第188話 空城の計

 ――やはり風魔小太郎か!


 服部半蔵は、納得したと同時に驚愕した。


 ――風魔小太郎が何故ここに現れた?


 その小太郎、不気味な薄笑いのまま、半蔵らを見回した。


「お主ら、この男に何をするつもりか」


 兵士らが一歩進み出て、声を張り上げる。


「その者は敵の城戸軍の将だ。捕えるのだ。邪魔をするでない」

「ほう、なるほど。そう言えば戦をしていたのであったな。では邪魔をすると言ったらどうなるのかな?」

「貴様も共に捕えてくれるわ」


 その声を合図に、兵士たち、忍びの者たちが一斉に小太郎に向かって行った。


「愚か者どもが」


 小太郎は不敵に笑った。

 両手に剣を抜き、風のように身を躍らせた。


 そして小太郎は、その巨体からは信じられぬほどの軽々とした動きで縦横に飛び回り、両手に握った二本の剣で徳川の者を次々と斬り倒して行った。

 その技は凄まじく、小太郎が徳川の者に肉薄した瞬間、ほとばしった銀光と共に相手は血を噴いて崩れ落ちていた。甲冑の上からでもわずかに一刀で叩き斬る凄まじい絶技。甲冑がまるで意味を成さない。

 それはまるで蟻の群れを蹴散らすかの如くであり、戦慄すべき圧倒的な暴勇であった。


 その凄まじさに、味方がやられていると言うのに思わず見入ってしまった服部半蔵。いつの間にか背にべっとりと冷たい汗をかいているのに気が付いた。

 はっと、我に返って叫んだ。


「止めよ! 退けっ!」


 残っている半蔵配下の武士も忍びの者も、皆すでに小太郎の恐ろしさを目の当たりにして戦意を失いかけていたが、半蔵の命令でぱっと逃げ下がった。


「それでよい。儂も老いたが故に、昔のように戦う気の無い者まで追いかけて殺すようなことはせん」


 小太郎は、にやりと不気味な笑みを見せた。

 半蔵は唾をごくりと飲み込むと、進み出て尋ねた。


「風魔小太郎、何故ここにいる? 北条殿の命令か? 我らが徳川軍と知ってのことか?」

「行動には必ず理由がいるものかね?」


 小太郎は、低い笑い声を響かせながら答えた。


「何?」

「我がここにいるのは誰も知らぬ。ましてや我が殿の命令などではない」


 小太郎は言うと、倒れている千蔵を見て、


「さて、服部半蔵。ここにいる男はもらって行くぞ」

「どうするつもりだ?」

「どうする? はは、またもおかしなことを。もう一度言う。行動には必ず理由がいるものかね?」


 小太郎は笑うと、膝を曲げて、昏倒している千蔵の顔を覗き込んだ。


「ふむ。玄介と言い、こやつと言い、儂の血を引いているにも関わらず、何ともひ弱にできてしまったものよ」


 ――何だと? 小太郎の血を引いている?


 服部半蔵は、大きな衝撃を受けた。


(そうか、そうだったのか。千蔵の母親は、風魔小太郎の娘か。千蔵は風魔小太郎の孫であったのか)


 半蔵は、小太郎と千蔵の顔を見比べた。


 風魔小太郎は、千蔵の身体を抱え上げると、軽々と肩に担いだ。

 そして、半蔵を見て笑った。


「では、さらば。またいずれ会おう」


 次の瞬間、またも竜巻の如き風が吹き荒れた。

 その暴風が止み、半蔵らが目を開けた時、小太郎の姿は消えていた。


 夕刻。

 先に退却して行った礼次郎は、諸山城に辿り着いた。

 使番によってすでに敗戦を聞いていた留守居の兵士たちが青い顔で駆け寄って来た。


「殿、ご無事でしたか」

「お味方は総崩れと聞きましたが」

「ああ」


 礼次郎は馬を降りると、まず、城門を閉めようとする兵士らを止めた。


「まだ閉めるな。これからまだ味方が逃げて来る。今、壮之介と龍之丞らが殿に立って必死に敵を防いでくれている」

「無事に戻って来られますか?」


「諸山道が両脇を山に挟まれた狭い道なのも幸いしている。壮之介らが殿にいる限り、退いて来る兵らは大丈夫なはずだ」

「しかし、開けっ放しなのもまずいかと。殿の軍司様たちも無事に戻って来たとしても、きっとそのすぐ後に徳川軍が追いかけて来ておりましょう」

「それなら心配するな。俺に少し考えがある。今から俺の言う通りに手配をしてくれ」


 礼次郎は、諸山城にいる兵士らを全て集め、手早く指示を言い渡した。


 そしておよそ半刻ほど後、順五郎と咲、喜多、半数ほどに減った兵士らが、道を迂回して諸山城に戻って来た。

 順五郎と咲は全身返り血まみれ、冑の前立ては折れ、胴はあちこち傷だらけ、死闘の跡が窺える生々しい様であった。


「順五郎! よく戻って来てくれた!」


 礼次郎は、順五郎に駆け寄って抱き合った。


「あんな程度でこの俺が死ぬかよ」


 順五郎は豪快に笑った。


「咲も、よくやってくれた。無事で安心した」


 礼次郎は咲の肩を抱いた。


「大したことないわよ。それより、こんなことしてたらお姫様が怒るわよ」


 咲は泥と返り血に塗れた顔ながらも、涼しい表情でにやりと笑った。礼次郎は苦笑しながら手を放すと、改めて二人に言った。


「とにかく、よく無事でいてくれた」

「壮之介と龍之丞は?」


 咲が、兵士が持って来た濡れ手拭いで顔を拭きながら聞く。皆、まだ冑の緒は緩めない。諸山城に辿り着いたとは言え、まだ安心はできないのだ。


「殿に立って奮戦してくれている。あいつらのことだ、大丈夫だとは思うが……」


 その間にも、諸山道の向こうから続々と傷ついた兵士らが逃げて来る。


 やがて、しばらくして、壮之介と龍之丞が、兵士らを率いて戻って来た。


「無事だったか!」


 礼次郎は、二人とも抱き合って無事を喜んだ。


 流石と言うか、壮観ですらあった。壮之介と左右の精鋭らは、皆、傷を負っているものの、一人も欠けていなかったのである。龍之丞が率いた鉄砲隊にもまた、一人も犠牲者はいない。

 何という戦いぶりであろうか。

 礼次郎らはもちろんのこと、兵士たちも歓喜に沸いた。


 しかし、壮之介は険しい顔で礼次郎に言う。


「だが、まだ安心はできません。何とか振り切って参りましたが、それでも徳川軍は何度も兵をまとめて追って来ております。すぐにでもここに押し寄せて参りましょう」


 歓喜が一転、兵士たちの顔が強張り、緊張感に満ちた。

 龍之丞が煤だらけの顔で進み出て、進言した。


「殿、この上は、この諸山城は本当に捨てて、国生城に向かいましょう」

「俺もそれがいいと思うぜ」


 順五郎が同調した。

 だが、礼次郎は首を横に振る。


「いや、ここを捨てて国生城に籠ったとしても同じことじゃないか? 家康はすぐに国生城に殺到してくるだろう。そして、国生城はここと同じような構造の城だ。ならば、この諸山城に籠って家康を迎え撃つ方がいい」

「しかし……迎え撃つと言っても、今の我らでは……」


 龍之丞は四囲を見回した。

 半数近くにまで減った自軍。しかも、その行き残った半数も一様に疲労の色が濃い。


「俺に少し考えがあるんだ。すでに大体の手配もしてある」

「考え?」

「ああ。後は、城門を掃き清めた上で、思いっきり開け放て。篝火も沢山焚くんだ。そして皆、俺の言う通りの場所に潜み、一切の声を出さずに静かにしていろ」


 龍之丞はそれを聞いて、すぐにはっと思い当たった。


「それはもしや空城の計……!」


 だが、一瞬で表情を曇らせた。


「しかし殿、空城の計は……」


 礼次郎は、龍之丞が何を言いたいのかを察知した。


「お前の言いたいことはわかる。だが、今から俺の言う事を聞いてくれ」


 礼次郎は、皆を集めてその考えを説明し、更に各人に細かい指示を下した。

 聞き終えると、皆は納得して頷いた。


 やがて半刻の後。初春の空はすっかり暗くなり始めている。

 血と硝煙の匂いが生々しく残る中、わずかな赤黄色い残照を浴びながら徳川軍がやって来た。


「ふふ、諸山城に逃げ込み、我らも追撃を止めたことで、今頃は安心して油断していることだろう」


 家康は馬上から、暮色になじみ始めた諸山城を見はるかして笑った。


「ここを急襲すれば諸山城を落とすのは容易であろう。そして、城戸軍殲滅はもちろんのこと、礼次郎の首をも挙げられるはず」


 だが、背後の倉本虎之進が、諸山城の異様な様子に気付いた。


「お待ちくだされ。殿、諸山城の様子がおかしゅうございます。やけに静かすぎると言うか……」


 すると、本多正信も気付いて怪しみの目を向けた。


「確かに。おや? どうやら城門が開け放たれているようでございます」

「何?」


 徳川家康は目を凝らして前方の諸山城を見つめた。

 更に軍を進めて近づいて行くと、その通りであった。


 城の周りと城門は綺麗に掃き清められた上で、城門が四方に向けて開け放たれている。

 その城門前には篝火が赤々と焚かれており、周囲の堀の外にも一定間隔を置いて篝火が揺れていた。

 その癖、城の中は不気味なほどに静まりかえっていた。


 諸山城まで約十町の地点で、家康は進軍を停止した。


「これはどういうことでございましょう」


 倉本虎之進は睨むように諸山城を見つめる。


「…………」


 本多正信も無言で見つめる。

 すると、諸山城の本丸の方向の物見櫓の上に、二つの人影があることに気付いた。


「殿、あれを」

「うん? あれは……もしや城戸礼次郎か?」


 家康が見れば、その物見櫓にいる人影のうち、一つは紛れもなく礼次郎であった。

 そしてもう一つの方は、家康は見た事ないが、宇佐美龍之丞である。


「城戸礼次郎? あれは……酒を飲んでいるのか?」


 虎之進は目を細めて見上げる。

 上り始めた半月を背に、礼次郎と龍之丞は物見櫓の上に胡坐をかき、笑い合いながら酒を酌み交わしていた。


 若年ながらすでに名将の呼び声高い井伊直政が怪しんだ。


「負け戦の後、我らがまだ追撃して来ているのを知りながらも、城門を開け放ち、あのように悠然と酒を飲んでいる様を見せる。何か罠でもあるのでしょう」


 しかし、家康は突然高笑いを上げた。


「はははっ、愚かな」

「全くですな」


 正信も同調して失笑する。

 虎之進と井伊直政は、その笑いがわからず、尋ねた。


「どういうことでございますか?」


 家康はくっくっと笑いながら答える。


「これは空城の計よ」

「空城の計?」

「そうよ。わざと城門を開け放ち、何か罠があるかのように見せかけ、敵を退却させる計だ。だが、実際には何の罠もありやしない。言わばはったりじゃ」

「なるほど……」

「しかし、この儂に対して空城計を使うとは愚かな。儂がその昔、三方ヶ原の戦の後に、浜松城でこの計を使ったことがあるのを知らぬと見える」


 十三年前の元亀三年十二月。

 徳川家康は、侵攻して来た武田信玄と三方ヶ原において乾坤一擲の決戦に及んだ末、大惨敗を喫した。その後、居城浜松城に逃げ帰った家康は、あえて城門を開け放ち、篝火を煌々と焚き、太鼓を叩かせた。それによって、追撃して来た武田軍は徳川軍に罠や伏兵があると警戒し、浜松城を攻めずに引き上げたのだった。


「ふふ。儂は三方ヶ原の戦を今でも夢に見るほどに覚えておる。その儂に対してその手が通じると思うてか。これははったりじゃ。恐らく城内にはほとんど兵はおるまい。全軍で突入し、一気にあの城を落としてしまえ!」


 家康は高らかに命令を下した。

 陣鐘、太鼓が打ち鳴らされ、倉本虎之進、井伊直政らが兵士を率いて一斉に城門に殺到した。

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