第180話 美濃島の夜戦

 翌日も、やはり小雲山、大雲山、共に動きがない。

 そしてまた同じように夜がやって来る。

 完全に暗くなる前に兵士らに兵糧を使わし、自分たちも飯と梅干しと魚の干物を焼いたものだけの簡単な食事を取った後、礼次郎は甲冑の上に黒貂の羽織を纏い、陣中を見回りに出た。暇を持て余していた咲も同行した。


 兵士らの談笑の声が聞こえるが、それはどれも粗末な幕舎の中からであった。

 真冬の夜である。寒さが厳しいので、皆食事を取った後は幕舎の中に籠っていた。

 外は、見回りの兵士らが巡回しているだけであった。


「あんた達、これからどうするの?」


 ふいに、美濃島咲が言った。


「どうするって、何が?」

「お姫様のことよ」

「ゆりが、何だよ?」

「呑気ねえ。お姫様に実の母親が見つかったのよ。しかも公家中の公家、五摂家の二条家よ。この状況で、お姫様はこれまで通りこの片田舎の城戸に居続けるの?」


 その言葉に、少し眠そうにしていた礼次郎の目が見開いた。咲の顔を見た。


「まあ、すぐに何かが変化するとは思わないけど、夫婦になる気があるなら早く祝言を挙げたら?」


 礼次郎は少し頬を赤くしながら、


「……こんな時にできるかよ。まだ早い」

「そう。じゃあその前に、とりあえずやることだけはやっておいたら? 毎晩悶々としてるんでしょう?」


 咲はにやりとした。


「お、お前、何言ってるんだ」

「あら。別におかしくはないでしょう。許婚なんだし。それとも……やり方がわからないのかしら?」


 咲は妖艶な笑みで悪戯っぽく言うと、すっと音もなく礼次郎に寄った。そして素早く礼次郎の右手を取ると、小札の上からだが、自分の胸に押し当てた。彼女は甲冑姿であるが、それでも美貌と色香は隠し切れず、礼次郎に絡みつくように匂う。

 礼次郎は狼狽し、顔が瞬時に熱くなった。


「おい」

「わからないなら教えてあげるけど?」


 咲は、蕩けそうなほどに艶っぽい語気で、そっと囁いた。

 礼次郎は弾くようにその手を振りほどいた。


「戦場だと言うのにお前は何考えてるんだ、いい加減にしろ! ……いやそう言うことじゃなくて……」


 と、小声で言い、巡回の兵士達に見られていないかと四方を見回した。その様を見て、咲はおかしそうに笑い声を上げた。


「てめえ、からかってるのか」


 礼次郎が憎たらしげに咲を睨んだ時、うん? と気が付いた。

 辺りに白い靄のようなものが漂っている。霧であった。


「あら、始まったわね」


 咲も気付き、普段の表情に戻って言った。


「始まった?」

「この霧よ。この辺りでは、秋から冬にかけてはよく発生するのよ」


 その瞬間、礼次郎の直感がざわめいた。咲の白い端正な横顔を見た。


「そんなによく発生するのか?」

「まあ、多い時だと四、五日に一回は濃い霧が出て、酷い時には数間先も見えなくなるわ。今はまだ薄いけど、この様子だと明け方にはかなり濃くなるんじゃないかしらね」

「それは、幻狼衆の連中も知っているか?」

「奴らが大雲山を攻め落としてからもう一年になる。知っているでしょうね」


 礼次郎の顔が、恐ろしく真剣になった。何か考え込んだ後、


「龍之丞はどこだ?」


 と、踵を返した。


 一方、その龍之丞も、幕舎で千蔵からの報告を受けて顔色を変えていた。

 千蔵はまず礼次郎に報告しようとしたが、不在であったので、とりあえず龍之丞に報告したのだ。


「はい、どうやら小雲山と大雲山の間を頻りに使番が行き来して、連絡を取り合っている様子です」

「そうか、ありがとうございます。では私から礼次郎殿に報告しましょう」


 龍之丞は、軍配を握って幕舎の外に出て、小雲山の方角を睨んだ。

 その時、乳白色の気体が辺りを漂っているのに気付いた。


「霧か……これはやはり……」


 その時、ちょうど礼次郎と咲がやって来た。礼次郎は血相を変えている。龍之丞を見るなり、早口に言った。


「龍之丞、幻狼衆は動くぞ」


 それを聞くと、龍之丞は、表情をふっと緩めて、嬉しそうに言った。


「流石は礼次郎殿、お気付きになりましたか」

「やはりお前もそう思うか」

「ええ」

「どうする?」

「ご安心を。用意しておいた策は無駄になりましたが、奴らが動くならば、戦況が動く。そしてそこに我らが乗ずべき隙ができます」


 龍之丞は、軍配を肩に叩いた。


 夜半、小雲山城の堀田来直は、家来衆に命令した。


「兵士どもを静かに起こせ。そして、なるべく音を立てぬように静かに出陣の準備をせよ」


 その命令の通り、兵士らが皆起きて、粛々と身支度を整え、出陣の準備ができると、堀田は言った。


「これから、小雲山を駆け下りて、麓の先の城戸軍を襲う」


 兵士らがどよめいた。


「奴らがここに来てこの数日、我らは一戦もせずにこの山に籠っていた。決して外に出て戦うな、とも命じていた。これは策じゃ。決して外に出て戦うな、と儂が命じたことは、城戸軍の耳にもすでに入っていよう。城戸軍は、我らはずっと城に籠りっきりで出て来ぬと思い、今頃は油断して眠りこけているはずじゃ。そしてこの霧、儂はこの霧を待っておった。この霧に姿を隠して急行し、眠っている城戸軍に夜襲をかけるのだ」

「おお……」


 兵士らが感嘆の声を上げた。


「このことは、大雲山にも連絡してある。大雲山も我らと同時に打って出て、城戸軍を襲う。前後から夜襲をかければ、勝利はより確実じゃ。行くぞ!」


 堀田の号令が静かに飛んだ。

 払暁前、幻狼衆軍は城を出て、小雲山を静かに下りた。

 すでに辺りは乳白色の霧に覆われ、十間先も見通せないほどになっている。


 やがて、すぐに城戸軍の野営地に近づいた。

 夜闇と霧ではっきりとは見えないが、篝火がいくつもぼうっと見えていた。物音はせず、静まり返っていた。


「よし。眠り込んでいるようじゃ。一気に襲え!」


 堀田が太刀を振り上げて号令した。

 兵士らが一斉に槍の穂先を煌めかせ、鬨の声を上げて城戸軍の陣に突撃した。


「城戸礼次郎を討ち取れ!」


 堀田も馬を駆り、自ら突入した。

 篝火を突き倒し、陣幕を切り裂き、幕舎を崩した。

 だが、その槍の穂先に敵兵はかからなかった。それどころか、敵兵らの驚く悲鳴も聞こえない。

 兵士らがざわめいた。


「何だ?」


 堀田も異変に気付いた。そこには、礼次郎らはおろか、一人の兵士もいなかったのである。


 そして、大雲山。ここの城に入っているのは三木田与兵衛と言う幻狼衆の幹部の将であった。

 三木田与兵衛は、かねてより堀田の策を聞いていた。そして小雲山から出陣の知らせを受け取ると、自分らも大雲山を降りて、濃霧の中を静かに城戸軍の陣へと向かった。


 だが、視界を遮る乳白色の霧の中に、弓弦の音が響いたかと思うと、突如として沢山の銀の線が煌めき、彼らを襲った。

 たちまちに兵士らが悲鳴を上げながら倒れて行った。

 更に、周囲から喚声が上がり、地響きと共に濃霧の向こうから一団の人馬が殺到して来た。

 城戸軍であった。

 三木田は仰天した。


「何故ここにおる! まさか我らの策が見破られていたのか?」


 その通りであった。

 幻狼衆の策を読んだ礼次郎らは、裏をかいて、幕舎や篝火などはそのままに、夜半のうちに陣を出た。

 そして、この場所で、小雲山と連携して急行して来るであろう、大雲山の軍を待ち伏せしていたのである。

 幻狼衆は、霧に姿を隠して奇襲しようとしたのだが、その霧は城戸軍にも幸いしたのである。三木田らは、城戸軍の待ち伏せに全く気付かなかった。


「かかれっ、かかれっ!」


 礼次郎は大音声で命令し、自らも手槍を持って突入した。

 三木田らは堪えきれず、かと言って濃霧の為に逃げるのもままならず、あっと言う間に壊滅した。

 主将三木田与兵衛はほうほうの体で逃走した。


 そして、城戸軍の野営地を襲った堀田勢。


「我らの策が読まれていたか! とりあえず退けっ!」


 策の失敗に気付いた堀田来直が、急いで兵をまとめて陣から出ようとしたが、その時、東方から霧を裂いて多数の矢が襲って来た。悲鳴と共に、赤い血飛沫が霧を染めた。更にあちこちで爆発が起き、巻き込まれた兵士らが悲鳴を上げて吹き飛んだ。


「しまった。兵を伏せていたか」


 堀田は顔色を変え、絶叫した。


「退け、退け、退けっ!」


 大慌てで兵をまとめ、陣を出て小雲山へ走った。

 しかし、その側面へ、霧の中から殺到して来た騎馬の一団。

 先頭を駆けるのは真紅の甲冑の女武者。


「ここは私の庭だ。一年も勝手に荒らした報いを受けてもらうよ」


 咲は太刀を引き抜き、堀田勢の側面に突撃した。

 配下の騎馬武者らも雄叫びを上げながら次々と突撃した。

 怒号と悲鳴が飛び交い、たちまちに混乱に陥った堀田勢に、更なる攻撃が加えられた。

 三木田勢を壊滅させた礼次郎らが戻って来て、その背後を襲ったのだった。

 堀田勢の兵士らは、夜闇と濃霧の中を逃げ惑った。すでに戦意を失い、戦おうとする者はほとんどいなかった。そこを、城戸軍の鏃が貫き、槍の穂先、刀の切先が薄闇に縦横に煌めき、大地が赤く染まって行く。


「見つけたぞ、敵将か」


 一方的と言える乱戦の中に、咲は馬を乗り回し、ついに一際立派な甲冑を纏っている将、つまり堀田来直の姿を見つけた。


「私は美濃島咲」

「おのれ、生意気な女郎めろうが。かかって来い」


 堀田は槍を捨て、太刀を引き抜いた。

 両者は互いに馬腹を蹴り、真っ向から激突した。堀田も、名の知れた武勇の士である。

 だがこの日、美濃島咲の気合いは尋常ではなかった。元々の腕が一流である上に、そこに並々ならぬ気迫が乗り移り、咲の太刀さばきは堀田を圧倒した。数合の打ち合いの後、狙い澄ました凄まじい一撃が、堀田の腕を斬り飛ばし、更に続けて切っ先が喉元を貫いた。

 堀田は声なき絶叫を上げて馬から転げ落ち、そのまま命も落とした。


 主将が討たれたことを知るや、残りの堀田勢にもはや戦おうとする者はなく、我先にと、小雲山へ向かって遁走して行った。

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