第81話 七天山への道

 天哮丸を盗み出した幻狼衆頭領玄介は、天哮丸を持ったまま崖の下に飛び降り、そのまま走り去って行った。

 礼次郎は、真田信幸の紹介で越後上杉家を目指していたが、当然行先を変更。天哮丸奪還の為に幻狼衆の本拠地、七天山を目指すことになった。


 だが――


「七天山への道がわからないな。千蔵、知っているか?」


 千蔵に聞くが、千蔵は首を横に振り、


「申し訳ござりませぬ、私は幻狼衆を探る任務にはついておりませんでしたので」

「そうか、困ったな」

「上州と武州の国境に近いと言うことだけはわかっております。とりあえず街道を南に向かい、途中で道を尋ねましょう」


 と、壮之介が提案する。


「そうするか」


 礼次郎が頷いた時、


「待ちなよ。私が案内してやろう」


 美濃島咲が言った。

 礼次郎は咲を見て、


「道を知っているのか?」

「ああ。私らも何度も忍びを送り込んでいるからねぇ。一人も帰って来なかったけど、道だけはわかるよ。そんなに遠くは無い。馬を飛ばせば夜までには着くだろう」

「でもいいのか? お前は小雲山に帰る途中だろ?」

「この状況で、道を知ってる私がはい、さよならってわけには行かないだろう? 乗りかかかった船だ。それに、私は借りがある。あんたにも幻狼衆にもね」

「そうか。それは助かる」


 礼次郎は顔を明るくしたが、咲は冷静な表情と口調で、


「だけどね……さっきは雑兵相手の五十人だから何とかなったけど、今度はそうは行かないよ。七天山は天然の要害の上、幻狼衆の正規兵たちが少なくとも三百人はいるだろう。それだけじゃなく、奴らは常時動員できる付近から集めた足軽が四百人はいる。そこに五人で行って何ができる?」


 順五郎は腕を組んで、


「そうだよなぁ。城攻めと同じだもんな」

「そう。こちらも兵を揃える必要がある。同数ではダメよ。城攻めだ、少なくとも奴らを越える人数が必要」


 と咲が言うと、礼次郎は、


「美濃島、お前らは今どれだけの兵を動かせるんだ?」


 と聞くと、咲は溜息をついて、


「壊滅的な打撃を受けた負け戦の後よ。動かせる兵はほとんどいない。小雲山の守備兵も百ちょっとだ、たかが知れてる」

「そうか。しかしそれが今のオレ達だ。ここでうだうだ言っててもどうにもならない。とりあえず情報だけでも探るつもりで行くだけ行ってみよう」


 と礼次郎は言った。

 天哮丸を奪った者が判明した今、いても立ってもいられないのであった。玄介を追いかけずにはいられなかった。


 礼次郎らは、咲の案内で街道を一路南へ疾走した。


 目指すは幻狼衆根拠地、要害七天山。



 半壊の城戸の館の天高く、よく澄み渡った群青色の空に、一妥の雲が流れて行く。

 気持ちの良い秋晴れであった。


 城戸の館の広い庭で、一人の壮年の男が黙々と右手のみで木刀を振るっていた。


 礼次郎の師匠、葛西清雲斎であった。

 清雲斎は、細身だがよく筋肉のついた上半身を露わにして、右腕のみで木刀を振るっていた。


 その背へ、縁側に出て来た茂吉が声をかけた。


「精が出ますな」


 その声に、清雲斎はぴたっと腕を止めた。


「あ、すみません、どうぞお続けください」


 茂吉は慌てて言うが、清雲斎はふーっとため息をついて振り返り、


「いや、ちょうどそろそろ休もうと思っていたところだ」

「さようですか。ちょうど茶を淹れたところなのですが如何ですかな?」


 そう言う茂吉の後ろから、女中のおみつが茶を運んで来た。


「おう、それはいい。喉が渇いていたところだ」


 清雲斎が喜んで縁側に座った。

 茶と共に、おみつが持って来た手ぬぐいで汗を拭き、清雲斎は茶を啜った。


「夜更けすぎからずっと若殿に稽古をつけられ、今またこうして自身も刀を振るっている。さぞやお疲れでございましょう」


 おみつが言うが、清雲斎は大笑した。


「大したことはない。あのガキにつけてやる稽古など文字通り朝飯前だ、運動にもならん」


 すると茂吉が驚き、


「それは凄い。しかし清雲斎殿はすでにあれほどの腕をお持ちなのにまだ修行を続けておられるのですか?」

「剣の道に終わりは無いからな。特に今はこの通り左手が少々不自由ゆえ」

「道場など開かれて弟子を持つとかはお考えにはならぬのですか?」

「無駄だ。道場を開いたところで俺の剣術を会得できる奴などおらん」


 そう言うと、茂吉は不思議そうに清雲斎の顔を見つめ、


「一つ聞きたかったのですが……清雲斎殿は弟子を取らないことで有名。それが何故若殿だけには教えを授けたのですか?」


 と尋ねた。

 清雲斎はふっと笑い、


「理由は単純明快だ。あいつが天才だからだ」


 と言うと、茂吉、おみつが驚いた。


「え? しかし昨晩、若殿の剣技は並、力も非力で運動能力も並だと……」

「勘違いするな、剣の天才ってことじゃねえ。才能は秘めてるけどな」

「では?」

「あいつは真円流の天才なんだ」


 と言った清雲斎は茶を一口飲むと、真面目な顔になり、


「真円流の肝である心の皮を剥く精心術、これを会得できる者はまずいない。天下広しと言えども十人いるかいないかだろう。精心術は練習すれば会得できるものではなく、厳しい条件がある。常人を遥かに超える鋭い直感と、どんなに速い動きでも正確に見切る目の良さ、この二つを兼ね備えていなければならない。そして実はもう一つある。十歳未満であることだ」


「十歳?」


「そう。心の操作ってのは難しくてな。心の皮が軟らかいガキのうちにそのやり方を身につけないといけないんだ。その年齢の限界が大体十歳だ。十歳を超えると急に覚えにくくなる。だが、十歳未満で先の二つの条件を持っている者などまずいない。だから俺は弟子を取らないんだ。ところが、礼次の奴は違った。当時七歳だったあいつは二つの条件を共に有していた、しかも極めて高い水準でな」


 清雲斎は当時の事を回想した。


 城戸の地を訪れたのは、噂に聞いた天哮丸を一目見たいが為であった。


 しかし当然のことであるが、礼次郎の父、宗龍に丁重に断られた。

 その代わり、清雲斎が天下無双の剣の達人であることを知っていた宗龍は、敬意を表し、その晩清雲斎の為に非常に盛大な宴を開き、丁重にもてなした。

 その時、宗龍は当時七歳であった子息礼次郎を弟子にしてやってくれないかと頼んだ。

 清雲斎は当然弟子にするつもりなど無かったが、もてなしを受けた礼としてとりあえず一回だけでもと指導をした。

 だがやはりその後、清雲斎は宗龍にこう言った。


「申し訳ござらん、やはり貴殿のご子息を弟子にすることはできませぬ。大変申し上げにくいことではあるが、子息礼次郎殿は全てが並。むしろ力などは無い方で、とても教える気にはなれませぬ」


 どこが申し上げにくいと思っているのかわからない口調と言葉であった。


 だが、宗龍に礼を言った後、城戸から去ろうと館の門まで出て来た時のことであった。

 左手の方の庭先、礼次郎が一人で両手を振り回しているのが目に入った。



 ――うん? あいつ何してるんだ?



 少し気になり、近づいて行った清雲斎は、楽しそうに両手を振っている礼次郎を見て我が目を疑った。


 

 ――こ……こいつまさか?



 そして声をかけた。


「おい、お前」

「うん? あ、おじさん、帰るんだ?」


 礼次郎は振り返った。

 まだあどけない七歳の可愛らしい子供である。


「何してるんだ? 遊んでるのか?」

「うん」

「何の遊びだ?」

「こうやってね……虫を片っぽの手で捕まえて、また放す。そうするとまた飛ぶから、今度はもう片っぽの手で捕まえるんだ」


 と、礼次郎は楽しそうに説明して、右手を開いた。するとそこから一匹の蠅が飛んだ。それを目で追う礼次郎は、今度は左手でひょいと簡単に掴んで見せた。



 ――やはりか。このガキ……!



 清雲斎は全身に電流が走ったかのような、声にならない程の衝撃を受けた。

 鳥肌が立った。


 素早く飛び回る蠅を手で掴むのは至難の業である。大人でもまずできない。

 ところがこの七歳の少年は何と一発で掴んで見せ、しかもそれを放した後に再びもう片方の手で掴んで見せたのだ。しかもそうやって遊んでいると言う。


 清雲斎は少し声を震わせながら


「お前、どうしてそんなことができる? いつからそうやって遊んでるんだ?」

「うーんとね……もっと小っちゃい頃からやってたなぁ。虫を良く見て、どこへ飛んで行くか考えてそこへ手を開くんだよ」

「お前、蠅がどこへ飛んで行くかわかるのか?」

「うん、なんとなくわかるんだ。簡単だよ」

「な……」



 ――何てガキだ……こいつは……!



 清雲斎はゴクリと息を飲んで礼次郎の顔を見つめた。

 礼次郎の澄んだ瞳が陽の光を受けて琥珀色になった。


「礼次郎、ついて来い。今日からお前は俺の弟子だ」


 そう言って清雲斎はくるりと背を返した。

 喜びか、恐れか、感動か……その両手が震えていた。



「なるほど。そう言えば若殿は幼少の頃はそんな遊びをよくしておりましたなぁ。あとは猫と追いかけっこなどしておりましたが、あのすばしっこい猫をいつも器用に捕まえておりました」


 茂吉が記憶を辿って言った。

 清雲斎は茶を飲み干すと立ち上がり、


「そして通常なら一年はかかる精心術の習得も、あいつはたった半年でできるようになっちまった。あいつは真円流の天才だ。だがな……」


 と言うと深刻そうな目の色となり、


「それ故に俺は予感するのだ。あいつがいつか心の皮を剥き過ぎて悲劇を招くのではないかと」

「なんと……」

「若殿が……」


 おみつが口に手をやった。


「ま、あいつがどうなろうとどうでもいいけどな。はっはっはっ……」


 清雲斎が笑って再び木刀を手に取った時、


「あの、すみません」


 と言って、門を通って庭に入って来た者があった。

 茂吉とおみつはその声がする方向を見た。


 門の前、二人の旅姿の女性が立っている。

 一人は目のぱっちりした美少女、もう一人は背の高い凛とした佇まいの女性。


「うん? 何でしょうか?」


 茂吉が声をかけると、目のぱっちりした美少女が、


「あの、城戸礼次郎殿はおられますか?」


 少しはにかみながら言った。

 それを聞いた清雲斎は木刀を振っていた手を止めて、


「人にものを尋ねる時はまず自分が名乗るもんだぜ」


 と振り返って言った。

 美少女は少し慌てて、


「あ、これは無礼をいたしました。私、信州上田から参りました武田百合ゆりと申します」


 と名乗った。


「なに? 上田の武田ゆり? それって礼次の……?」


 清雲斎は驚いて目を大きくした。


 その美少女は、礼次郎が忘れたふじの櫛を渡そうと追いかけて来たゆりであった。

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