第72話 柔らかい風

 だが、崩れた建物の影から出て来た先頭の者を見て、礼次郎は驚きの声を上げた。


「茂吉?」


 その者も礼次郎を見て飛び上がらんがばかりに驚いた。


「え、若殿?」


 その者は城戸家の勘定方、茂吉であった。

 礼次郎は驚きながらも大いに喜んで駆け寄った。


「茂吉、生きてたのか」

「若殿も……生きておいででしたか!」


 茂吉も思わず目に涙を浮かべた。


「茂吉じゃないか!」


 順五郎も喜色満面で走り寄った。


「おお、順五郎も生きておったか、これは良かった!」


 茂吉が声を張り上げると、後から続いて出て来た数人も礼次郎の姿を確認し、


「何、若殿?」

「おお、本当じゃ! 礼次郎様じゃ!」

「若殿だ、生きておられた!」


 と皆一様に喜んだ。

 彼らは極少数の、生き延びた城戸の領民であった。


「そうか……生き延びられた者もいたんだな」


 礼次郎が見回して言うと、茂吉が、


「はい。あの日、徳川は城戸の民を皆殺しにしようとしましたが、いかに徳川とは言え、全ての民を斬れるわけはございません。何とか逃げ延びられた者達もいました。その一部がこの者達でございます」

「そうだったのか……一部ってことは他にも生きている城戸の人間がいるのか?」

「はい、わずかではありますが、逃げ延びられた者達は皆、ここから少し離れた渋川村に避難しております」

「それは良かった」


 礼次郎はほっと息をつき、


「しかし茂吉、民はすぐに逃げることができるだろうからわかるが、お前はよく生き延びられたな」


「はい、わしは館が攻められたあの晩、館と外の軍兵との連絡役をしておりました。それで行き来しているうちに、いつの間にか徳川軍に館に侵入されてしまい、戻ることができなくなってしまいました。それで仕方なく、身を切り裂かれる思いで館に戻るのを諦め、少しでも民を逃がそうと生きていた者たちをまとめて領外に逃げたのです」


「そうだったのか……では寛介や三平らは?」

「彼らは皆討死にしました……わしは直接は見ませんでしたが、立派な最期だったそうです」

「そうか……申し訳ないことをした」


 礼次郎は唇を真っ直ぐに結んで俯いた。


「しかし、若殿こそよくご無事で」

「いや、色々あってな。何とか命をつないでいる。それは後で詳しく話そう。それより一つ気になるのだが、あの土の盛り上がってるのは何だ?」


 礼次郎が、土が盛り上がっているところを指差すと、


「ああ、あれはあの日犠牲になった民らを埋葬したのでございます。徳川軍が引き上げたことを知ってから、生き延びた者たちみんなで協力し、遺体を埋葬したのです。今日もその続きをしようとやって参りました」


 茂吉が悲しげにその方を見て言った。


「なるほど、だから遺体がなかったわけだ」


 順五郎が納得すると、壮之介が周りを見回して、


「そう言えば町中ところどころに土が盛り上がってるところがある。あれはそういうことか」

「はい、皆、わしらでやりました」


 茂吉が言うと、


「じゃあ、ふじの遺体もこのどこかに……」


 礼次郎が見回した。すると、


「藤の遺体はあそこに……」


 茂吉が指差した。


 礼次郎がその方を見ると、そこには桜の木が一本立っていた。

 そしてその前に少しの土の盛り上がり。

 順五郎はそれを見て、懐かしそうな目をした。


「あれは、ガキの頃に俺たちで植えた桜だ」

「ふじはあそこがいいかと思いまして……」


 茂吉がぽつりと言った。


「………」


 礼次郎は無言でそこへ歩いて行った。

 そして土の盛り上がりの前まで来ると、腰を屈めて片膝をついた。


 礼次郎はじっと盛り上がった土を見つめた。


 目を伏せた。


「若……」


 順五郎が少し心配そうに呟いた。


 爽やかな空気の中、柔らかい風がさっと吹き抜けて行った。

 礼次郎の前髪を撫で上げた。



 ――前を向けって言ってるのか?



 礼次郎は、眼前の桜の木を見上げた。


 しばらく皆無言になり、静寂の時が流れた。


 やがて、礼次郎が立ち上がって言った。


「茂吉、ご苦労だった。ふじも喜んでいるだろう」

「いえ、大したことではございませぬ」


 茂吉が涙ぐみながら答える。


「いや、それだけじゃなく、これほど多くの犠牲になった城戸の民を埋葬してくれたこと、心から礼を言うぞ」


 礼次郎が振り返って言った時、また、はっと何かの物音に気付いてその方向を見つめた。

 だが、他の者は何も気付いていない。


「いえ、当然のことでございます」


 茂吉が言ったが、礼次郎はその言葉が耳に入っているのかいないのか、その一点を見つめたまま何も言わない。

 その様子を見た壮之介、またもや何かおかしいと思い、声をかけた。


「礼次郎様、どうかしましたか?」


 しかし、礼次郎は少し血走った眼でその一点を見つめたままであった。


 ――おかしい。


 壮之介が思った時、壮之介自身も気付いた。

 だがそれより早く、千蔵が気付いて後ろを振り返っていた。


「何か来る」


 とその方向を見た時、大辻の向こうより現れた一軍団。

 土埃を舞い上げて姿を現したかと思うと、こちらへ向かって来てやがて礼次郎らの前まで来て止まった。

 その先頭には指揮官と見られる唯一の騎馬の者がいた。

 その者を見て礼次郎の表情が一変する。


「てめえは……倉本虎之進!」


 礼次郎の瞳が瞬時に怒りに燃えた。

 その者は徳川家康側近、あの忌まわしい日、城戸総攻撃の指揮をした倉本虎之進であった。

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