第125話 花は流れて

「ゆり? どうするとは?」

「考えてなかったの? 許嫁でしょう。連れて行かないの?」

「いや、許嫁と言っても今の私はやはりまだとても妻を娶れる状況ではなく、私自身もまた……」


 礼次郎は歯切れ悪く、


「それに、ゆりは上田に帰るのではないのですか?」

「あの子、安房守の命令を無視して貴方を助けたから、気まずくて上田には帰りづらいみたいよ」

「え?」

「それだけじゃなく、あの事も城内に広まっちゃったみたいだから、尚更みたい」

「あの事」


 礼次郎、すぐに何の事かわかった。


「もうあなたも知っているかしらね。あの子は、武田勝頼の本当の娘ではありません。血の繋がりは無いの」


 菊が目を伏せて言った。


「あの子の本当の親が誰で、いつどこで生まれたのか、本当の名は何なのかなど、何もわからないの。あの子は、まだハイハイもできないような赤子の頃に、上州と信州の境あたりにある小さな祠の前に捨てられていたのです」


 礼次郎は衝撃を受けた。

 あの上田城の晩、真田の侍の一人がゆりは氏素性の知れぬ女子、とは言っていた。

 しかしまさか捨子であったとは思いもしなかった。


 菊は、語りを続ける。


「付近の百姓が、捨てられていたあの子を見つけ、近くの永願寺と言う寺に連れて行きました。その直後、たまたま永願寺に立ち寄ったのが私の兄の四郎勝頼です。兄はあの頃、父信玄の後継者と定められたばかりでした……」


 だが、勝頼の母は武田が攻め滅ぼした諏訪氏の娘で、勝頼自身も元々諏訪家の名跡を継いでいた。

 その為なのか、真の後継者は勝頼の長男信勝で、勝頼は信勝が元服するまでの間だけの一時的な武田家当主、即ち陣代とされた。


 勝頼には、武田家の旗を使う事も、武田家の通字である"信"を名前に使う事も許されなかった。

 その為、跡継ぎになったとは言え、武田家中の一部には勝頼を一段低く見る目もあった。


 武田勝頼は、武田家の宿敵上杉謙信にもその武勇と軍才を賞賛された名将である。

 だが、いくら武功を挙げて内外で名声を高めても、ふとした時に侮りの視線を感じる事がある。


 当時の勝頼は、常に心の奥底にやりきれない鬱々たるものを抱えていた。


 その日も、勝頼は戦で武功を立てた帰り、休憩に立ち寄った永願寺の一室で、茶を片手に物思いに沈んでいた。

 だが、その茶碗を握る手は、茶碗が割れんばかりの力がこもっていた。



 ――今に見ていよ。わしは確かに諏訪を継いでおるが、父信玄の子であることには変わりない。



 双眸に憤懣の炎が燃える。



 ――わしの身体にはれっきとした甲斐源氏武田家の血が流れておるのだ! いずれその時が来れば、わしは父上の時代を超える程の版図を築いて見せる。そしてわしこそが、最も甲斐源氏の血を強く継いでいると知らしめてくれる!



 ――その暁には、人に陣代などとは言わせはせぬ!



 勝頼は唇を結び、拳を握りしめた。


 するとその時、ふと、堂の方から赤子の泣く声が聞こえた。

 何となくその泣き声が気になった勝頼が堂に行ってみると、周弦と言う名の寺の住職が、泣き叫ぶ赤子を抱いて懸命にあやしていた。


「周弦殿、その赤子は?」


 勝頼が問うと、周絃は困った顔で、


「先日、近くの者が連れて来たのです。ここより少し西に行ったところにある祠の前に捨てられていたとか」

「ほう、まだそんなにも小さいのに、何と憐れな」


 勝頼は、赤子の顔を覗き込んだ。

 目が大きく、まだ赤子であるのに整った顔立ちをしている。


「女子か。何と可愛らしい顔をしておることか」


 勝頼は目を細めた。


「ええ。ですがこの通りよく泣く子で、一度泣くとなかなか泣き止みませぬ」

「無理もあるまい。母親がおらんのだ。どれ、ちょっとわしが代わろう」

「よろしいのですか?」

「構わん。太郎が生まれたばかりの頃は、わしもよくこうしてあやしたものだ」


 と言って、勝頼が赤子を抱くと、不思議と赤子はぴたりと泣き止んだ。


「おお、泣き止みましたな」

「はっはっはっ。わしが気に入ったか」


 勝頼は笑って赤子の顔を見つめた。


「何とも小さい手じゃ」


 その紅葉のような手をそっと握った。

 すると、赤子は勝頼の手をきゅっと握り返してにこっと笑った。


「おお、笑った! 笑ったぞ!」


 勝頼は嬉しそうに言った。


「ええ?」


 周弦が驚いた。


「恐らく笑ったのは初めてですぞ」

「何、そうか?」


 勝頼は嬉しくなり、しばらく抱っこしたまま赤子をあやした。

 勝頼が抱き上げたり、変な顔をして見せる度に、赤子は楽しそうに笑顔を見せた。


 その赤子が求めるのであやしていたのだが、実際には勝頼自身がそうしたかったのかもしれない。

 愛らしいその赤子の笑顔に、いつの間にか自身の憂鬱と憤懣を忘れていた。

 固く凍りついていたものが、自然と溶けて行くのを感じた。


「誰が捨てたかとかはわからんのか?」


 勝頼が問うと、


「ええ、付近を捜したのですがそれらしき者はおりません。どこか遠くから捨てに来たのかもしれませぬ」

「ほう」

「捨てられていた時、赤子の手にはこれが握られていました。母親のものかもしれませんな」


 住職は小さな木彫り細工を差し出した。

 それは観音菩薩の木像で、上部に穴を開けて革紐を通してあった。


「観音菩薩か」

「捨ててしまう我が子に、せめて神仏の加護があるように、と言うことでしょうか」


 周絃が溜息をついた。


 その時、勝頼の側近がやって来て言った。


「殿、そろそろ参りませんと」

「おう、そうか。もうそんな時分か」


 勝頼は答えて、赤子を周絃に返した。

 すると、赤子は顔をくしゃくしゃにして再び泣き始めた。


「おうおう、すまぬな。また顔を見に来るので泣くでない」


 勝頼は切なそうに赤子の頭を撫でると、堂の外に降りた。

 しかし勝頼の背が遠ざかる度、赤子の泣き声が大きくなって行く。

 それを背中で聞いていた勝頼は、たまらずに歩を止めた。


 しばらく背を向けたまま手を震わせていた。

 やがて振り返ると、足早に堂に戻った。


 そして再び周絃から赤子を抱き上げる。

 赤子はまた泣き止み、嬉しそうに笑みを見せた。


 勝頼は、赤子の顔を覗き込んで優しく言った。


「よしよし、一緒に高遠城に帰ろうな」

「何ですと?」


 周絃が驚いて聞き返すと、勝頼は、


「周絃殿、いいか?」

「いや、それは私どもにとっては助かりますが、宜しいのですか?」

「もちろんじゃ。この子はわしを求めておる」


 勝頼は、赤子を抱いてあやす。

 にこにこと笑う赤子の顔を見つめながら、勝頼は呟くように周絃に言った。


「血、とは何であろうなぁ……。わしは正統な武田家の血筋であるが、それでも家中には未だに陰でわしを諏訪と呼ぶ者もいる。そのわしは今……血の繋がりの無いこの子が愛しゅうてたまらんのじゃ……」


 そして勝頼は、赤子を高く掲げた。

 楽しそうに笑う赤子に、勝頼は言った。


「よしよし。今日からお前はわしの娘じゃ」

「ええ?」


 周絃は更に驚く。


 勝頼の視界の片隅に、寺の庭で咲いている百合の花が目に入った。

 赤子を下して両腕に抱き直すと、勝頼は優しく語りかけた。


「ゆり……。お前の名は百合じゃ! 諏訪……いや、武田百合……!」


 勝頼の目から、涙が伝い落ちた。




「それからの兄は、もう実の子供たち以上にゆりを可愛がってね。家中にも外にも、自分の実子だって言ってたのよ。溺愛よ」


 菊が懐かしそうに笑う。


「だから、後にゆりが自分は本当は捨てられていた子だった、って知っても、一時は落ち込んだものの、自暴自棄になったりはしなかった。兄が血の繋がりなんて関係ないって思わせるぐらいにあの子を愛していたから」

「そうか……」


 礼次郎はほっと安堵したような表情になった。


「だけど、兄勝頼が天目山で自害し、武田家が滅んでからは違う。あの子は真田家に保護されたけど、その時に初めて、自分は武田の血を引いていないってことを強く意識したみたい。いつもどこかに、自分は所詮武田勝頼の本当の娘じゃない、だから真田家がいつまでも自分を保護しておく義理は無い、って思ってたそうよ」

「………」

「そこへ、あなたとのあの騒ぎの上に、ついに自分の出生の秘密が広まってしまった。あの子は、もう上田には戻る場所は無いって思ってるのよ」

「そうですか……」


 礼次郎は目を伏せた。


「ああ、ごめんなさいね。あなたのせいと言ってるわけじゃないのよ。あなたの事はきっかけに過ぎないわ」

「ええ、わかっております」

「ゆりにはね。じゃあ私もいるからこの春日山にいなさいよ って強く勧めたんだけど、あの子断ったわ。理由は言わなかったけど、やっぱり血縁の事を気にしてるみたい。"血の繋がりなんて無くともあなたは私の大事な姪ですよ"、って言ったんだけどね。それでも寂しそうに笑って首を横に振るだけだった」

「………」

「あの子はもう、他に行くところが無い。そう思ってる」

「………」

「だから礼次郎殿。今すぐに妻として娶らなくてもいいから、せめてあの子を一緒に連れて行ってあげられませんか?」

「一緒に城戸へ……?」

「ええ。あの子が行くところはもう、あなたのところしかないのよ」


 菊は切なそうに微笑んだ。

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