第173話 瑤子と若武者

 あの日以来、瑤子は村長の屋敷の一室に監禁されていた。

 村長はあちこちの伝手を辿って各地の女衒に接触し、高く売れそうなところを探していた。その間、瑤子は監禁されている小部屋で、これから己の身に降りかかるであろう恐ろしい運命を想像しては恐怖に涙を流していた。

 誰かが助けに来てくれるのを期待した。だが、それは儚い夢であった。誰も瑤子がこんなところにいるとは知りもしない。

 そして、誰も助けに来てくれぬまま、瑤子が売られて行くところが決まった。上州群馬郡の国府近くの女衒である。

 決まると、村長はすぐに瑤子を部屋から出して駕籠に押し込め、上州へ向けて出発した。


  駕籠は、一般的な簡素な竹駕籠であったが、彼らはよくこういうことをしているのであろう。悪事がばれぬよう、しっかりと四方を覆ってあった。

 そして今、瑤子はその中で、またしても恐怖に震えている。

 これから自分はどうなるのだろう。五摂家の一つ、二条家の末娘にして伊川経秀の妻である自分が、まさかこうも惨めに女衒に売られて行くことになろうとは。

 いや、これはもしかすると、十七年前に己の身勝手さで我が娘を捨てた癖に、今また身勝手にもその娘を探そうとしていることに対する天の懲罰かもしれない。瑤子がそんなことを様々に思い巡らせている時であった。


「戦だ。まずいぞ!」


 外から村長たちの慌てる声が聞こえた。


 ――戦?


 瑤子は耳を澄ませた。

 確かに、それらしき音が聞こえた。天地が揺らぐ響きがする。


 すると、外で村長が悲鳴に近い狼狽の声を上げた。


「どこの軍かは知らねえが、さむらい共が走ってくるぞ。脇へ逃げろ!」


 地響きと狂ったような喚声が聞こえて来ると同時、村長たちは駕籠を担いで慌てて脇の茂みに入った。

 駕籠が大きく揺れて、瑤子はよろめいた。


 外では、それからわずかの後、逃げる藤田勢が必死に駆けて来た。

 彼らは皆、増田川へ向かって走っていたが、一部の者らは道を外れて左右の茂みや林の中へ逃げ込んだ。

その中に、村長たちは巻き込まれた。


「どけっ、どけっ! こんなところで何してやがる!」

「邪魔だ!」


 目を血走らせ、必死の形相で逃げる藤田勢の兵士らに、村長たちは突き飛ばされ、蹴倒された。同時に駕籠も投げ出され、中に閉じ込められていた瑤子も背中を強く打った。

 村長たちは立ち上がり、急いで駕籠を担いでこの場を離れようとしたが、その時、城戸勢の一部の兵士らが、こちらに逃げ込んで来た藤田勢を追って来て、たちまちにあちこちで戦闘が始まった。


「畜生、急げ急げ! ここから早く離れるんだ!」


 村長たちは急いで駕籠を担ぎかけたのだが、その時、彼らの眼前に飛び出して来た一人の武者があった。見れば、城戸軍でも藤田軍の者でもない、平服に刀を提げているだけの非武装の若侍である。

 若侍は、「な、何だてめえは?」と、驚いている村長たちに、声も上げずに不意打ちの先制攻撃を浴びせた。

 その斬撃は、特筆すべきことのない平凡な袈裟斬りであったが、村長たちは皆、この不意に訪れた非常事態で、抗戦しようとする余裕が無かったのであろう。皆刀を腰に差していたが、抜刀することなくそれを避けるだけで、四方に散った。

 その隙に、若侍は倒れている駕籠を開けて中から瑤子を引きずり出し、驚いている瑤子の猿轡を外し、両手両足の縄を切った。

 口を解放された瑤子は、呆気に取られながら若侍の顔を見た。どこか品があり、優しげな顔立ちである。


「あ、あなた様は……?」


 若侍は瑤子を立たせながら、


「それは後ほど。簡単に言えばあの村で同じように被害に遭った者です」

「え?」


 そう言えばあの日、あの村で同じように宿を求めた侍がいると聞いた。


「ずっと瑤子様を助けるこの機会をうかがっていたのです」

「え? 私を存じていて?」


 瑤子はますます驚いたが、


「今はとにかく急いで逃げましょう!」


 若侍は瑤子の手を取って林の奥へと駆け出した。

 村長たちは、突然のことにしばし呆然としてそれを見送っていたのだが、急に我に返ると、せっかくの高額商品をみすみす奪われてしまったことに猛然と腹を立てた。


「ふざけやがって! 追うぞ!」


 村長たちは、悲鳴と怒号と血飛沫が飛び交う乱戦の中、林の奥へ走り去っていく二つの背中を追った。


 若侍と瑤子は必死に走った。

 二人共に、この辺りの土地勘が無い為に、どう走ればいいのかはわからない。ただ、必死に追手から逃れようと林の中を走った。

 しかし、瑤子は貴族育ちである。走ることに慣れていない。しかも林の中の道無き道である。どうにも遅い。若侍はもどかしかったが、こればかりはどうしようもない。背負って走っても、もっと遅いであろう。

 振り返れば、向こうよりあの村長たちが怒鳴りながら追って来ている。しかも、その距離が段々と詰まって来ている。

 若侍の心中に焦りが広がって行った。追いつかれれば戦うしかない。だが、彼自身は侍であるのだが、武芸の腕には今一つ自信が無いのである。

 そのうちに、ついに追いつかれてしまった。


「むう……」


 若侍は、足を止めて振り返ると、瑤子を後ろに隠すようにして、刀の柄に右手をかけた。


「へへ……そんな都育ちの女を連れて逃げられるわけはねえよ、残念だったな」


 村長たちは勝ち誇った笑みを浮かべる。


「おのれ……ここから立ち去れ、抜くぞ!」


 若侍は凄んで見せたが、村長たちは怯まない。優しげな顔立ちである為に迫力が今一つな上、彼らは若侍の武芸の腕がいまいちなことを見抜いたようであった。


「舐めるなよ。そんじょそこらの侍にびびる俺たちじゃねえ。てめえこそ覚悟しな」


 村長たちは嘲笑しながらそれぞれ刀を抜いた。


「むう……このお方には手出しはさせんぞ」


 若侍は青くなった顔に冷や汗を浮かべながらも、刀を抜いて正眼に構えた。


「へっ、構えがなってねえな。やっちまえ!」


 村長たちが、正に若侍に襲い掛かろうとしたその時、


「待てっ!」


 と言う背後からの大声が鋭く響いたのと同時、空から何かが風と共に落ちて来て、一人の男の後頭部を襲った。

 男は悲鳴を上げて前のめりに倒れた。その後頭部から血が噴いた。


「何だ?」


 他の男達、瑤子、若侍が驚いて頭上を見上げると、そこには巨大な鷹が唸りながら舞っていた。

 礼次郎が雲峰山より連れて来た雷風であった。


 そして、背後から馬蹄を響かせて、騎馬武者十数騎の一団が駆けて来た。


「うっ、まずい」


 村長たちは顔色を変えて狼狽えた。


「お前たちは何をしている?」


 騎馬武者たちの先頭を駆ける真紅の甲冑の武士が、駆け寄って来て馬を止め、瑤子たちと村長たちを見下ろした。

 その声は高く澄んでいた。女の声である。それは美濃島咲であった。


「いえ、その……」


 村長たちは狼狽し、取り繕おうとしたが、うまい言い訳が出て来ずに口ごもった。


「我らは城戸家の者だ。私は美濃島咲と言う。先程、戦が終わったが、怪しげな連中が身分の高そうな婦人を追って行ったと聞き、急いで駆け付けて来たのだ」


 咲は、戦の時は男のような口調になることがある。声も一段低くなった。

 城戸家の者――それを聞いて瑤子の顔がぱっと明るくなった。同時に、隣の若侍の顔もほころんだのだが、瑤子がそれより先に言った。


「城戸家? 城戸礼次郎殿ですか?」

「その通り。知っておられましたか?」

「ええ。越後の春日山で何度かお会いしました。私は関白様の近臣、伊川経秀の妻でございます。この者どもは不埒な賊徒。色々あり、私はこの者どもに捕まり、女衒に売られようとしておりました。どうかお助けください」


 瑤子は必死に叫んだ。


「何?」


 咲は目の色を変え、村長たちをじろりと見た。村長たちが狼狽する。


「なるほど。確かに見てみればどの顔も品性下劣な畜生以下の女の敵と見える」


 咲は、秀麗な顔に冷やかな笑みを浮かべた。

 そして愛馬の黒雪から下りると、音を立てて鬼走り一文字の鯉口を切った。


「まあ、私も似たようなことはやっていたけどね」


 咲は皮肉そうに笑ったが、次の瞬間には眦を吊り上げて形相を一変させた。


「だが、今はそれを目の前で見ては見過ごせぬ。全員斬り捨ててくれる」


 そして、腰から放たれた銀色の閃光と共に赤い影がさっと走った。


「畜生! 舐めるなよ!」


 村長たちは応戦したが、まるで無駄であった。五人の間を咲一人がひらひらと舞うように動く度、その右手から迸る白銀の光が男達の胸や腹を抉り、地面の草が赤く染まって行く。

 あっと言う間に、五人全員が草むらに転がった。

 その手並みの鮮やかさに、瑤子も若侍も舌を巻いた。

 だが、咲は何てことないかのように懐紙で刀身を拭って納刀すると、瑤子を見て言った。


「さて、ご婦人。これからどちらへ向かうおつもりでしょうか? 良ければ送って差し上げますが」


 瑤子は丁寧に礼を述べた後、


「あの……まずは礼次郎殿に会わせていただけますか? 礼次郎殿にも是非お礼を言いたいので」

「そうですか。それは構いませぬが……で、そちらのお方は如何なさいますか?」


 咲は若侍を見やると、若侍は顔を輝かせて言った。


「私も是非、久々に礼次郎殿にお会いしたい。良ければご案内いただけぬか?」

「礼次郎を知っていて? 失礼ですが、貴殿は?」

「礼次郎殿に会えばおわかりになります。旧知の仲でございますれば」


 若侍は声を弾ませた。


 城戸へ凱旋して行く礼次郎らに、咲の一隊が瑤子と若侍を連れて追いついて来た。

 それより先行して、大鷹の雷風が風と共に飛んで来て礼次郎が挙げた左腕に止まった。


「雷風、その顔を見るとよくやってくれたようだな」


 猛獣のような顔つきに似合わず、甘えるような鳴き声を出した雷風を見て、礼次郎はその頭を撫でたが、駆けて来た咲が連れている瑤子を見て驚いた。


「これは瑤子様ではございませんか。一体どういうことですか?」


 だが、瑤子が答えるより先に、礼次郎はその隣にいる若侍の顔を見て、更にあっと驚きの声を上げた。礼次郎の隣に駒を並べていた順五郎も同じく驚いた。


「あ、貴方は……」


 若侍は懐かしそうに優しげな目を細めた。


「やあ、礼次郎殿、久しぶりだ」

「源次郎様ではございませんか!」


 礼次郎は馬から下り、嬉しそうに源次郎と言う若侍に駆け寄った。

 彼は、真田源次郎信繁と言う。真田昌幸の次男であり、真田源三郎信幸の弟、そして、後世に真田幸村と言う名で呼ばれ、戦国最後の伝説になる男である。

 だが、この時はまだ無名の若者に過ぎない。


「兄からの手紙で、色々あって大変だったと聞いていたが……いやいや、何の、立派にやっているようだね」


 信繁はニコニコと笑って言う。彼は、長身の兄信幸とは違い中肉中背で、雰囲気も顔つきも柔和である。一見すると武士らしい雰囲気は感じられず、後年勇名を馳せるような人物にはとても見えない。


「いえ、まだまだ始まったばかりです。それに私は無力です。ここにいる皆の力に助けられ、何とかやっているだけです。しかし、源次郎様が何故ここに? しかも瑤子様も一緒に。と言うより、何があったのですか?」


 礼次郎たちからすると、不可解なことしかない。

 すると、瑤子が涙ぐみながらこれまでのことを話した。


「それは何と言う……」


 礼次郎たちは、あの村のあまりに非道な行いに怒りを覚え、また不運にもその被害に遭ってしまった瑤子の境遇に胸を痛めた。

 そして、瑤子が話し終えると、信繁が言った。


「で、実は、私もあの晩、あの村に宿泊していたのですよ」

「え? では、もう一組泊まっているお侍方と言うのは貴方様方のことでしたか」


 瑤子が驚いて見ると、信繁は苦笑しながら頷いた。


「ええ。ご存知の通り、私は関白殿下(豊臣秀吉)の人質として大坂におりましたが、先日、私は関白殿下より一時的に真田に帰ることをお許しいただき、上田に帰っておったのです。その後、大坂に戻る前に、今は沼田にいる兄上を訪ねようと、上州へ旅していたのですが、途中で宿を求めたのがあの村です。で、同じように襲われました。私が連れていた伴の者二人は斬られました。お恥ずかしいですが、私は剣の方はあまり得意でないので、何とか逃げるだけで精一杯で……しかし、逃げる途中で、あの村の者どもに捕らわれている瑤子様を見たのです。私は伊川経秀様を存じており、瑤子様とは面識はございませぬが、遠目に見たことはございます。で、まさかこんなところに伊川様の奥方様が? とは思いましたが、夜目に何度見てもやはり瑤子様。これは捨て置けぬ、先程は情けなくも逃げ出したが、武士の端くれとして瑤子様だけは何とかして助け出さねばならぬ、と思い、ずっと助け出す機会をうかがっていたのです」

「そうでございましたか。誠にありがたきことでございます」


 瑤子はまたしても涙ぐんで信繁に礼を言った。

 しかし信繁は気まずそうに手を横に振った。


「いえ、結果的には私は大したことはできませんでした。お救いしたのは美濃島咲殿、そして礼次郎殿です」


 そこで、順五郎が不思議そうな顔で言った。


「しかし、ずっと瑤子様たちを見張っていたのですか? 近くの真田家の城に寄って、兵を連れて来れば良かったのに」

「真田家の城に行っている間に、瑤子様に何かあったらどうしますか。取り返しがつきません。それに、あの時武士でありながらあの連中に太刀打ちできず、一人だけ逃げ延びたことをずっと恥ずかしく思っており、己の成長の為にもここは自分一人の力で何とかしたいと思い、私自身はずっと見張っていたのですよ」

「なるほど……」


 ずっとって……十日以上も見張っていたのか、それはそれで凄いな、と順五郎は感心した。

 そして、まだ話が続きかけたのだが、礼次郎がそれを一旦切り、二人に言った。


「まあ、我々も戦から帰る途中。ここで立ち話もなんですから、瑤子様も源次郎様も、城戸へお立ち寄りください」


 そして、礼次郎らは、瑤子と信繁を連れて城戸へ帰った。

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