第137話 風に近付いて

 少し不満そうな色を表したゆり。

 するとそこへ、


「あの……無礼かもしれませんが、ご一緒させてもらえませんか? お近づきになりたくて」


 と、館仕えの他の女中や、領民の若い女などがやって来た。


「え?」


 ゆりは一瞬戸惑いの顔となったが、すぐに嬉しそうに「ええ、是非一緒に」と笑顔で答えた。



 やがて、舞は終わった。

 盛り上がりの頂点は過ぎたが、それでも楽しく賑やかな雰囲気は変わらず続いており、皆それぞれに談笑しながら酒を酌み交わしている。

 無理矢理、踊りの輪の中に連れ込まれた礼次郎であったが、左肩をかばいながらも皆と歌い踊っている間はとても楽しく、終わった後は爽快かつ愉快な気持ちであった。


 ――ゆりは?


 踊り終わって、礼次郎はゆりを目で探した。

 だが、見つけたゆりは、若い女たちと一緒に、この帯がどうだの、他国では髪の結い方がどうだの、楽しそうに女特有の話に夢中になっていた。


 礼次郎は、そんなゆりの楽しそうな笑顔を見て微笑んだ。


 そして大広間を見回した。

 壮之介と千蔵、堅物の二人は真面目な顔で戦の話をしている。

 礼次郎は思わず苦笑する。

 視線を別のところへやれば、順五郎と龍之丞、咲が何か揉めながらも笑い声を上げている。


「だから美濃島殿、誤解です。トウが立っている、あれは元々は礼次郎殿が言っていたのを……」


 癖のある髪の毛を後ろで一つに束ねている龍之丞が必死の弁明をしている。


「あいつがそんなこと言うかねえ」


 咲は冷ややかな目を龍之丞に向ける。順五郎はそれを見ておかしそうに笑う。


「おい、俺はそんなこと一言も言ってないぞ」


 礼次郎は呆れたように笑ってそこに加わった。


 そして、しばしそこで飲んでいたが、ふと横に目をやると、大広間の外の廊下に、清雲斎が一人座っているのが見えた。

 廊下は障子が開けっ放しになっており、外の庭に面している。

 清雲斎は、廊下の柱にもたれかかって、杯を片手に夜空を見上げていた。


 礼次郎は立ち上がり、清雲斎のところへ歩いて行った。


「お師匠様、そんなところで一人、何をしているのですか?」


 声をかけると、清雲斎ははちらっと礼次郎を見上げた後、再び夜空に視線を戻した。


「何……俺はどっちかと言えばこうして一人で外を見ながら飲むのが好きだからな」


 清雲斎はそう言いながら杯を口に運んだ。



 ――一人で……。



 礼次郎は清雲斎の隣に腰を下ろした。


 清雲斎は何も言わず、ただ夜空を見上げて酒を飲んでいる。


「お師匠様」

「何だ?」

「お師匠様は妻をお娶りにはならないのですか?」

「妻? 興味ねえな」


 清雲斎は即答した。


「興味無い?」


 礼次郎は驚いて清雲斎を見る。


「女はうるせえからな。女が欲しければ買う。それですむことだ。妻などいらん」

「しかし……いつまでもお一人と言うのも……」

「今はこの館にいるとは言え、俺は各地をさすらって修行をしている身。妻などいては邪魔になるだけだ」


 この言葉に礼次郎はまたも驚いた。


「お師匠様ほどの強さでまだ修行を続けるのですか?」

「ああ」

「お師匠様はすでに天下無敵と言っても過言ではないと思います。それなのに何故まだ修行を?」


 清雲斎は傲慢そうな顔を見せた。


「確かに俺はすでに天下無敵だろう……だが、もっと強くなれるなら、もっと強くなりたい。更なる高みがあるならば、そこを目指したい。これが俺の道だ」

「道……」


「人は誰でも、天がその人間に定めた己の道と言うものがある。人生の最初のうちはそれには気付かねえ。広い野をただ歩いているだけだ。だが、途中で川に阻まれたり、森の中で迷ったり、崖を登ったりしているうちに、おのずから自分の道を歩くようになる。俺は四十になって、やっとその自分の道を見つけた。各地をさすらい、強い武士と戦い、ただ剣と武を極め続ける、それが天が俺に用意した道だ」

「………」


「そんな道だ。妻を持っても妻がかわいそうなだけだろう」


 清雲斎は笑って言った。


「お師匠様らしい」


 礼次郎は苦笑して、更に言った。


「しかし……もったいないですね。奥方様をお迎えになれば、お師匠様の強さを受け継ぐ子供も生まれるでしょうに」


 すると清雲斎は、じっと礼次郎の顔を見た。


「あの……何か?」


 礼次郎が戸惑っていると、清雲斎はにやりと笑った。


「子供が生まれても、俺の才を受け継いで来るとは限らんだろう。特に天才の子供ってのは大体が凡才だ。織田信長を見てみろ」

「まあ、そうですが……」

「とにかく、俺の道に妻と子を持つってのは無いんだよ、今のところはな……。しかし、お前は違う。城戸家の当主になる男だ。特にお前のような危なっかしい男はとっとと嫁をもらう方がいい。さて……小便をして剣でも振ってくるかな」


 清雲斎は杯を無造作に置いて立ち上がった。


「え? まだ宴の途中なのに剣を?」


 礼次郎が驚いて見上げる。


「飲んで気分が良くなるとな、剣を持ちたくなるんだよ」


 清雲斎は笑いながら廊下の奥へと消えて行った。



 ――凄い人だ……根っからの武士。まるで戦う為に生まれて来たような人だ。



 礼次郎は、驚嘆を通り越して、まるで別次元の生物を見るような気持ちでその背を見送った。



 ――だけど、飲むと剣を振りたくなるって……危ない人だよなぁ。



 礼次郎は苦笑いをする。

 そして自分も立ち上がると、大広間の賑やかさに背を向けて、庭に下り立った。



 ――道、か……。



 夜空には白い月がぼうっと浮かび、下界の闇に穏やかな光を注いでいる。

 礼次郎は、しばしそれを見つめた後、庭を歩いて館の大手門に向かった。


 それを、ちょうど自ら酒を取りに行って戻って来たゆりが、偶然見かけた。



 ――あれ? 宴の途中なのにどこに行くんだろう?



 ゆりは気になり、瓶子を持ったままそっと礼次郎の後をついて行った。


 礼次郎は大手門を抜けると、塀の脇のあの桜の木の下へ向かった。

 そして、色の変わりかけた葉が風で擦れる音がする中、木の幹を見つめたまま佇んでいた。


 ゆりは、「どうしたの」と声をかけようと静かにその背へ歩いて行ったが、


「ふじ」


 と言った礼次郎の言葉で、思わずどきっとして足を止めた。


「ごめん」


 礼次郎は続けて呟いた。


 ゆりから礼次郎の背まで、およそ四間程。



 ――ごめん? 聞いちゃまずいよね……戻らなきゃ。



 ゆりはそうわかっていたが、何故か身体が固まったようにそこから動けなかった。


 礼次郎は続けて呟いた。


「お前の顔が……段々正確に思い出せなくなってるんだよ。目の形、睫毛はどんなだったかとか、唇の色とか……細かいところがぼやけて来てる。……あの日、照れずにもっと見ておけば良かったよ」


 礼次郎は寂しそうに笑った。


 ゆりは、半ば呆然とした顔でその背を見つめていた。

 礼次郎は続けて呟いた。


「お前のことを思い出す回数もな……前より減ったんだ……何と言うか……未だにお前を忘れることはできないんだけど……忘れて行ってるわけじゃないんだけど……こうやって少しずつ、お前を失ったことが過去になって行くんだな……」


 礼次郎は、一つ一つ言葉を探すように、彼の目に映るふじに語りかけていた。


「いや……やっぱり忘れて行ってるんだろうな」


 そして一時の沈黙。風が葉を揺らす音だけが聞こえる。


「でも……お前を好きだったことは……ずっと忘れないよ」



 ゆりは目を伏せた。


 そして礼次郎も目を閉じて無言になった。

 だがしばらくして目を開けると、再び呟いた。


「今回、許嫁と一緒に帰って来たよ」


 その言葉に、ゆりははっとして目を上げた。


「ゆりって言うんだ。武田家の姫なんだけど……面白い女で……鉄砲作ったり爆薬で蔵の壁吹き飛ばしたり……いつもにこにこしてるけど……でも多分本当は……心の奥では寂しさを抱えてて……」


 そこから、礼次郎は急に黙った。



 ――ああ、そうか……多分……。



 礼次郎は、しばらく無言のままでいた。

 心の中で、自分と会話していた。



 ――どうしたんだろう……?



 ゆりはどきどきしながら礼次郎の背中を見つめていた。

 すると、礼次郎は口を開いた。


「いつか……ゆりと夫婦になっても妬かないでくれよ?」


 礼次郎は微笑みながら言った。


 ゆりの口と大きな目が思わず開く。


 ――礼次郎……。


「まあ、今すぐじゃないよ。そのうちだ」


 礼次郎は続けてそう言うと、風がさーっと吹いた。

 前髪が吹き上がる。

 昼間と同じ、不思議な暖気を含んだ風だった。


 礼次郎は頭上を見上げた。

 葉が風に擦れている。


 ゆりもそれを見上げた。

 その目が微かに潤んでいた。


「じゃあ、ふじ、またな」


 礼次郎はそう言って木に背を向けて歩き始めた。

 だがすぐに、その両目に、立ち尽くしているゆりの姿が映る。


「え? ゆり……?」


 礼次郎は驚いて立ち止まった。

 ゆりは少し狼狽して、


「あ、あの……」

「どうしてここに?」

「礼次郎が門から出て行くのを見かけて……どうしたのかなと思って……あの、声をかけようとしたんだけど……ごめんなさい」


 ゆりは気まずそうに言う。


「いや、いいけど……」


 礼次郎もまた少し気まずそうに右手で顔をかき、


「今の……聞いてた?」

「う、うん……ごめんなさい」


 ゆりは謝って俯いた。


「いや、謝らなくても……いいけど……その……」


 礼次郎は少し頬を赤くして、目を泳がせていた。

 二人の距離は約三間。

 無言の静寂が流れかけたが、礼次郎がゆりの右手に瓶子があるのに気が付いた。


「それ、どうしたの?」

「あ……お酒を取りに行ってたところだったから……そのままで」


 ゆりは慌てて言うと、照れ隠しか、咄嗟に瓶子を前に出して、


「飲む? お誕生日おめでとう」

「ありがとう……でも、これは?」


 礼次郎は笑って、杯を持つ仕草をして見せた。


「あ、そうか……じゃあ……両手で」


 ゆりは悪戯っぽい笑みを見せた。


「できないよ」


 礼次郎は声を出して笑った。

 ゆりも、ふふふと笑う。


 館内の、大広間の方から大きな笑い声が響いて来た。

 礼次郎はその方向を見て、


「戻ろうか。まだ途中だ」

「うん」


 ゆりは笑顔で頷いた。

 そして二人は並んで歩き、館内に入って行った。


 大手門をくぐる時、ゆりは夜空を見上げた。


 白い月が一つ、穏やかな光を城戸の館に注いでいる。


 ――きっと見ている方向は同じ。今は焦ることないよ……少しずつ近づいて行ければいいな。

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