第206話 日ノ本一の宝

 千蔵は、闇を見つめていた。


 光が糸ほどにしか届かぬ地下牢の中、冷たい土の上に横たわり、天井なのか闇なのかわからぬものを、じっと見つめていた。


 いや、もしかしたら見ていなかったかも知れない。千蔵自身、目を開けているかどうかすら、すでにわからなくなっていた。


 喜多が置いて行ってくれた飢渇丸や味噌玉は一時凌ぎに過ぎなかった。逆に、中途半端に物を胃袋に入れたせいで、すぐに耐え難い空腹と渇きが戻って来て、千蔵の心身を苦しめた。


 ――このまま果てるのであろうか。


 朦朧とする意識の中、蠢いた想い。


 次の瞬間、何故か物心ついた頃より今までのことが回想された。

 朧げな両親の顔と、その両親と共に過ごした楽しい日々、しかし突如として両親を奪われた悲劇、そして性格の激変と仲間内での孤立……。

 千蔵の顔がわずかに歪んだ。だが、次の瞬間、肉の落ち切った頬がやや緩んだ。


 主君城戸礼次郎と、同志たちの顔が思い浮かんだのだ。


 ――この俺にも仲間らしきものができたのだ。


 廃墟となった城戸へ戻った夜に、皆で猪鍋を食べた時のことを思い出した。

 あの時、それまでの草の者としての習慣から、後で一人で食べようとして隅に控えていた千蔵に、礼次郎は共に食べることを命じた。



「じゃあ主君として命令する、こっちに来て一緒に食え。早くしろ。お前はオレを主君だと思ってもオレはお前を仲間だと思ってる。その仲間に後で一人で食べさせるなんてできるか。それに飯は一緒に食べる方が美味い。さあ命令だ、一緒に食べろ」



 千蔵の渇いた顔に微笑が動いた。


 ――あのお方に出会えたことは幸せであった。


 だが、すぐにその微笑が沈んだ。


(しかし、ご主君の天哮丸を奪った敵は、我が実の伯父であった……そして、その伯父は実の姉である我が母を殺し、我が父を殺した……そして俺は、実の祖父に殺されようとしている……)


 千蔵の目に悲しみの色が浮いた。

 どうしようもない、底知れぬ暗黒に己の人生が囚われているのを感じた。


 ――何と呪われた血であることか……それ故、これが運命なのであろう。俺は、こうしてここで一人で果てて行くのだろう……。


 千蔵は、命の火が頼りなく揺れ、もう間もなく消えようとしているのを感じていた。


 顔を少し動かし、壁上方の小窓を見上げた。曇っているのであろうか、月明かりは無く、そこもやはり黒い闇であった。



 壮之介と喜多は、まだ薄い夜空に星が残っているうちから、二百人の精鋭を引き連れて諸山城を出て白縄山へと向かった。


 礼次郎はそれを見送った後、本丸内の自室に戻り、もう一眠りしようと再び夜具にくるまった。

 だが、心底に何か晴れない物が引っかかり、目を閉じてじっとしていても、なかなか眠りが訪れない。何度か忙しく寝返りを打った後、礼次郎は眠ることは諦めて、部屋を出た。


 師匠葛西清雲斎に教えてもらった秘技の練習でもしようと、三の丸にある屋外の稽古場へ向かうと、通りがかった厩舎に着流し姿の龍之丞がいた。

 龍之丞は、こちらに背を向けて、馬を一頭一頭見て回っていた。


「何しているんだ?」


 礼次郎が声をかけると、龍之丞は振り向いて、


「おお、殿。お早うございますな」


 と、微笑した。


「お前こそ早いな。何しているんだ?」

「中途半端な時間に起きましたからな。寝るのもなんですし、こうして馬の状態を見ているのですよ」


 言いながら、龍之丞は栗毛の馬の頭を撫でた。


「自らやるとは感心だな。流石だ、見習わないとな」

「いえ、私も自らやるようになったのは最近ですよ。越後の御屋形様に叱られてからです」

「そうか……」

「うん? 殿、何だか顔色が優れませんな」


 龍之丞は礼次郎の様子を不審に思い、向き直って顔をじっと見た。


「え? そう見えるか?」


 礼次郎は頬を触った。


「ええ、見えますな。それに何だか落ち着かぬ様子にも見受けられます」

「そうか? いや、そんなことはないが、その……」


 言葉とは裏腹に、礼次郎は明らかに狼狽し、そわそわとし始めた。

 何か言いたそうにしたが、言い出せないと言った風で、腕を組んで馬を見始めた。

 そんな礼次郎を見ていた龍之丞は、ふふっと苦笑した。


「ゆり様がおられたなら、”また始まった、落ち着いてよ”、などとたしなめられますぞ」


 龍之丞は、まるで似ていないゆりの声真似をして見せた。


「はは、そうだな……」


 礼次郎は、気まずそうに笑った後、思い切って切り出した。


「龍之丞、あのな……」

「仕方ありますまい。このようなことは今回で最後ですぞ」


 礼次郎が言い出す前に、龍之丞が先回りして言った。


「白縄山に行きたいのでしょう? 落ち着いていられないのでございましょう?」

「お見通しか。そうだが……構わないか?」

「ええ。まあ、実は私も、いくら敵が百程度とは言え、風魔相手に二百では少なかったかも知れぬ、と思っていたところなのです」

「そうか」


 礼次郎は、ほっとしたような笑みを見せた。


「それに、それが殿の良いところでもありますからな。家臣のことを我が事のように思い、家臣を救う為ならば自ら死を覚悟してでも向かう。これが無くなったなら、城戸礼次郎は城戸礼次郎でなくなります」


 龍之丞は微笑しながら言ったが、すぐに厳しい顔となり、


「しかし、何度も言いますが、殿はすでに流浪の身ではなく、今や徳川や風魔と渡り合う城戸家の当主であると言うことをお忘れなきよう。本来、一家の当主が自らこのような仕事に出向くなど、ありえないことなのですぞ」

「ああ、わかっている。今回だけだ」


 と、肩をすくめながらも、明るく答えた礼次郎の顔を、龍之丞はじっと見つめた。


「うん? どうした? まだ何かあるか?」


 礼次郎が不審に思って訊くと、龍之丞は一つ笑ってから、


「礼次郎どの」


 と、言った。殿、と呼ばずに礼次郎どの、と言ったのは久々である。そして、越後で出会ったばかりの時のような口調で言った。


「先日、直江の旦那が越後から援軍の兵を連れて来てくれたが、俺が何故そのことをずっと黙っていたか、おわかりか?」

「…………?」

「それは、礼次郎殿に、武将としてもっと成長してもらいたいからです」

「どういうことだ?」


「我らの戦力が半減し、どうすればよいか頭を悩ませていたあの時。我らにとっては非常に苦しい時期でした。次に徳川か風魔に攻められたら、今度こそ城戸家は滅亡してしまうかも知れない。だが、その厳しい状況下で、必死に智慧を絞り、万策を練り、死力を尽くして戦う。それをしてこそ、礼次郎どのは戦国の武将として更に大きく成長できる。俺はそう考えていたのですよ。だが、越後から援軍が来るとわかったら、礼次郎殿は恐らくそこで考えることはやめてしまったことでしょう。そうなれば、折角の成長の機会が失われる。だから、俺は越後から援軍が来ると言うことを知りながらも、あえて黙っていたのです」

「そうか……ありがたいが……意地が悪いな」


 礼次郎は苦笑いした。


「ええ。しかし結果的に……六条原の戦では、俺と共に練ったとは言え、礼次郎どのはあの状況で素晴らしい作戦を立てられ、戦場でも惚れ惚れするような采配ぶりを見せてくれた。俺の期待通りに、武将として大きく一皮むけた姿を見せてくれた。俺は、とても嬉しかった……」


 龍之丞は、目を細めて礼次郎を見た。


「礼次郎どの。俺は、越後の先代不識庵謙信公が世を去られてから、半ば抜け殻のようになっていた。自分の才を試せるような戦がしたい、天下の覇権をかけて争うような大きな戦がしたい……謙信公がいなくなったことで、そんな想いや夢がしぼんで行き、俺は常に空虚を抱えて生きていた」

「…………」


「だけど、礼次郎どのに出会い、再びそんな想いや夢が輝き出したんですよ。この人なら、このお方なら、きっと俺の夢を託せる。しかも、まだまだ未完成の底知れぬ大器だ。そんな大器を……烏滸がましく無礼な言い方ですが、この俺が自分の手で育てることができるんだ。終わりが見えつつある戦国乱世で、これほどの喜びが他にあるか……俺は心底打ち震えた……」


 龍之丞の口調が、次第に熱情を帯びて来た。目は輝いて礼次郎を見つめている。


「おい、買い被りだ。俺はそんな器じゃないぞ」


 礼次郎は気まずそうに手を横に振った。

 だが龍之丞は首を横に振り、


「いや。そんなことはない。礼次郎どの、あんたは間違いなく一流の武将の器なんだ。もっと自覚を持って欲しい」

「…………」

「そして、今言ったようなことは、俺だけじゃない。順五郎どのや壮之介どの、あの咲どのだって、同じような、何らかの想いや夢を、あんたに見ているんだ。お気づきか?」

「…………」


「礼次郎どの、貴方は俺たちの主君であるが、同時に俺たちの宝でもあるんだ」

「宝?」

「ああ、宝だ。日ノ本一の宝だ」


 龍之丞は笑った後、再び真面目な顔になって言った。


「だから礼次郎どの……貴方は絶対に死んじゃ行けない。そしてより大きくなってくれ……これから、もっともっと武将として成長してくれ。俺たちにもっともっと夢を見せてくれ」


 礼次郎は、照れたように頬を指で搔きながらも、何か考え込んだ後に、表情を引き締めて力強く頷いた。


「ああ、わかった。約束しよう」


 龍之丞はそれを聞いてにやりと笑うと、嬉しそうに礼次郎の顔を見つめた。

 そして、再び普段の丁寧な口調に戻って、


「では、殿。わかっていただけたなら、くれぐれもご自身のお命だけは大切にしてくだされ。白縄山に行っても、決して無茶はせぬよう。そして、このようなことは今回が最後と約束してくだされ」

「わかった。約束する」

「ようございます。では、兵の準備をいたしましょうか」


 龍之丞は、先に立って歩き始めた。



 壮之介と喜多は、道々で兵士らに十分な休息と食を取らせながら静かに進み、夜には白縄山に入った。

 夜陰に紛れて密かに白縄山を登り、一気に風魔の砦に夜襲をかける計画である。

 壮之介は兵士達に火を全て消させ、喜多の案内で慎重に白縄山を登って行く。


「喜多どの、こういう作戦は如何であろうか?」


 壮之介が、一計を案じて喜多に言った。


「喜多どのの調べによれば、目指す砦は砦とも呼べぬような簡素なもので、詰めている人数も百人程度。だが、相手は何と言ってもあの風魔衆、何があるかわからん。しかも、我らが砦を攻めている間に、奴らは千蔵どのの身をどこか別の場所に移すか、いっそのこと命を奪ってしまう恐れすらある。そこで、それがしの一隊が、まず一つだけある門の正面から攻めかかる。他からは攻めん。そのようにして敵の注意を正面に引き付けている間に、喜多どのが少数を率いて搦め手から忍び込み、千蔵どのを救い出して来る。如何であろうか?」

「良き策です。ではそれで行きましょう」


 濃紺の忍び装束姿の喜多は、微笑んで答えた。


「よし、決まりだ。砦はもうそろそろかな?」

「あと四半刻ほども行けば着きます。この道を真っ直ぐに行くだけです」

「おお。ではここからは儂らは足を速め、一気に砦の正門に攻め寄せよう」

「承知いたしました。では、私は配下どもを連れて迂回いたします」


 喜多は、配下の忍びの者たちを引き連れて別の方角へ走り、壮之介は部隊の進軍速度を速めた。

 だが、壮之介の目に、樹木の向こうに砦の姿が浮かび上がって来た時、突如として四囲の木々がざわめいて無数の殺気が立ち上ったかと思うと、おぞましいような鬨の声が響いた。


 風魔衆の奇襲であった。


 頭上の枝葉がざわめくと、闇そのものが動いたかのような黒装束の風魔忍者たちが白刃を煌めかせながら飛び掛かって来た。

 壮之介配下の城戸兵たちは、突然の攻撃に対処できず、たちまち十数人が討ち取られた。


「備えておったか! 敵襲じゃ、皆の者、応戦じゃ!」


 壮之介は、自軍に広がった動揺と怯みを鎮めるべく、雷のような大音声を張った上で、近くに飛び降りて来た風魔忍者に豪槍を一閃して仕留めた。

 だが、配下の兵士らは何とか応戦はしているものの、刀槍のさばきに動揺が震えており、劣勢に回らされていた。


 ――ざっと七、八十人と言ったところか。


 壮之介は素早く敵状を確認すると、


「大した数ではない! 落ち着いて戦え!」


 と、声をからして叱咤しながら、雑木帯の中を縦横に駆け回って槍を唸らせた。


 その甲斐あって、兵士らは次第に落ち着きを取り戻し、不意打ちの急襲で数こそ減らされてしまったが、徐々に互角の戦いに持ち込み始めた。



 その時、喜多は砦の裏手に回り込むべく別の方角へ道を取っていたのだが、元来た方角の闇の向こうより突如として沸き起こった悲鳴と鋭い金属音により、壮之介らが風魔衆の奇襲を受けたと察知した。


 ――まずい、我らの進軍を知って待ち伏せしていたか。ここはすぐに戻らねば。


 喜多は急いで引き返そうとした。

 だが、いや待てよ、と思い直した。


(壮之介殿の類稀たぐいまれなる豪勇ならば、少々の奇襲であれば押し返せるのではないか? ならば、今は風魔党の人間の少なくとも半分はあの奇襲に加わっていて砦は手薄のはずだ。壮之介殿が持ち堪えている間に千蔵を助け出して来る方が良い)


 喜多は、すぐにそう判断した。

 壮之介の豪勇無双ぶりを信頼し、自身はこのまま真っ直ぐに砦へ急行することを決断した。

 配下の忍びたちに全速力で走ることを命じ、喜多たちは、夜風と化して砦へ走った。

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