第205話 不屈の闘志

 喜多は、心臓が早鐘はやがねを打ったようになったが、一呼吸置いて心を落ち着かせ、再び中の気配を窺い、牢の向こう側に見張りらしき者がいないことを確かめると、中に向かって小声で言った。


「千蔵」


 人影が、ぴくりと動いた。


「千蔵か?」


 喜多が再び言うと、人影がゆっくりと半身を起こした。そして膝で這い寄って来て、小窓の下に顔を見せた。薄闇の中で判別が難しいが、確かに千蔵であった。だが、喜多は闇の中に浮かんだ千蔵の顔を見た瞬間、息を呑んだ。


 頬の肉がげっそりと落ち、唇はかさかさに乾いて水気を失い、目は落ちくぼんでいる。一目で、食を与えられていないとわかった。


「き、きた……」


 千蔵は言葉を発しようとしたが、渇きと疲労からか、言葉が出ない。


「やめろ、喋るな。お前、食事を与えられていないのだな?」


 喜多が訊くと、千蔵は頷いた。


「とりあえず、これを食べろ」


 と言って、喜多は持っていた飢渇丸きかつがん水渇丸すいかつがんを格子の間から投げ込んだ。

 千蔵は虚ろな目でそれを追い、震える手で拾い上げて口に放り込んだ。


「待ってろ」


 喜多は、土蔵の表に回って、戸を開けようとした。しかし、戸は固い錠で閉じられており、喜多が持っている開器では容易には開けられそうになかった。何か他に方法は無いか、と周りを探ったが、どうにもうまい方法が思いつかない。

 そのうちに、遠くの方で騒然とした騒ぐ声が聞こえ始めた。


「おい、吉蔵がやられてるぞ」

「まさか曲者が忍び込んで来たのか?」


 どうやら、先程喜多が毒針で倒した下忍が発見されてしまったらしい。

 喜多は急いで小窓のところに戻ると、


「千蔵、またすぐに来る。皆で助けに来てやるからな、待ってろよ。それまでは何とかしのいでくれ」


 と、中に話しかけ、持っていた飢渇丸、水渇丸、味噌玉などの携帯食を全て中に投げ入れた。

 千蔵は、すぐにはそれを拾わず、喜多の顔を見上げた。


「お、おれのことは……あせるな……」


 と、かすれ声で喜多に言った。落ちくぼみ、血走っていたが、薄闇に目が光った。まだ、気力は残っているようである。

 喜多は頷くと、心苦しさを感じながら、そこから走り去った。




 その知らせは、礼次郎らに衝撃を与えた。


「本当なのか……?」


 その時、礼次郎は諸山城内の射場で馬上筒の稽古をしていたのだが、聞いた瞬間、思わず馬上筒を落としそうになった。


「嘘じゃないのか?」


 礼次郎は訊き直したが、報告に来た龍之丞は、首を横に振ると、再びはっきりと言った。


「誠でございます。今、喜多どのはまだ戻っていないのですが、諜者が先に知らせて参りました。俄かには信じ難いことでございますが……徳川家康と風魔玄介が手を結びました」

「…………」


 衝撃のあまり、礼次郎は絶句した。


「徳川家康は、我ら城戸軍の策を見抜き、その事を風魔玄介に伝えた上で、まずは両者にとって邪魔者である城戸家を共に討ち滅ぼそうではないか、我らの決着はその後にしよう、と持ちかけたようです」


 龍之丞は冷静に話しているつもりのようだが、少し早口になっていた。顔もどこか青い。その情報を聞いた彼自身も、まだ衝撃と動揺が抜け切れていないらしい。

 礼次郎は、無言のまま龍之丞の顔を見ていたが、やがて気を取り直して言った。


「すまないが皆を集めてくれ」

「はっ」


 四半刻ほど後、諸山城本丸内の板張りの広間に、北山砦に入っている順五郎以外の、壮之介、龍之丞、咲、そして真田信繁が集まった。四人共、すでに知らせは聞いており、一様に深刻そうな顔をしていた。


「まさか、徳川と幻狼衆が手を結ぶとはのう」


 壮之介が太い腕を組んで呻いた。


「そう来るとは思わなかったわね」


 咲は険しい顔をした。


「宇佐美殿は、このようになる事を想定はしておりませんでしたか?」


 真田信繁は、顔は深刻そうであるのだが、穏やかな口ぶりで訊いた。


「いえ、その可能性はちらりとは考えましたが、あの両者が手を結ぶなど、まず九割方ないだろうと思っておりましたので……まさか本当に手を結ぶとは」


 龍之丞は深く吐息をついた後、更に呟くように言った。


「しかし、もしかすると、これは全て徳川家康が最初から仕掛けたことだったやも知れませんな」


 全員が、一斉に龍之丞を見た。


「徳川と風魔の戦が終わるのを待ち、勝ち残った方を襲うべく、近くまで出て来る。我ら城戸軍がそう動くことを読んだ上で、あえて家康は野栗原に出た。何故か。それは、我ら城戸軍を誘き寄せてそれが脅威であるように風魔玄介に見せ、風魔玄介に手を結ばせる為ではないのか?」


 龍之丞は言うと、手にしていた扇子を自身の前に広げた地図の上に突いた。


「しかもです。私が思うに、家康が考えているのはこれだけではないかも知れませぬ。ここで一旦風魔玄介と手を結び、共に城戸家を滅ぼそうと玄介に持ちかけて玄介を油断させておきながら、その隙をついて幻狼衆をも討つような策を企んでいる、と言うこともありえまする」


「あるだろうな」


 礼次郎が頷いた。


「流石は徳川家康です。歴戦の武者らしく老練、そして剛腕です」


 重い空気が流れ、座が沈黙した。皆、言葉が出ずに黙りこくっていた。だが少しして、咲が口を開いた。


「じゃあどうするの? こうなった以上は、北山砦やこの諸山城は捨てる?」


 すると、礼次郎が即座に答えた。


「いや、ここで北山砦や諸山城を捨てて退いても同じことだ。徳川と風魔はどんどん追って来る。そうなればもっと苦しくなる」

「他に援軍を頼めるようなところも無い……一旦和議を申し込んで時を稼ぐと言うのは如何でござろう」


 壮之介が、組んだ腕を開いて言うと、


「それは無理でしょうな。徳川、風魔にとって、天哮丸の本来の持ち主である城戸家はどこまでも邪魔なのです。何が何でも滅ぼさねばならない対象なのです。どんな条件を出したところで奴らは呑まんでしょう」


 龍之丞が答えた。


「その通りだ。和議など無理な話だろう。いや、そもそも、和議などこちらから願い下げだ」


 礼次郎が強い口調で言った。その顔には、徳川と風魔が手を結んだことへの失望や恐れのようなものは微塵も無かった。ぎらぎらとした覇気に満ちていた。


「ここで食い止める。戦うんだ。ちょうどいいじゃないか。徳川家康と風魔玄介の首、二つ同時に取ってやる」


 礼次郎の言葉に、皆の固い表情が少し和らいだ。


「でも、徳川と風魔よ。私たちの三倍も四倍もの数になるのよ」


 咲が眉を曇らせて言うと、


「俺達はいつもそんな戦いをして来ただろう。今更何だよ。おい、美濃島騎馬隊は天下無敵じゃなかったのか? 美濃島の鬼女は四倍如きの敵を恐れるのか?」


 礼次郎が挑発するように言うと、咲は一瞬むっとした表情をした後、不敵に笑って言い返した。


「まさか」


 礼次郎はふっと笑い、次に壮之介を見た。


「壮之介、和議だなんて、それがかつて前線で百人を討ち取った男が言うことか? 坊主であることはしばらく忘れろ。戦国の武将、軍司道隆に戻れ。劣勢の戦いでこそ、軍司道隆の武勇の見せどころだろうが」

「はっ……」


 壮之介は苦笑した後、力強く頷いた。

 続いて礼次郎は、顔から青い色が抜け切れていない龍之丞を睨んだ。


「龍之丞、どうにもならぬ戦略上の劣勢は戦術で撥ね返す、そう言ったのはお前だぞ」

「はっ……」

「今こそ、上杉謙信公譲りの采配を見せる時だろう。それともなんだ、謙信公の戦術は家康に劣るとでも言うのか? その軍配は飾り物か?」


 礼次郎が挑発するように言うと、龍之丞の顔に生気が戻り、目が光り始めた。


「いえ、謙信公と上杉家の戦は、家康や玄介ごときでは到底及ばぬものでございます。それを証明してみせましょう」


 龍之丞は軍配を握りしめた。

 礼次郎は不敵な笑みを浮かべると、皆の顔を見回した。

 皆、すでに不安や恐れ、動揺と言った弱気な色が消え去っていた。代わりに、燃え立つような闘志が満ちていた。

 礼次郎は立ち上がった。


「恐れるな。敵が三倍、四倍であろうとも、ここまで来た俺達ならば、全員一人一人の力を合わせて一丸になれば必ず勝てる。義は我らにあり、非は奴らにある。天も見ている。負けるはずはない!」


 礼次郎は、壁が震えそうなほどに、大声で強く言い放った。


「はっ」


 全員が、礼次郎を向いて頭を下げた。その後、気焔を上げた。


 徳川と風魔が手を結んだ、この意外にして脅威的な知らせに、城戸家の士気は消沈するかに思われたが、その心配は無かった。逆にこの逆境で皆の魂は奮い立った。一同の間に沸騰するような闘志が漲った。


 そこへ、縁側の向こうの庭先に、喜多が風と共に飛んで来て姿を現した。

 濃紺の忍び装束姿のままの喜多は、縁側へ飛び上がって覆面を剥ぎ捨てると、


「あの、盛り上がっているところで申し訳ないのですが、急ぎ報告したき事がございます」


 と、跪き、息を切らしながら早口に言った。


「どうした?」

「実は、千蔵の消息がつかめました」

「何だと」


 礼次郎だけでなく、その場の全員が驚いて腰を浮かした。


「どこだ? やはり白縄山か?」


 礼次郎が身を乗り出して訊くと、喜多は頷いた。


「ええ。白縄山の、普通の人間ではまず行かぬような深い山中に、北条方風魔衆の隠し砦がございました。千蔵はそこの地下牢に幽閉されております」

「地下牢に? 何でだ?」

「そこまではわかりませぬ」

「そうか……でも、生きているんだな」


 礼次郎は顔を明るくして、安堵の溜息を洩らした。


「良かった、無事であったか」


 壮之介も思わず武骨な顔に笑みをこぼした。

 だが、喜多は深刻そうな顔を横に振った。


「いえ。喜んではいられませぬ。確かに生きてはおりますが、このままでは千蔵はすぐに死にます」

「どういう事?」


 咲が眉を顰めて訊くと、


「千蔵は何らかの理由があって地下牢に幽閉されているのですが、どうやらここ数日は食事を与えられていないようです。これも理由はわかりませぬが、風魔の者どもは、千蔵を飢え殺しにするつもりようです」

「何ということを」


 龍之丞が顔を歪めた。


「千蔵は牢の中で極力動かず、忍びの呼吸法を使って飢えに耐え、体力を保とうとしておりますが、食事を口にしていないのはどうにもならず、すでに身体から肉は落ちております。私は飢渇丸や味噌玉を小窓から投げ入れて千蔵に食べさせ、残して来た配下の下忍にも、夜半に隙を見て同じように千蔵に非常食を与えるように命じて参りましたが、それも一時の時間稼ぎにしかなりませぬ。しかも、千蔵を幽閉しているのは風魔の者どもです。我らが千蔵に密かに食を与えているのも、いずれすぐにばれてしまうでしょう」


 喜多は早口に言うと、広間の中央に進み出て、


「殿、急がねばなりませぬ。すぐに千蔵救出の兵を出しましょう」


 と、礼次郎に進言した。

 だが、礼次郎はすぐに答えられなかった。


「そうだな」


 と言ったきり、黙りこくった。

 龍之丞が、横から言った。


「難しいところですな。すぐに千蔵殿をお救いするべく兵を出したいところであるが、徳川と風魔が手を結び、いつこちらへ攻め寄せて来るかわからなくなった今、白縄山へ軍を向けるわけには行かない」

「その通りだ。すぐにでも千蔵を助けに行きたいが……」


 礼次郎は天井を見上げて呻いた後、再び喜多を見た。


「喜多。その白縄山の風魔の砦には、どれだけの風魔衆がいるかわかるか?」

「正確には掴めてはおりませぬが、常時約百人ほどが詰めているようです」

「百人か」


 礼次郎は少し考えて、龍之丞に言った。


「百人ならば、こちらも百五十から二百ほどの兵を出せば足りるか。それなら出してもいいんじゃないか?」

「そうですな」


 龍之丞は頷いた。


「それぐらいの兵ならば出してもよろしいかと存じます。その人数であれば、徳川や風魔玄介らにも気付かれにくいでしょうし。夜半にでも密かに出発させればよろしいでしょう」

「よし。じゃあ早速俺が二百人の兵を連れて行って来よう。喜多、案内を頼む」


 礼次郎が張り切って言った。

 だが、「お待ちくだされ」「行けませんぞ、自ら行くなど!」「また始まった、待ちなさいよ」と、その場の全員が即座に止めた。


「何だよ」


 礼次郎が不満そうに見回すと、


「殿は城戸家の当主であり、城戸軍の総大将ですぞ。今この状況で、ここを離れていいわけがありますまい」


 壮之介が叱るように言うと、


「そうよ。何考えてるの、馬鹿じゃないの?」


 咲は短刀で抉るかの如く、ズバッと言い放った。「馬鹿ってお前……」礼次郎は意気消沈した顔になった。それを見た龍之丞は苦笑しながら、


「殿の気持ちはわかりますが、殿はここにいなければなりませぬ。ここは、我らのうちの誰かが参りましょう」

「ま、まあそうだな……」


 礼次郎もすでに以前とは違う。今しがたは反射的に自分が行こうと立ち上がったが、皆に言われると、すぐに納得して素直に座った。


「では、誰が行こうか」


 礼次郎が見回すと、すぐに壮之介が名乗り出た。


「それがしが参りましょう。龍之丞どのはこの城にあって殿の側におられる方が良いし、咲どのは騎馬の調練がありましょう。しかし、それがしは特に急務も無い上に、先日の六条原の戦には加われなかったので、少々身体を持て余しております」


 礼次郎は笑って、


「わかった、いいだろう。じゃあここは壮之介に任す。だけど、くれぐれも無茶はするなよ。危なかったら引き上げて来い」

「はっ。お命じいただき、かたじけのうございます。必ずや千蔵どのをお救いして参ります」


 壮之介は、つるりとした頭を下げて答えた。

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