていかれそうな。
御厨さんは心底楽しそうにし、ふふっといたずらな笑顔を見せた。
薄氷の上を歩くように。
ビルの上で綱渡りするように。
そんな状態を想像してほしい。
今、僕は誇張でも何でもなくそんな状態に陥っている。
決して嘘ではない。
何せ、ベンツを運転させられているのだから。
「そこを右に曲がって。それで到着のハズ」
御厨さんが助手席でナビを見ながら教えてくれる。よく平然と僕の運転に任せていられるものだ。心臓がよほど強いのだろう。僕自身が言うのも何だが、自分なら絶対僕には高級車なんて運転させたくない。どんな傷をつけられるか分かったものじゃないからだ。こんな高級外車を運転しろと言われてもガチガチに緊張してまともに運転できないのである。これからは運転できるかと問われたら、できないと答えるようにしよう。口は災いの元というが、まさに災いだった。
後部座席には今回の依頼主である
「……到着しました」
僕は佐伯さん宅前で車を停めると、深く息を吐き出した。ようやく緊張から解放される。
ぎくしゃくしながら外に出ると、後部座席のドアを開けて佐伯さんに『どうぞ』と声をかけた。そうしてから僕は何をしているんだと気付く。何で僕は執事みたいなことをしているんだろうか。でも今からドアを閉めるわけにもいかないので、何食わぬ顔でやりすごす。
「トランクから荷物を持ってきてね」
そう言って御厨さんは僕の無様な姿を見て楽しんでいるようだった。この人は相当ないたずら好きなのだろう。人の焦る姿が大の好物に違いない。
佐伯さん宅に招かれると、ある部屋に通された。
「これが娘の部屋です」
一戸建ての二階の部屋。佐伯さんがドアを開ける。
中を見て、思わず息を呑み込んだ。
床にぶちまけられた本やノート。それらが収まっていたと思われるすかすかの本棚。机から引き出しは外れ、これも床に散らばっている。クローゼットは開け放たれ、ハンガーがいくつも下に落ちていた。
『荒らされた形跡』
一言で表せばそんな光景だった。
それなりに平穏に暮らしてきた僕にとっては衝撃の光景だった。今まで漫画やドラマといった架空でしか見たことのなかったものが、リアルとなって目の前に広がっている。実際に目にすると思わずウッとなって体を仰け反らせてしまった。
佐伯さんの持ち込んだ相談はこうだ。
【娘が失踪したので捜してほしい】
高校生の娘さんがいなくなったことに気付いたのは一昨日の夜。佐伯夫人が仕事から帰り、夕飯を作って娘を呼んだが応答無し。最初は気にせず一旦立ち去っている。しかしいつまで経っても娘が部屋から出てこないため、夫人は再度娘の部屋に呼びにいった。それでも反応が無いため部屋を開けたら、中の惨状を目撃したというわけだ。それから旦那さんに電話し、すぐに旦那さんが帰宅。それから夫婦で話し合い、警察へ連絡。しかし警察の反応は『高校生の娘さんがちょっと外泊するぐらい珍しくない』という冷ややかなものだった。旦那さんが部屋が荒らされていることを必死に説明し、深夜に警察が佐伯邸に到着。調べてもらった。しかし荒らされたのか散らかしただけなのか判断がつかないということで、もう少し娘の帰りを待ってみたらどうかと告げられた。翌日になっても娘は帰ってこず、旦那さんは仕事へ、夫人は仕事を休み、娘の帰りを待ち続けた。娘の携帯は部屋に残されたままのため電話も繋がらない。夜になって再度警察へ相談に行った。それでもまだ一日いなくなっただけでは捜査するのは難しいということで、夫人は絶望。それを見かねた警察官が、奇妙なことを口にした。これはあくまで非公式のことで内密にお願いしますが、と前置きし、【御厨探偵事務所】を紹介したのだそうだ。そこなら確実に解決してくれるだろう、と。
そして今日、夫人は縋る思いで【御厨探偵事務所】を訪ねたのだという。
僕は正直、驚いた。この探偵事務所はそんなに凄いところだったのか。
御厨さんをちらりと見てみても、そこまで凄いオーラというか、名探偵という風には失礼ながら見えない。
しかも、警察官はこうも言ったという。
あそこはちょっと変わった手法で解決するかもしれませんが、と。
いったいどういうことだろう?
そもそも探偵業の常識も分からない僕にはどうであればちょっと変わった手法なのか想像もつかない。御厨さんはこの事件をどう解決するのだろうか。
御厨さんは顎に指を当て、じっと部屋の中を見回す。それから佐伯さんと二~三言葉を交わし、撮影の許可を取った。それからこちらへ指示を出す。
「バッグの中にビデオカメラが入っているから、それで撮影してくれる?」
バッグはベンツのトランクに入っていた物だ。僕が持ってきていたので、バッグを肩から下ろし、中を物色してみる。手に収まるくらいのビデオカメラが入っていた。
まずは部屋の外から。ビデオカメラを構えると、ジャーナリストになった気分。ただ、この行動一つが解決の鍵になるかもしれないのだと思うと緊張する。機材の説明書は見ていないが恐らく録画ボタンは赤い印のついている所だろう。こういう物は感覚で扱っても最低限の機能は扱えるように作られている。
ビデオカメラには今まさに撮影しているものがリアルタイムで確認できる画面もついていて録画ボタンを押すと『REC』の文字が出た。操作方法はこれで合っているようだ。
部屋の中をゆっくりと、床から天井にいたるまではっきり分かるように撮影していく。部屋の奥の方は望遠機能を使って撮りたいところだけど、その機能はどうやったら使えるのだろうか。手元のビデオカメラを眺め回してみると、それらしいツマミを発見。ツマミを弄ってみるとズームが強くなったり弱くなったりしたので、当たりのようだ。ツマミを右に倒せばズームが強くなり、左に倒せばズームは弱くなるらしい。
望遠機能で更に詳細に撮影し、御厨さんに尋ねる。
「こんなものでいいですか?」
「充分よ。それじゃ中に入ってもう少し調べてみましょう」
遂に部屋の中に足を踏み入れることになった。
緊張が高まる……
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