第179話 母娘の再会

 時は少し戻り、天正十四年の大晦日のこと。

小田原城の北条氏政は、弟の藤田氏邦率いる鉢形衆が幻狼衆に敗北し、しかも続けて城戸攻略にも失敗したことを聞くや激昂、ただちに自ら大軍を率いて幻狼衆討伐に向かうことを宣言していた。


 そして一月二十三日、宣言通り、北条氏政は甲冑を身に着け、小田原城を進発した。途上、武蔵国諸城の兵を集めながら進軍し、上野に近くなる頃には総勢八千人の大軍となっていた。


 その報告を七天山城の広間で受けた風魔玄介は、その数に流石に狼狽した側近幹部連中らとは真逆に、にやりと笑った。


「これは絶好の機だ。あの鳥頭め、愚かなことよ。八千人と言えばかなりの数、恐らく北武蔵の諸城の兵全てではないか? となればこれを徹底的に打ち破れば、あとは手薄になった北武蔵は切り取り放題と言うことだ」


 そして風魔玄介は、三上周蔵ら、側近幹部連中に迎撃軍の編成を命じた。


 一方、城戸家。

 千蔵と喜多が統括する諜者たちから、 北条氏政出陣の報をいち早く掴んでいた龍之丞は、この隙に乗じて旧美濃島領への侵攻を進言。

 礼次郎も了承し、ただちに軍勢が編成されて、城戸から進発した。


 出陣の朝、いつもの通り、留守を預かる者たちや住人らが見送りに城下の入口まで出て来た。

 その中に、当然ゆりの姿があり、また伊川瑤子の姿もある。

 瑤子が、馬上の礼次郎へ言った。


「ご武運をお祈りいたしております。どうかご無事で」

「ありがとうございます」


 礼次郎は馬上から微笑んで短く答えた。程よい緊張感を湛えた覇気に満ちた微笑である。

 この日、礼次郎は金糸で威した黒を基調とした五枚胴の鎧を身に着け、その上から黒貂の羽織を纏い、城戸家の家紋である三つ葉竜胆紋を金の前立てにあしらった兜を被っていた。


「礼次郎殿らが此度の戦より戻った後には、私は都へ帰ろうと思います」


 瑤子が突然言った。

 礼次郎は驚いた。瑤子の隣のゆりはもちろん、順五郎や咲たちも皆驚いた。


「もう少しいてもよろしいではございませんか」


 ゆりは名残惜しそうに言ったが、瑤子は首を横に振った。


「いえ。もうそろそろ一月になります。皆様方の厚意に甘えて、お世話になりすぎました。そろそろお暇しなければ。手紙を出してあるとは言え、夫も心配するでしょうし」


 礼次郎も惜しいと思ったが、瑤子の事情ももっともである。納得して頷いた。


「残念ですが、瑤子様のおっしゃる通りです。では、戻りましたら別れの宴を開きましょう。勝ち戦の祝いと共に」

「はい」


 瑤子はにっこりと微笑んだ。

 ゆりも馬上の礼次郎へ向かって微笑みかけた。


「お気をつけてくださいませ」

「ああ。留守を頼む」


 礼次郎は笑顔で短く答えると、左手を上げて馬腹を軽く蹴り、黒い毛皮の背を見せた。

 ゆりはいつも、礼次郎が出陣する時には精一杯笑顔を作って送り出すが、内心では気が気でない。死と隣り合わせの戦場へ向かうのである。どうしても不安は残る。

 今しがたは花のように可憐な笑顔で送り出したゆりであったが、徐々に遠ざかって行く礼次郎の背を見ると、その顔を不安の色が覆った。

 だが、ふと思い出したことがあって、慌てて礼次郎の背を呼びとめた。


「あ、ちょっと待って」


 左手を上げて進行を止め、振り返った礼次郎に、ゆりは小走りで駆け寄った。そして懐から何かを取り出して手渡した。

 それは、革紐を通した、あの小さな観音菩薩の木像であった。


「これ、御守り」

「ああ、ありがとう、久々だな」


 礼次郎はにこりと笑顔を見せて受け取った。


 しかし、それを見てさっと顔色を変えた人がいる。

 伊川瑤子であった。

 彼女は目を見開き、ゆりが礼次郎に渡した木像を凝視していた。

 そして、礼次郎がそれを首にかける為、兜を脱いで従者に渡した時、瑤子はすでに走り出していた。

 どうしたのかと振り向いた礼次郎に、瑤子は唇を震わせながら言った。


「礼次郎どの、非礼は承知ですが、その木像を見せてはいただけませぬか?」

「これを? ゆりのですよ」


 突然に色を変えて蒼白となった瑤子を不思議に思いながら、礼次郎は木像を瑤子に手渡した。

 ゆりも怪訝そうに瑤子の顔を見た。

 しかし、木像を震える手で受け取り、それを見つめた瑤子の顔は、また見る見るうちに変わり、涙交じりの驚喜の色となった。


「間違いないわ。これだわ」


 そして瑤子は、涙を浮かべた目で、じっとゆりの顔を見つめた。優しげで、切なげな目であった。


「あなた、これをどこで手に入れて?」


 ゆりは戸惑いながら、


「ええっと……これは、私が生まれた時に私にかけられていたものだそうです」


 と、答えた。

 瑤子はほとんど確信した。にっこりと笑ったが、すぐに溢れ出る涙がその笑顔を崩した。

 だが、袖で涙を拭い、笑顔を再び作って、


「生まれた時に? 失礼ですけど聞いてもいいかしら? あなたは本当に武田勝頼殿の娘なの?」


 ゆりが武田勝頼の実子ではなく、捨て子であったことは、家中のほとんどの者が知っている。だが、皆、ゆりの気持ちを慮って館内でそのことを話す者は無い。それ故、瑤子はずっとこの城戸の館に滞在していたが、ゆりが武田勝頼の実子でないことを知らなかったのである。


「いえ。実は私は父母の実の子ではないのです。捨てられていて……それを父勝頼に拾われて……その時、その木像も一緒にあったのです」


 ゆりは、少々気まずそうに答えた。


「そう……そうだったの……」


 瑤子はとめどなく涙を流しながらゆりを見つめると、ゆりの両手を取った。


「ようやく会えたわ。こんなに近くにいたのにずっと気付かなかったなんて……ゆり殿……いえ、百合子」

「百合子?」

「ええ。あなたの本当の名も百合子です。偶然同じ名前だったのもきっと運命ね。そして、あなたは私の娘です」

「え……?」


 突然のことに、ゆりは理解が追い付かない。

 そのゆりの眼の前へ、瑤子は懐から自分の観音菩薩の木像を取り出して見せた。

 城戸に来てからも、誰にも見せたことがなかった。それは、ゆりの物よりも随分色褪せ、古ぼけていたが、形はゆりのものとほとんど同じであった。今は革紐は通していないが、上部に紐を通せる穴がある造りなのも、ゆりの物と全く同じであった。

 それを見てゆりは驚き、瑤子の手の中にある自分の物と見比べた。


「あなたが生まれた時に、私が自ら彫ったのですよ」


 瑤子は、涙で濡れた顔に笑みを作り、ゆりを愛おしそうに見つめた。


「やっと見つけたわ……ずっと、ずっとあなたを探していたのよ」


 あまりに突然のことに、混乱すら未だ訪れず、ゆりはただ呆然としていた。

 放心したように瑤子の顔を見つめている。


 礼次郎らも同様であった。出陣前のこのような時に、急に明らかになった衝撃の事実。

 順五郎や壮之介ら、幼い頃からゆりに付き従っている喜多ですら、言葉が出て来ず、同じように呆然として瑤子とゆりを見つめていた。



 そして午後、城戸軍は庄栄川と言う川を挟んで西方一里程に小雲山を見る地点に到達した。

 大きくうねる庄栄川に沿って西南へ一里程向かうと、そこにはまた大雲山がある。この庄栄川と小雲山、大雲山に挟まれた一帯を、美濃島と言い、咲の美濃島家が古くより治めていた土地であった。


 千蔵と喜多の調べによると、今、小雲山城には五百の兵があり、大雲山城にも四百の兵がいる。

 個々では城戸軍六百より少ないが、合計すれば九百人と、城戸軍を上回る。

 また、個々を攻めるにしても、力押しで城攻めしていい兵力差ではない。


 ――それ故に、野戦に誘き出し、叩く作戦はある程度用意はしてあるのだが……。


 龍之丞は軍配を右肩に叩きながら、小雲山、大雲山を睨んだ。

 両山、共に守りを固めており、どうも打って出て来る気配が無い。


 ――出て来ないことにはどうしようもないわ。


 龍之丞は礼次郎に進言し、小雲山の麓に近づいて軍を左右に展開した。貝を吹き、陣太鼓を打ち鳴らし、兵士らに鬨の声を上げさせて今にも攻めかかるふりをして挑発し、敵軍が小雲山から打って出て来るのを待った。

 しかし、どうしたことか、両山共に守りを固くして、まるで打って出る様子がない。


 小雲山の城将は、堀田来直と言う。出自は風魔幻狼衆ではなく、れっきとした北条家の侍だった若者である。

 元々風魔玄介と仲が良く、また北条家に不満を持っていた為、幻狼衆決起の際に思い切って北条家を離れて玄介の下に参じた。

 堀田来直は、城戸軍が打ち鳴らす様々な挑発の音など素知らぬふりで、配下の者どもにこう命じた。


「よいか。城戸軍のあらゆる挑発は無視しろ。決してのってはならぬぞ。俺に考えがある」


 そして、城内で悠々と盃を傾けていた。


 翌日、翌々日も、城戸軍は小雲山の麓の原野に陣を構え、盛んに挑発したが、堀田の命令が行き届いている小雲山の幻狼衆勢はやはり出て来ない。

 地理的に、幻狼衆側は、小雲山と大雲山で連携し、同時に打って出れば城戸軍を前後から挟撃することが可能である。龍之丞は、幻狼衆側がそういう作戦を取って来るものと想定して策を練っており、あえてそう仕向けるべく、小雲山の麓に布陣しているのだが、幻狼衆側にはまるで動く気配がない。


「これは困った。まるで出て来ようとしないじゃないか。出て来ないことには用意した作戦も無駄になる。しかし、だからと言って城に攻めかかるわけにもいかない。こうなったらまずは城から誘き出す策を考えなければ」


 龍之丞は困り切って、軍配を膝に叩きながら再度思案を始めた。


 翌日も、幻狼衆は打って出て来ようとはしなかった。

 守りを固くし、昼は軍旗を煌めかせ、夜には盛んに篝火を焚いていながらも、静まり返っている。


 午後、千蔵が陣幕を払って本陣にやって来た。

 礼次郎の前で跪き、放っていた諜者たちがもたらして来た情報をまとめ、報告した。


「申し上げます。小雲山、大雲山の幻狼衆は、『兵糧はたっぷりとあるし、補給線も問題ない。あえて打って出て戦う必要もない。城戸軍は兵が少ない。城に籠って守りを固めていれば、攻めあぐねてやがて退いて行くであろう。それまでは決して打って出て戦ってはならぬ』と言う命令が徹底されているようです」

「そうか、ご苦労」


 礼次郎は頷いた。


「出て来ぬのであれば戦いようがない。かと言って我らは城攻めができるほどの兵数ではない。困ったものよ」


 壮之介が嘆息して錫杖の石突を地に突いた。


「兵数は私たちより多いのにあえて城に籠るなんて……なかなか老練ね」


 咲は苦笑する。

 だが、礼次郎はそこに、持ち前の鋭い直感で何かを感じ取っていた。


 ――あえて籠城? 余裕があるとは言え、何かがおかしい。何か腑に落ちない……。


 それはどうやら龍之丞も同じようであった。

 軍配をトントンと左手に叩きながら、赤みが射し始めた空に浮かび上がる小雲山を見つめていた。

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