第82話 鍔迫り合い

 ゆりが名乗ったのを聞いて、茂吉も驚いた。


「もしやあなた様は若殿の許嫁の武田百合様ですか?」


 そう言われ、ゆりは少し照れた様子を見せながら、


「え? いや、そう言うことにはなってますけど、礼次郎殿は納得してないから……何と言ったらいいか……」


 と言うと、清雲斎はずかずかとゆりに近づいて行き、


「あんた本当に武田勝頼の娘だって言うゆりちゃんかい?」


 と、無遠慮にじろじろと顔を覗き込んだ。

 ゆりはびっくりして思わず顔を引き、


「え? ええ、武田勝頼は父です。こちらは傅役をしてくれている喜多です」

「ほう」


 清雲斎はゆりと喜多の顔を交互に見ると、


「これは驚いた。確かに噂通りの可愛い子だ!」


 豪快に笑ったが、


「だけど、まだガキくせえな。俺はこっちの喜多ちゃんの方が好みだぜ」


 と言った時、すでに清雲斎の身体は幻術でも使ったかの如く喜多の隣に移動しており、その肩に手を置いていた。

 その一瞬の動きがあまりに早すぎて、くノ一の喜多が反応することすらできなかった。


「え? な……ぶ、無礼者!」


 一拍遅れて状況に気付いた喜多は、清雲斎の手を払おうとしたが、喜多の手は虚空を打ち、清雲斎は残像すら見せずに後ろに飛び退いていた。


「はっはっはっ。冗談だよ」


 清雲斎はおかしそうに笑った。


「あの、あなた様は?」


 ゆりが得体の知れないこの男に恐る恐る聞くと、


「俺は礼次の剣の師匠だ。今は葛西清雲斎と名乗っている」

「師匠?」

「そう。で、ゆりちゃん、礼次に何か用か? あいつならもういないぜ」

「え? いない? もう?」

「そう、ちょうど今朝越後に向かって発ったばかりだ。残念、一足違いだったな」

「そうですか」


 ゆりは肩を落とした。

 だが、喜多が優しげな顔で


「いいではありませんか、我々も越後へ向かえばいいことです」


 と慰めるように言った。

 するとおみつが、横から聞いた。


「あなた方も越後へ? 若殿に何の御用なのですか?」

「ええーっと……礼次郎が上田に忘れて行った物を渡そうと思って……大事そうな物だったから。これなんですけど」


 ゆりはふじの櫛を取り出した。

 縁側にいたおみつと茂吉は庭に降りて近寄り、その朱色の櫛を見つめた。


「これはもしかするとふじが使っていた櫛?」


 心当たりのある茂吉が言った。


「ほう、おふじちゃんのか」

「…………」


 複雑そうな顔でじっとその櫛を見つめていたおみつは、ぎこちない笑顔でゆりに言った。


「あの、良ければ私達で預かっておいて若殿が帰って来た時に渡しますよ?」

「え?」

「越後までは遠いです、それの方が良いでしょう?」

「で、でも……えーっと……」


 ゆりは気まずそうに口ごもる。

 清雲斎は、そのゆりとおみつのやり取りを見て、



 ――そうか、何と言う展開。礼次が惚れてたおふじちゃんの櫛で礼次に惚れてるこんな可愛い子二人が鍔迫り合いを……。



 楽しそうにごくりと息を飲んだ。


 だが、すぐに、



 ――あのガキ、生意気な……三人もの女を……。



 少し呆れたようなムッとしたような表情になった。

 

 気まずい静寂を破ったのは喜多の声だった。


「でも、ゆり様は越後に長らくお会いしていない親戚がおられますから、ちょうどいいのです。会いに行くついでです」


 と言う喜多の言葉に、ゆりは、はっと気が付き、


「あ、うん、そうなんです。越後には叔母がいるので」


 安堵したような笑顔で言った。


「そうですか。それなら……」


 おみつは複雑そうな顔で微笑み返した。


 それを見た清雲斎、何とも邪悪な顔つきとなった。



 ――あの野郎。帰って来たら思いっきりしごいてやる。




「じゃあ、早速私たちも越後へ向かいますので。お邪魔いたしました」


 ゆりと喜多が頭を下げ、門を通って立ち去ろうとした時、


「ゆりちゃん、待ちな」


 清雲斎がその背へ声をかけた。

 振り返ったゆりに、


「もう知ってるかもしれねえが、礼次はあんな顔で熱血漢の癖に、やっぱり繊細で、何かあるとうじうじ悩んだりすることがある。越後であいつと何かあったら遠慮なく頬を殴ってやりな、それで目が覚める。ガキの頃からそうだ」

「は、はい」


 ゆりはどう答えていいかわからず戸惑いの顔となったが、すぐに笑顔を繕って、


「では失礼いたします」


 喜多と共に歩き去って行った。




 夕暮れ時、落ちかけた陽が秀麗な上州の山の峰々を赤く染める頃。

 熱い風となって山野の街道を南に駆けた礼次郎らは、もう七天山に程近いところまで来ていた。

 辺りは一面すすき野で、夕陽で黄金に照らされる中、のんびりととんぼが舞っている。


「もういいだろう、ここまで来れば七天山はすぐそこよ。馬がかわいそう、休ませてあげよう」


 先頭を走っていた咲が手綱を緩めた。

 それを合図に礼次郎らも馬の速度を落としたのだが、礼次郎らの馬がすでにばてているのと違い、咲の馬はまだ十分に余力を残しているようだった。


「凄いな、お前の馬は。これだけ走ってまだ余裕があるみたいじゃないか」


 礼次郎が感心する。


「ふふ、当然よ。全力で走ってないからね」


 咲が妖艶に笑うと、


「全力じゃなかったのか? オレ達の馬はついて行くのに必死だったのに」

「この"黒雪くろゆき"は今の倍の速さで走れるわよ。あんたたちの速さに合わせてたのさ」


 それを聞くと順五郎が驚愕し、


「今の倍? 本当かよ」

「私たちは騎馬の一族だ、毎日馬に乗って責める。子馬の頃からね。だから私たちの馬はどれもこれぐらいは当たり前よ」 


 そう言うと、咲は、ところどころ白い毛のある黒毛の愛馬"黒雪"の頭を優しく撫でた。


「流石でござるな。そう言えばかつて戦場で見た美濃島騎馬隊も恐ろしく速かった」


 壮之介が思い起こして言うと、咲が振り返り、


「戦場で見た? お坊さん、あんたさあ……道全って名乗ったけど壮之介ってのが本名なんだろう?」

「それが何か?」

「さっきからもしかしたらと思ってたんだけど、あんたまさか軍司壮之介、軍司道隆じゃないだろうね?」

「いかにも。よくわかりましたな」

「やっぱり?」


 咲は、似合わぬ高い声を出して驚いた。


「以前の某をご存知であったか」

「父から何度も話は聞いたよ。でも軍司道隆は京に行き出家したと聞いてたけど、何故こんなところに?と言うか何故城戸礼次郎に付き従ってる?」

「礼次郎様にはその昔、命を助けられたことがあってな」


 壮之介がしみじみと言うと、礼次郎が照れたように、


「やめろよ、そんなに大げさなものじゃないだろ」

「いえいえ、あの時あなた様に拾われなければ某は今この世には無き身ですから。だが、今はそのような御恩は関係なく、心より礼次郎様の志をお手伝いしたいと思い従っておる」


 と言うと、礼次郎はますます居心地悪そうに口ごもった。


「へえ。あの軍司道隆がねえ」


 咲が心底感嘆したように驚くと、順五郎が横から口を挟む。


「おいおい、壮之介がいることがそんなに大したことか?」


 すると咲は呆れたように言った。


「当たり前だよ。ああ、そうか。あんたらはまだガキだったから知らないかねえ。この軍司道隆はかつて、ある戦で劣勢になった時、自ら前線に出向いて槍を振るい、百人以上を討ち取り相手の士気を挫き、ついには相手方を追い散らしたと言う伝説を残した一騎当千の猛将だよ」


 順五郎は驚いて壮之介を見る。


「そうなのか? えらく強いとは思ってたが。すげえな。壮之介、何でそれを言わなかったんだ?」

「いや、百人以上とは言っても寄せ集めの足軽相手。そんな大したことではござらん、おやめくだされ」


 今度は壮之介が照れくさそうに言う。

 順五郎はそんな照れた壮之介がおかしかったのか、はははと笑うと、今度は咲を見て、


「しかしなぁ、ガキだったとか言うけど、その時はお前も同じような歳だったんじゃないのか? お前いくつだよ?」

「女にそれを聞くのかい?」

「言えねえのか?」


 そうにやついて言う順五郎に、咲は苛ついて、


「二十一だよ」

「二十一? じゃあやっぱり俺たちと大して変わらねえじゃねえか。俺が二十だからな。……って、それでも俺より年上か、年増だな」


 順五郎がからかって言うと、真に受けた咲は怒って刀の柄に手をかけた。


「あんた、ぶっ殺されたいのかい」


 そう凄んだ顔は、武勇抜群の順五郎をして心胆寒からしめる恐ろしさだった。


「いや、すまんすまん、冗談だよ、怒るなよ」


 順五郎は慌てて謝る。


「次言ったら叩き斬るよ」

「わかったよ、すまん……噂通りに恐ろしい女だな……」


 咲は舌打ちし、


「大体あんたらの大将はいくつだよ?」


 と礼次郎を見ると、礼次郎はちらっと咲を見て、


「十七だ。もうすぐ十八になるが」

「へえ、何だ、ガキね」

「ガキとか言うな」

「はは、すまないね。しかしその歳で軍司道隆を従えて、武田の姫様が許嫁。あんた大したものね」


 咲は真剣な顔でまじまじと礼次郎の横顔を見るが、礼次郎はそれに答えず、じっと真正面を見据えたまま言った。


「おい、美濃島咲。あの山がそうか?」


 礼次郎が指差した方向、前方遠くに小高い山が見えた。


 その山の周りには連なっている他の山が無く、その山だけが単独でそびえていた。

 城郭らしきものが見られ、いくつかの郭や櫓が見える。

 本丸と見られる建物には天守らしきものまで備えていた。

 だが、その不気味な存在感は、まるで魔神の城の如くであった。


 咲はそれを遠目に睨んで言った。


「そう、あれが幻狼衆の本拠地、七天山しちてんざんよ」

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