第126話 雙六の約束

 翌日。

 礼次郎達の部屋。

 障子を開け放したところから、正午前のきらきらした日差しが部屋に注ぎ込み、それだけで十分に明るく暖かい。


 その明るいひかりの中で、礼次郎はゆりに肩の傷の治療を受けていた。

 順五郎達三人は、城内の稽古場に行っており、部屋の中には二人だけであった。


 ゆりは、礼次郎の傷の処置を終えると、晒しの布をぐるぐると巻いた。


「あとどれぐらいで治る?」


 礼次郎が聞くと、ゆりは難しい顔をしながら、


「どうかなぁ。できるだけ動かさずにしていれば、一か月ぐらいで多少は動かせるようにはなると思うけど」

「一か月? 長すぎるだろ!」


 礼次郎は悲鳴に似た声を上げる。


「剣で抉られたんだから当たり前じゃない。一か月ならかなり短い方よ」

「剣はまだ持てないか?」

「当たり前でしょ。今だってまだ何もしてなくても痛いでしょ?」

「そうだけど……冗談じゃないぜ。一か月の間に幻狼衆がどう動くかわからないってのに」

「じゃあ、今ちょっと動かしてみてよ」


 ゆりが言うので、礼次郎は左腕を上げてみた。

 だが、途端に声にならない激痛が走り抜け、左腕がだらりと落ちて顔が歪んだ。


「ほらね。わかったでしょう。大人しくしてて」


 礼次郎はがっくりと肩を落とした。


「あなたの場合、そのせっかちをまず治すのが先かもね」


 と、ゆりが笑う。

 すると、礼次郎は一瞬沈黙した後、言った。


「皆そう言うけど、オレはそんなにせっかちか? 普通だと思うけど」

「ええ!? 自覚が無いの? それが一番問題だわ」


 ゆりが呆れて驚いた。

 礼次郎は小首を傾げて、


「まあ、言われてみれば確かに他の人よりはせっかちかもしれないけど、それ程かな?」

「何が言われてみれば、よ。礼次郎のせっかちは恐らく関東一よ……。義経公の血かしらね。父君や母君もせっかちだった?」

「いや、全然。どちらかと言うとのんびりしてたよ。ああ、でも……姉上がいつも何かとせかせかしてたな。そう考えると、やっぱり血筋的に何かあるかも」


「姉君……そう言えばお姉様は他国にいるんだったっけ?」

「奥州にいる。伊達家の家臣、永谷時房様に嫁いでいる」

「お姉さまは城戸で起こった事をご存知なの?」

「すでに噂で聞いているかも知れないけど、この前城戸に戻った時に、茂吉に知らせを出してくれるよう頼んでおいた」

「そう。悲しまれるでしょうね」

「だろうね」


 礼次郎は短く答えた。


 ゆりは目を伏せた。

 脳裏に武田家滅亡の時の事がよぎったのか、拳をきゅっと握った。

 しかしすぐに目を上げると、


「お姉さま、礼次郎にとっては残った唯一の肉親よね」

「ああ、そうなるね」

「会いたいんじゃない?」

「そうだね……いや、どうかな?」


 礼次郎は苦笑した。


「どうかな?」

「ちょっとね……何言われるかわからないし」

「どういうこと?」

「いや、大した事じゃないんだけど、姉上は癖が強くて」

「ふうん……でも、私だったら会いたいなぁ、血の繋がった家族だもん」


 ゆりは柔らかく微笑んだ。

 その表情には暗い色は見当たらない。

 礼次郎はじっとゆりの顔を見つめると、話を変えて、

 

「それにしても剣も持てないとなると暇だな。城戸への出発まであと三日。何すればいいんだよ」


 唇を尖らせながらごろんと横になった。

 しかしうっかり左肩を捻ってしまい、激痛に声を上げた。


「じゃあ雙六やらない?」


 ゆりが胸の前で手を叩いた。


「雙六?」

「ほら、私、この前負けちゃったから」

「ええ……いいよ。そんな気にならない」

「いいじゃない。どうせ今やる事ないでしょう?」

「まあね……じゃあ……」


 礼次郎が身体を起こすと、ゆりが雙六盤を持って来た。

 二人は、盤を挟んで向かい合った。


 一局目、最後まで競ったが、礼次郎が勝った。

 二局目も、競る事なくあっさりと礼次郎が勝った。


 うなだれるゆりに、礼次郎が笑って言った。


「弱いなぁ。何度やってもオレの勝ちだろう」

「もう一回」

「ええ……もういいよ。腹減ったし」

「あと一回だけ。お願い」

「飽きた」

「せっかち……。じゃあこうしよう? 次に負けた方は勝った方の言う事を何でも聞く。どう?」


 ゆりが提案した。


 その言葉に、礼次郎の脳裏を、幼き日のある光景が駆け抜けて行った。

 礼次郎の表情が止まった。


 今日と同じように暖かかった遠い秋の日。

 城戸の館の一室で、雙六盤を挟んで笑いあっていた幼い礼次郎とふじ。


「礼次郎?」


 不審そうに覗き込んだゆりの言葉で、礼次郎は我に返った。


「どうしたの? やっぱり嫌だ?」

「あ……ああ、いいよ、それは面白い。やろう」


 礼次郎は笑顔を作る。


「次こそ絶対に負けないから」


 ゆりは意気込んで賽子を握る。


「後悔するなよ?」


 礼次郎は笑って膝を進めた。


 しかししばらくの後、そこには苦笑いのまま言葉が出ない礼次郎の姿があった。


「やった! 私の勝ち!」


 対照的に、ゆりは小躍りして喜ぶ。


「何でこういう時に限って負けるかな」


 礼次郎は頭を抱える。


「さて、何してもらおうかなぁ」


 ゆりは礼次郎を見つめながら悪戯っぽく笑う。

 礼次郎はうなだれて、


「鼻から梅干し、裸で蛙の真似?」

「何よそれ。そんなくだらないことはしないわよ」


 ゆりは呆れ笑うと、思案に入った。


「そうね……どうしようかな……」


 ゆりが考えている間、礼次郎は腕を組んで庭に視線をやっていた。

 やがて、ゆりが考えを固めた顔になった。

 雙六盤の前から、膝で礼次郎の隣に移動した。


 そして両手を畳についた。


「礼次郎様」

「は? 様?」

「あ、あの、その」


 考えを決めたものの、言いにくい事なのか、ゆりは頬を少し染めて、下を向いたまま口ごもっていた。

 何を言い出すのかと、礼次郎は息を止めてゆりを見つめる。


 やがて、ゆりは顔を上げると、礼次郎の目を真っ直ぐに見つめて言った。


「邪魔になるような事はしませんから……貴方様の行く先に、私も連れて行ってくださいませ。貴方様の大変な境遇は承知いたしてございます。それ故、妻に娶ってくださいとは言いませぬ。ですが、せめて貴方様のお側にいさせてくださいませ」

「ゆり……」


 礼次郎は、言葉を奪われたようにゆりの顔を見つめ返していた。


「私はもう行くところが無いから……せめて礼次郎の側にいたい」


 続けて言ったゆりの瞳が潤んでいた。




 そして、礼次郎らが上州城戸の郷へ戻る日となった。


 ゆりは、部屋で忙しく荷物の確認をしている。


「まだですか? 城戸様たちはもう集まっているようです。そろそろ参りませんと」


 背後に控える喜多が呆れたような声で言う。


「そうなんだけど……忘れ物があったら困るじゃない。叔母様から貰った櫛、帯……あ、医術の書物……」


 ゆりは、この春日山城で、景勝や菊から色々と貴重な物を貰っていた。

 彼女は、それらを持って行けるだけ持って行こうとしていた。


「よし、こんなところかな」


 ゆりは満足そうな顔でまとめた荷物を見る。

 その中に、観音菩薩の木像もある。


 礼次郎から返された後、ゆりはそれを首からかけていなかった。

 物心ついた時より、ほぼ毎日常に首からかけて来た大切な物であったが、この数日間はかけていなかった。

 特に何か意識していたわけではない。だが、何となくかけずにいた。


 喜多が言った。


「それ、かけなくていいのですか?」


 ゆりはじっと木像を見つめた後、微笑んで、


「今はまだいいかな。さあ、行こう」


 と言って立ち上がった。


 喜多と二人で、沢山の荷物を持って部屋の外に出た。

 屋敷内の廊下を小走りで急ぐ。


 すると向こうから、侍女を従えた美しい貴婦人がやって来た。


「ゆり殿」


 声をかけて来た貴婦人は、先日から春日山城に遊びに来ていた、五摂家の一つ二条家の末娘にして伊川経秀の正室、瑤子であった。


「瑤子様!」


 ゆりは脚を止めた。


「城戸殿と一緒に行くんですってね。私も今日、この春日山城を出立するのであなたに挨拶しようと思って来たのよ」

「ああ、そうだった! 私ったら、瑤子様にご挨拶しないと行けなかったのに。申し訳ございません」


 ゆりは慌てて頭を下げた。

 瑤子はふふふと微笑んで、


「いいわよ、そんなの。お慕いしている方と一緒に行ける事になったんですもの、私の事なんて忘れて当然よ」

「いやだ、瑤子様、そんな風に言わないでください。決して忘れていたわけでは……忘れてたけど……すみません」

「いいのよ、気にしないで。それより、良かったわね」

「はい」

「この先も大変な事があると思うけど、頑張ってね」

「はい、ありがとうございます」


 ゆりは、きらきらとした笑顔を見せた。

 瑤子は優しそうな目でそれを見つめると、


「不思議ね。あなたを見ていると、何だか楽しい気持ちになってくるわ」

「私も瑤子様にお会いできるのは嬉しいです」


 瑤子は、ゆりの胸元をちらっと見た。

 そしてまた視線をゆりの顔に戻し、


「京に来る事があったら、是非私のところを訪ねてきてちょうだい。また会いたいわ」

「私もです。必ず会いに行きます」

「約束よ」

「はい」


 そしてゆりと瑤子は別れの言葉を交わし、ゆりはまた慌ただしく小走りで廊下を駆けて行った。

 その背中を、瑤子は微笑ましく見送った。



 春日山城下の大辻に、四百の兵が集まっていた。

 それを従える先頭にいるのは、黒貂の羽織を纏い、白馬に跨る城戸礼次郎。背後左右には、順五郎、壮之介、千蔵、そして宇佐美龍之丞の姿があり、ゆりと喜多もいた。


 上杉景勝、直江兼続、菊らが見送りに来ていた。


「何から何まで本当にありがとうございます。このご恩は生涯忘れません」


 礼次郎が言うと、


「当然の事をしたまで。わしらこそ、戦で礼次郎殿には助けられた」


 景勝は笑う。


 兼続は龍之丞に向かって、


「龍、しっかり励めよ。酒と女遊びはほどほどにな」

「旦那こそ。お喋りはほどほどにな」

「ぬかせ」


 ははは、と、龍之丞は楽しそうに笑った。


 菊はゆりに言葉をかけた。


「ゆり。これから礼次郎殿と一緒に行くからには、鉄砲やら薬ばかりじゃなくて、たまには歌や料理などもするのですよ。あなたこっちは下手なんだから」

「わかってます……けど今言わなくたって」


 ゆりは少し顔を赤くして答えた。


 兼続が礼次郎に言った。


「礼次郎殿。奥州の天哮丸が作られた武想郷と言う場所に行くことがあるかもしれんと聞いた」

「はい」

「武想郷がどこにあるのかは知らんが、奥州には伊達政宗と言う男がおる」

「存じております。姉がそのご家臣に嫁いでおります」

「そうか。ならばまあそれ程心配することはないと思うが……奥州に行くならば伊達政宗には気をつけておく方がよい。何を企むかわからん危険な男だ」


 兼続が真面目な顔で言うと、横から景勝が笑って言った。


「山城、またそれか。お前は余程伊達政宗が嫌いらしいな。わしは英雄の器と見ておるが」

「嫌いと言うわけではないのですが、あの男のやり方はどうにも……」


 眉間に皺を寄せる兼続。


「噂には聞いておりますが、それ程危険な方でしょうか」


 礼次郎が聞くと、景勝がそれに答えて、


「わしはそうは思わんが。まあ、確かに何をしでかすかわからん男であるのは事実。多少は気をつけておく方がよい」

「わかりました」


 礼次郎は頷いた。


 それから、しばし雑談をした後、礼次郎らは景勝らに別れの挨拶をして、春日山城下を発って行った。


 礼次郎を先頭に、その家臣達と四百の兵が街道を上州へ向かう。


 目指すのは上州城戸の郷。

 打倒するべくは風魔玄介と幻狼衆、そして徳川家康――



 一方その頃、伊川瑤子も警護の兵や侍女らを連れて、春日山城を出発していた。

 だが彼女は、このまま北陸路を真っ直ぐに京に帰るのではなかった。

 信州への街道を進んでいた。


 駕籠の中の瑤子へ、侍女が話しかける。


「奥方様、お言葉ですが、毎年これだけ探しても見つからないのですから、もう諦めた方がよろしいかと。生きているかどうかもわからないのに」

「うん……でも、もう少しだけ探させて」

「しかし、生きていたとしても観音菩薩の木像をまだ持っているとは限りませぬ」

「そうねえ。でも、私には生きているような気がするの。それに観音菩薩の木像も持っている気がするわ。母親の直感よ」


 と言った後、瑤子は、駕籠を止めさせて外へ出た。


「少し自分で歩きます」


 瑤子は風を感じながら歩いた。

 秋の草の匂いを乗せた風が、頬に心地良い。

 瑤子は、振り返って春日山城の方角の空を見上げた。


 ――あのゆり殿。歳も同じだし、偶然にも同じ百合子と言う名前。もしかしたら、って思ったけど、観音菩薩の木像は持ってなかった。



 ――いや、そもそもあの子は武田家の姫。そんなわけないわよね……。



 彼女は、ゆりが捨子であり、武田勝頼に拾われて養女となっていた事実を知らない。

 また、彼女が初めてゆりに会ったあの歌遊びの日は、観音菩薩の木像はすでに礼次郎に渡していた後であり、彼女はゆりが観音菩薩の木像を首にかけているところを一度も見た事がなかった。


 路傍に、白い百合の花がそよ風に揺れていた。

 それを見つめて、瑤子は呟いた。


「きっとどこかで生きているはず。あの時、気が狂っていた私が捨ててしまった娘、百合子……」

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