第182話 鞍馬山の出会い
ちょうど城戸軍が小雲山を攻め落とした翌日。
武蔵北部、男衾郡の野で、周囲の味方が総崩れになる中、北条氏政がわずかな伴の者らと共に逃走していた。
あちこちに火の手が上がる中、戦意を失った兵士らが逃げ惑っている。しかしその背を後ろから幻狼衆軍の槍で突かれ、左右からは騎馬隊の突撃を受けて突き飛ばされ、踏み殺される。血煙と土塵が舞い上がる中、怒号と絶鳴が刃鳴りの音と共に冬の空に響いていた。
その日の午前、風魔玄介率いる幻狼衆軍約三千人と、北条氏政率いる北条軍約八千人が正面から激突した。
数の上から言えば北条軍が圧倒的に有利であり、幻狼衆軍はまともに太刀打ちできずに潰走するかと思われた。
しかし、風魔玄介と側近三上周蔵の采配は巧妙をきわめ、北条軍を挑発し、分断し、誘い込み、各個撃破した上で、奇襲を仕掛けた。風魔玄介自ら天哮丸を抜いて北条軍に突撃、敵陣深く入り込んで縦横無尽に暴れ回り、戦列をかき乱して混乱させ、散々に打ち破ったのであった。
北条軍は約半数の兵を失い、残った兵士達もその三分の一が負傷すると言う惨憺たる敗北であった。
北条氏政は残兵をまとめ、幾つかの城を放棄して、多摩郡にまで退却して行った。
その後は、風魔玄介の思うがままであった。
背後の城戸軍の動きが気になってはいたが、この機を逃すのはもったいないと、余勢を駆って武蔵国北部の各地に侵攻、手薄になった諸城を次々と落として行った。
たちまち、武蔵北部は幻狼衆の支配するところとなった。
そして、風魔玄介は一つの決定をした。
以後、幻狼衆と言う名称を使わず、正式に風魔家と名乗る、と。
名実共に独立大名への道を宣言したのである。
それを握った者は天下を得る――まさに天哮丸の伝説の通り、このまま行けば、玄介は天下を取れるのではないかと言うほどの猛威で北武蔵を席巻した。
一方、城戸軍。
小雲山を占拠したその三日後、大雲山を陥落させた。
そしてまた三日後、美濃島一帯より更に南下し、いくつかの砦と小城を落とした後、美濃島咲の配下、加藤半之助らにそれらを任せて、礼次郎らは城戸に凱旋した。
戻ると、いつもと同じように、茂吉やおみつ、ゆりたちが出迎えに来ていた。
館の大手門の前に、彼らは待っていた。
「おかえりなさいませ」
茂吉たちと共に、ゆりも礼次郎の帰りを喜んだ。
そのゆりの横には、瑤子がにこやかな微笑で立っていた。
「ええっと……」
礼次郎が馬上から何か言いかけようとすると、ゆりがそれを察して先に言った。
「聞きたいよね? わかっています。まずは湯浴みなどしてから。その後ゆっくり話すから。皆一緒にね」
礼次郎は館に入ると、甲冑を脱ぎ、湯殿に入って身体を洗い、しばしの休息の後、大広間に向かった。
上段に座って待っていると、やがてゆりがやって来て、壮之介、順五郎など、全員が続々とやって来た。
皆、少しの緊張と期待が同居したような表情をしている。
おみつが蕎麦掻きと茶を持って来た。全員の前に膳が並ぶと、まず、礼次郎が皆の労をねぎらう言葉を発した。
その後、しばし皆で蕎麦掻きを食べながら雑談をしていたが、皆がちらちらとゆりを見始めたので、ゆりが少しおかしそうに笑いながら切り出した。
「皆気になって仕方ないみたいだからそろそろ話しましょうか。結論から言えば、あの方は本当に私の実の母親でした」
時は戻る。
城戸軍が美濃島攻略に出陣して行った後、瑤子は貸し与えられていた自室にゆりを呼んだ。
瑤子が自分の実の母親。
ずっと密かに探していた実の親であるが、あまりに突然に判明したことであり、また、瑤子は旧知の仲であった為に、ゆりには今一つ実感が沸かなかった。
と言うより、まるで自分の事じゃないような気さえしている。
だが、目の前の自分の生みの母だと言う大貴族の婦人は、
「百合子」
と、親しげに、しかしどこか申し訳なさげに自分を呼んでくる。
「ごめんなさいね。本当に……ごめんなさいね……」
いきなり瑤子は泣き出し、その場に突っ伏した。
ゆりは慌てた。
「そんな、瑤子様、そのようなことはなさらずに……」
すぐには母上とは出て来ない。自然と、瑤子様と呼んでしまう。
瑤子はずっと泣いていた。これまで溜め込んで来た感情が、涙になって溶け出ているようであった。
しばらくして涙が止まり始めると、瑤子は両手でゆりの頬を触った。
「顔、見せてちょうだい。もっとよく見せて……」
瑤子は、愛おしそうにゆりの顔を見つめた。
「え、ええ……」
ゆりは戸惑いながらも、瑤子のするがままに任せた。
そして、ゆりも瑤子の顔を見つめた。そう言えば、鼻から下の部分が、自分と似ている気がする。
「うん、うん。やっぱり私の娘だわ。赤子の頃の面影がよく残ってるし……目は父君にそっくり」
瑤子はまたも、目に涙を浮かべながら言った。
「父……あの、父って……伊川経秀様ですか?」
ゆりは恐る恐るたずねて見た。
だが、返答は違った。瑤子は一瞬、遠い目をした後、寂しそうな笑みで言った。
「違うわ。
ゆりは驚いた。瑤子の今の夫とは違う名前だ。いや、それどころではない。
「え? 近衛って……まさかあの……」
瑤子は頷いた。
「元関白で前太政大臣だった近衛
近衛家は、二条家と同じく、平安中期に藤原北家が五つの家に分かれた五摂家の一つであり、その筆頭である。
そして近衛前久は、恐らくこの時代を代表する有名公家であろう。
前久は、公家らしからぬ大志と豪胆さを内に秘め、若い頃には関白でありながらも上杉謙信と意気投合して越後に下向し、謙信の関東平定を助けるべく古河城に二年間いたこともある。その後は上杉家を離れて京に戻ったが、以後も織田信長や徳川家康らと交流を持ち、今も時代の先端で精力的に活動している。
だが、かつてその近衛前久と何かと対立していた政敵が、瑤子の父であり、同じ五摂家の一つである二条家の当時の当主、二条晴良であった。
十八年前、永禄十一年(1568年)。
京は将軍後継問題で揺れていた。
永禄八年(1565年)に第十三代征夷大将軍、足利義輝が松永久秀と三好三人衆によって殺害される、いわゆる永禄の変が起きると、その後、義輝の従弟である足利
義栄を支援したのは三好家と松永久秀であり、その三好と松永が永禄の変以後より何かと頼っていたのが近衛前久であった。一方、義昭は越前の朝倉家などの支援を受けており、公家で親密であったのが、義昭の元服式なども執り行った二条晴良である。
永禄十一年(1568年)春、先に将軍宣下を受けたのは義栄であったが、その後、同年十月、足利義昭は織田信長を頼った。信長はこれに応えて義昭を擁して上洛、三好や松永の軍を打ち破って京から駆逐すると、義昭を将軍に就任させた。
晴れて将軍となった義昭は、まず実兄の十三代将軍義輝の暗殺に関わった容疑、及び義栄の将軍就任を決定した咎により、近衛前久を朝廷より追放した。後継の関白職には、義昭を支援している二条晴良が就任した。
話は、その義昭の将軍就任と近衛前久の朝廷追放より半年ほど前のことである。
当時十七歳、花のような美少女であった瑤子は、伴の者らを連れて、桜を見に鞍馬山まで出かけていた。
すでに京の桜は半分ほどが散って緑が濃くなって来ていた三月の中旬であったが、鞍馬山は標高が高い為か桜の開花が遅く、今はまだ見頃だと言うので、今年最後の桜を見に行こうと、瑤子が言い出したのである。
鞍馬山の桜は絶景と言って良かった。
源義経の伝説で有名な鞍馬寺の山門に入ると、すぐに色鮮やかな桜の花が咲き乱れるのが目に入った。
中へ進んで行くに連れて、視界の粉紅色は広がって行く。未だ肌寒さを残すそよ風に花は揺れ、時折花弁が散り落ちて肩にかかる様は艶やかで儚げで、まるで天からの贈り物のようであった。
一通り桜の美しさを堪能した後、鞍馬寺の本堂に行って参拝した。その後、さあ帰ろうかとなった時、瑤子がわくわくとした調子で言った。
「折角ここまで来たのだからもったいないわ。この山の中をもっと見て行きましょうよ。もしかしたらもっと桜の美しい場所があるかも知れないわ」
伴の者らは、何があるかわからない、危ないと言って反対したが、瑤子は聞かなかった。
まだ世間知らずな癖に冒険心だけはある、この年代の少年少女特有の行動である。
そして、瑤子らは山の奥へと入り、深山幽谷とまでは行かないが、人の手が入っていない自然の景色を楽しんだ。
「牛若丸はここで天狗と修行したのね。天狗、出て来てくれないかしら」
瑤子は無邪気に笑いながら言った。
すると、横山と言う若い男の従者が眉をひそめて言った。
「何をおっしゃいますか。天狗は良い者とは限りませんぞ。むしろ悪い天狗の方が多うござる」
「良い天狗と悪い天狗がいるの?」
「私も見たことはございませぬが、天狗を見たことがあると言う父の従兄の友人の甥が申したところによると、天狗にも色々あって、良い悪いはもちろんのこと、空を自在に飛ぶことができる天狗、妖術を使って化けることができる天狗など、様々な天狗がおるそうです。中には、数を数えるのが大好きで、世のあらゆる物の数を数えている珍妙な天狗もおるとか……」
「へえ、面白い」
瑤子が手を叩いて笑った時であった。十間ほど向こうの樹木が揺れたかと思うと、そこから七、八人の男達が現れた。
どれも顔から着物まで薄汚れた出で立ちで、それぞれ腰には刀を差している。眼光はぎらついて獲物を見る獣のようであり、一目で非友好的でこちらに害をなすであろうことがわかった。
瑤子たちの顔色が青ざめた。
「ほう、久々の獲物じゃわ」
男の一人が下卑た笑いを見せた。
「こちとら最近実入りが無くてな。悪いが死んでもらうで」
「おっと、待てや。あそこの小娘はかなりの上玉や。たんと楽しんでからにしようや」
数人が、瑤子のまだ咲きかけの花のような若い美貌を見て舌なめずりをした。
「瑤子様、お逃げを」
従者の一人が青い顔になりながらも、持っていた刀を抜いた。
「ほう。俺達相手にやる気か」
男達が笑いながら一斉に抜刀した。
見るからに手入れの行き届いていない刀であった。だが、その刃の不気味な輝きは、瑤子たちを震え上がらせるには十分であった。
お逃げを、と言われたが、瑤子はもちろん、周りの侍女たちも皆、恐怖で竦んで足が動かなかった。
そして、男達がじりじりとこちらに迫って来た時であった。別の声が響いた。
「やめよ! その者たちに手を出すことは許さん!」
瑤子たち、そして賊徒たち、皆その声の方を振り向いた。
そこには、十数人の武装した従者を引き連れた、烏帽子、狩衣姿の公家の若者がいた。
若者も太刀を持っていた。目を怒らせて、
「不埒な賊どもめが。世の為、ここで成敗してくれる」
と、抜刀して自ら賊徒どもに斬りかかって行った。続いて、その従者たちも刀を抜いて躍りかかって行く。
「生意気な。やっちまえ!」
賊徒たちも応戦し、たちまち剣光乱れる斬り合いが始まった。
しかし、命令した公家の若者は、威勢良く自ら斬りかかったものの、彼自身の腕は誠に頼りないものであった。
賊徒共を成敗するどころか、終始押され気味で、従者らに助けられて何とか斬られずにいると言う有様であった。瑤子ははらはらしながら見守った。
しかし、従えている従者たちはどれも猛者ぞろいで、すぐに賊徒共を圧倒、やがてほとんどを斬り倒し、かろうじて残った二、三人は転げるように逃げて行った。
「お怪我などございませぬか?」
全てが片付いた後、狩衣の貴公子は瑤子に駆け寄って微笑みかけた。
「はい。おかげさまで特に何もございませぬ。助けていただきありがとうございました」
瑤子は安堵して答え、貴公子の顔を見た。
よく見れば、大きくかつ涼やかな目元が印象的な、凛として爽やかな美青年である。
「いえ、何の。お恥ずかしいが、今ご覧になられた通り、私自身は武芸は得意でなく……私の従者たちが助けたようなものです」
「そのようなことはございません。貴方様が助けるように命じてくださったのですから」
「ありがたきことです。そのようにおっしゃってくださるのなら嬉しい限りです」
美青年は、恥ずかしそうな笑みを見せた。
その笑顔に、瑤子は一瞬で心を奪われた。
しかし、その後に彼が明かした素性に、瑤子の顔は曇った。
「私は
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