第187話 諸山道の敗戦
徳川軍は、奇襲を破った上で急襲をかける。
眼前の城戸軍は小勢である上に動揺をしているであろう、この機を逃してはならぬと、矢合わせ、筒合わせなどはせず、いきなり突撃をかけた。
対して、城戸軍は、まず鉄砲を撃ちかけた。
龍之丞は先日、鉄砲二百丁を買い揃えて鉄砲隊を組織していた。
「撃てっ!」
凄まじい轟音が空を裂き、銃弾が稲妻の如く徳川軍の前線に飛びかかる。
しかし、流石は勇猛で鳴る三河武士である。
隣の仲間が銃弾に倒れても、怯むことなく突っ込んで来る。
そしてすぐに矢ごろは詰まり、肉薄はわずかに一瞬、両軍が正面から激突した。
たちまちに激しい刃鳴りの音が響き合い、砂塵が巻き起こり、血飛沫が舞って、やがて怒号と悲鳴が交錯する。
両軍の兵士達は槍を突きかけ、受け止め、振り回す。柄が折れるや刀を抜いて斬りかかり、必死に斬り結ぶ。敵兵に組み付き、地に押し倒し、取っ組み合いながら大地を転がり、やがて刃を相手の首に突き立てる。
激しい乱戦の様々な音が、諸山道の狭い天地を揺るがせた。
城戸軍も奮い立って勇戦したので、戦況は一見、互角に見える。
だが、数は徳川軍の方が多い。すぐに徳川軍が城戸軍を押し始め、城戸軍はその犠牲者の数を増やして行った。
このままではすぐに城戸軍の士気が崩壊するかと思われた。
だが、それを食い止めるものがあった。
壮之介の豪勇である。
天下に名高い徳川軍団の中にも数々の武勇の士がいる。
しかし、それらが霞むほどに壮之介の豪勇は際立っていた。
巨躯の彼が豪槍を一振りすれば、敵兵数人がまとめて吹き飛び、穂先を鋭く走らせれば銀色の煌きの先に冑首と鮮血が飛び散った。
彼が最前線で暴れ回っているお陰で、城戸軍は不利でありながらも士気の崩壊に至らずにいた。
その壮之介の暴れっぷりを遠目に見た徳川家康は、驚きつつも感心した。
「覚えておる。あの時礼次郎を助けた坊主じゃな。あれほど強かったとは。正直驚いたわ。まるで平八郎を見ているようじゃ」
その時、使番が飛んで来て家康に報告した。
「殿、城戸軍が後方から迫って来ております!」
しかし、家康はにやりとした。
「ふふ、そうか。では手筈通りに迎え撃てい」
それは、荒舟山と丸蔵山に潜んでいた順五郎と咲の両部隊であった。
喜多からの伝令を聞いた二人は、それぞれ山を駆け下りると、全速力で徳川軍の背後に迫った。
「急げ! まだ間に合う。徳川軍の背後をつくんだ!」
「もっと走れ!」
二人は声をからして兵士らを叱咤する。
そして、うねる谷道を進み、曲がって行くと、徳川軍が見えた。
だが、背を向けているはずの徳川軍の兵士達は、皆こちらを向いていたのであった。
しかも、最前は皆鉄砲を構え、こちらに冷たく光る銃口を向けている。
「まずい、伏せろ!」
順五郎と咲が絶叫して馬から飛び降りた。
同時に、落雷の如き轟音が耳をつんざいた。
鮮血が宙を舞う。
避けきれなかった多数の兵士らが絶鳴を上げて倒れた。
「ふふ……甘い甘い」
馬上の家康は悠然と笑う。
城戸軍の策を読んでいた家康は、数で勝る利を生かし、予め軍を二手に分けて前後からの挟み撃ちに備えていたのだった。
「徳川軍の後方がおかしい。順五郎と咲が襲いかかったはずなのに混乱が起きていないようだ」
礼次郎が言うと、龍之丞が険しい顔で答えた。
「はい。どうやら備えていた様子。しかもです。何かがおかしい。聞いていた徳川軍の数は五千人。しかし、今目の前にいるのはとても五千人もいるとは思えない。少なすぎる」
「少ない? 」
「ええ。そして、放った物見が一人も戻らない……」
龍之丞は大きく息を吐くと、礼次郎に向き直った。
「敵にはまだ何かがある。申し訳ございません、この龍之丞、失策を犯しました。殿、取り返しがつかなくなる前にここは退却を」
礼次郎もそれを悟った。一瞬、悔しそうな表情を見せたが、決断は速かった。
「わかった。皆、退けっ! 退却だ!」
礼次郎は大声で下知して回った。法螺貝を持っている者たちにも合図の貝を吹き鳴らさせた。
「退けっ、退け!」
龍之丞も、乱戦の中に馬を乗り回しながら兵をまとめて撤退にかかる。
だが、時はわずかに遅かった。
龍之丞の悪い予感が的中した。
左右の山から喚声が響いたかと思うと、突如として一軍が現れて此方へ突進して来たのである。
左からは牧野康成の一軍、右からは井伊直政の一軍が、それぞれ鬨の声を満山に響かせながら殺到して来た。
「しまった、回り込んで来たか!」
龍之丞の顔色が青くなる。慌てて軍配を振る。
「いかん、急げ! 退けっ、退け!」
礼次郎も太刀を振り上げて絶叫する。
城戸軍の負け戦となった。
撤退戦と言うのは最も難しい。敗北が決まり、士気も下がっている中、敵の攻撃を防ぎつつ背を向けて逃げなければならないからだ。
今、城戸軍はまさにその最も難しい撤退戦に移ろうとしていた中、最悪の時機で左右からの奇襲に遭ってしまった。
退き戦に移る中でも、何とか隊列を保っていたのだが、それがたちまちに崩れ立ったのは言うまでもない。谷間から天へと突き上がる喚声と怒号の中、突撃する徳川軍に蹴り倒され、槍の穂先に背を貫かれ、太刀に冑を叩き割られる。
城戸軍は三方から追い散らされ、斬り崩され、次々と大地に倒れて行く。
それでも尚、徳川軍は勢いを緩めない。
このままでは全軍壊滅と言う最悪の事態もありうる。
――負け戦か。
礼次郎は兵を指揮しながら、三方から怒涛の如く襲い掛かって来る徳川軍を見回す。
全身に悔しさが広がって行った。
城戸から再興の兵を挙げて以来、城戸軍はほぼ連戦連勝であった。
だが、因縁の宿敵、徳川家康との乾坤一擲の一戦で、初めての敗戦を喫してしまった。
――家康がすぐそこにいるのに退かなければならない。これほど悔しいことがあるか。
礼次郎の太刀を握る手が震える。
だが、もはやどうにもならない。
戦うどころではないのだ。このまま逃げるにしても、礼次郎の命すらどうなるかわかったものではない。
だが、そこで軍司壮之介が気焔を吐いた。
「殿、ここは某が食い止めます。殿と龍之丞殿はこの先を逃げ延びてくだされ」
「お前一人だけに任せられるか!」
礼次郎は
だが、壮之介が目を剥いて大喝した。
「このような時に未だそのような子供じみたことを仰せか! すでに以前のような流浪の身ではないのだ、今は城戸家の当主であり、この全軍の総大将であると言うことを自覚されよ!」
すると、礼次郎は唇を引き結んで黙した。
頷いて、静かに言った。
「わかった。ここはお前に任せる。だけど死ぬなよ。討ち死には許さないからな」
「ご安心を。このような戦こそ、某の本領発揮でござる」
壮之介は不敵に笑った。そこへ、龍之丞が進み出た。
「では、俺も加わろう。まだ残っている鉄砲隊百忍を率いて援護する。壮之介殿、敵軍を食い止めるならば、この先の、道が狭まる隘路の入り口が良いかと思う。そこを立ち塞ぐようにして戦ってくれ。俺はその後背の左右に潜み、鉄砲を撃ちかけながらそれを助けよう」
「うむ、良い策だ。では某は精鋭十数騎と共にそこで敵を食い止め、存分に暴れてくれよう」
「決まりだ。では殿、先に諸山城まで退いてください」
龍之丞に言われて、礼次郎は尚も、彼らを残して自分だけが退くことに対して後ろめたさがあるようであったが、大きく頷くと、余裕のある残兵たちをまとめて退いて行った。
龍之丞は、鉄砲兵百人を率いてその後に続いて行く。
そして壮之介は、日ごろから目をかけている屈強な精鋭十数騎を集め、敵の猛攻をさばきつつ、狭まり始める道の入り口まで退くと、眼を怒らせて不動明王の如く立ち、万雷の大音声を轟かせた。
「我こそは軍司道隆! ここから先は一歩も通さんぞ。徳川軍の雑魚共、命が惜しくばかかって来い! 我が槍の錆びとしてくれん!」
熱く血生臭くなった空気を吹き飛ばすような凄まじい気迫に、寄せて来る徳川軍の前線の兵士らは一瞬怯んだようであったが、何せ相手はたった一人の将と、その部下十数騎なのである。何ができるものかと侮り、どっと喚いて攻め寄せた。
だが、壮之介の豪勇はここで更に爆発する。
豪槍を一振りすれば、徳川兵はまとめて叩き飛ばされ、突き出せば稲妻の如き銀光が胸甲を貫く。
また、壮之介が選り抜いた部下の精鋭十数騎もその強さは突出しており、魔神のように暴れる壮之介の左右で血の雨を降らせた。
それだけではなかった。背後の左右の山に潜んだ龍之丞の鉄砲隊が、機を見て盛んに鉄砲を撃ちかけた。
勝利を決し、後は掃討戦、敵の総大将城戸礼次郎も討ち取ってくれる、とばかりに攻めかかった徳川軍だが、ここに来て攻めあぐねる事態となってしまった。
そのうちに、徳川軍も段々と疲れて来る。
その機を見て、壮之介は敵の攻撃をさばき、豪勇を振るいながら、徐々に後退して行った。龍之丞の鉄砲隊はそれを援護する。見事な連携と撤退であった。
そして、順五郎と咲の両部隊も、必死の撤退戦を演じていた。
順五郎は、壮之介と同じように、選り抜いた精鋭十数名を両脇に従え、自ら殿に立って凄まじい武勇を振るっていた。
「来い、雑魚ども! 全員まとめて叩き伏せてやる!」
野獣の如く咆えた。
雪崩の如く襲い来る徳川軍の兵士たちを、暴風のような槍さばきで叩き飛ばし、穂先に串刺しにして行く。
その後方では、美濃島咲が半弓で矢を放ち、山に潜んでいた早見喜多が煙玉、焙烙玉などなど、持てる限りの忍びの技を尽くしてそれを援護した。
このようにして、城戸軍は全軍の半数近くが倒れ、生き残った兵士らも大半が負傷すると言う大惨敗を喫したのだが、一党の勇士たちの活躍によって何とか全軍壊滅を免れ、退却にも成功したのだった。
しかし、ただ一人、戻れなかった者がいた。
彼は未だ、丸蔵山の山中で一人、奮戦していた。
笹川千蔵の周囲には、すでに味方は誰もいなかった。
引き連れていた配下の兵士たち、下忍たちは皆、山中に骸を晒していた。
千蔵だけが一人、襲い来る服部半蔵とその部下たちの攻撃をさばきつつ、山中に退路を求めて飛び回っていた。
だが、半蔵を始め、その配下の武士たち、忍びたちの追跡は執拗かつ巧妙を極めた。
千蔵は、樹木が密生し、身動きが取りづらい方向へと追い込まれて行った。
やがて、枝上に飛び上がろうとした千蔵の右脚に、鋭く飛んで来た棒手裏剣が掠った。
たまらずに空中で体勢を崩したが、千蔵は流石であった。咄嗟に枝を右手で掴むと、そのまま勢いをつけて飛び、一つ隣の木の幹に飛びついた。
だが、そこへ何かが飛んで来て爆発した。紫色の煙が沸き起こる。
――しまった、煙幕? いや、毒薬か!
千蔵は息を止め、慌てて木から飛び降りた。
だが、吸い込んでいないにも関わらず、千蔵は眩暈を覚えてよろめいた。
(吸ってはいないはず。どういうことだ?)
その様子を遠目に見た服部半蔵は笑った。
「無駄だ。それは皮膚から入り込む。我が徳川が独自に開発した最新の毒薬よ」
(どうなっている……意識が……)
千蔵は胃液を吐き、堪らずに両手両膝をついた。
何とかして正気を保とうと、全身を奮い立たせようとしたが、意識はますます遠のいて行く。
そしてついに、千蔵は意識を失い、倒れ込んでしまった。
「やったか。首を取るでないぞ。縛り上げよ。聞かねばならんことがいくつかあるからな」
半蔵は配下の者どもに指示しながら、悠然と歩を進める。
配下の兵士たちが、倒れている千蔵に駆け寄った。
そして、縄を出して縛り上げようとした時であった。
突如として激しい突風が吹いた。
いや、突風と言うよりも、竜巻のようであった。
周囲の樹木の幹が大きくしなり、葉が渦を巻いて舞い上がるほどの凄まじさである。
同時に、数人の小さな悲鳴が上がった。
「何だ?」
半蔵と、その配下の兵士たちは、その風の凄まじさに思わず立ち止まって目を閉じた。
しばらくして暴風が止み、半蔵らが目を開けた時、信じられない光景が眼前にあった。
千蔵を縛り上げようとしていた兵士らが皆、血を流して倒れていたのである。
そして、代わりにそこに、一人の容貌魁偉な巨漢が立っていた。
柿渋色の忍び装束を着ているが、顔に覆面はしていない。
その顔は鬼のような赤みを帯び、わずかに開いた口から覗く犬歯は野獣の牙の如くであり、眼裂が長く吊り上った目は鋭く不気味な光を放っている。
そして、隠しきれぬほどの禍々しい殺気。
――こいつはもしや?
半蔵は一目で直感した。
「何奴っ!」
残っている兵士たちが槍を構え、忍びの者たちが刀を構える。
巨漢は薄笑いで低い声を響かせた。
「
兵士たち、忍びの者らが思わず後ずさった。
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