第71話 廃墟城戸

 その頃、徳川家康の居城、浜松城の一室。


 家康は胡坐をかいて難しい顔で書状を読んでいた。

 書状に視線を走らすその目には、ありありと困惑の色が浮かんでいる。


 その家康の向かいには二人の男が座っていた。

 一人は柔和な風貌だが、その垂れ気味の目の奥はどこか不気味な光を放つ、家康の参謀、本多佐渡守正信。

 もう一人は屈強な体格に隙の無い鋭い眼光が印象的な、徳川家伊賀衆を統率する服部半蔵正成。


 書状を読み終えると、家康は溜息をついた。


「殿、秀吉は何と?」


 正信が聞く。

 その書状は、最近豊臣姓となったばかりの豊臣秀吉からの手紙であった。


「これを見よ」


 家康は書状を正信に渡した。


「では」


 正信がその書状を読むと、顔色がさっと変わった。


「なんと! 実母を人質に差し出すと?」

「そうじゃ。秀吉め、今度は実の母を人質に差し出すので何とか自分に臣下の礼を取って欲しいと言って来おった」


 家康は額に汗を浮かべ、腕を組んだ。

 服部半蔵もその剛毅な表情を驚かせて言った。


「通常は臣従する相手に人質を差し出すもの。それが自分に臣従させる相手に母親を人質に出すなんて聞いたことがありませんな」


 家康は苦々しい顔で、


「それほどまでにこのわしを臣従させたいのか。やられたわい。ここまでされて、それでも臣従を拒んだらわしは何と言う了見の狭い奴と天下に笑われるわ」

「流石に人たらしと言われるだけありますな」


 正信が感心したように言った。


「うむ……しかし、小牧長久手の戦ではわしが勝ったものの、いつの間にかここまで力の差をつけられるとは……もっと早く天哮丸の存在を知っていれば今頃はわしの方が上だったかのう」


 と家康が言うと、ふと気付き、


「そうじゃ、そろそろ虎之進らは着く頃か?」

「はい、問題無ければもうすでに着いているかと」


 半蔵が答えて言った。

 家康は今度は正信に向かって、


「佐渡(正信のこと)、本当にお前の読み通り礼次郎は城戸に戻って来るのか?」

「ええ。城戸を滅ぼされた礼次郎は城戸の地に天哮丸を置いておくことが不安になるはず。そして必ずまず天哮丸を自分の手元に置こうとするでしょう。その際、我が軍が引き上げたと知れば必ず一度城戸に戻るはずです」

「そこを我が配下の伊賀衆が狙えば……」


 と半蔵が言うと、


「そう、天哮丸と礼次郎の命を同時に奪えるわけです」


 正信がにやりと笑った。


 天哮丸については少し外れたが、正信の読みはほとんど当たっていた。



 礼次郎らは今、城戸の館の裏の山道にいた。


「城戸か。あれからまだ一月も経ってないのに、何だかすでに懐かしい感じだ」


 順五郎が言った。

 礼次郎、順五郎、壮之介の三人は、城戸の様子を偵察に行った千蔵が戻るのを待っていた。


 礼次郎は、木々の隙間から眼下に小さく見える城戸の館を無言で見つめていた。

 その横顔を見て、壮之介がふと何かに気付いて声をかけた。


「礼次郎様、どうかしましたか?」

「うん?」


 礼次郎が壮之介の方を向くと、壮之介はその顔を見て、


「少し顔色が悪いような。お疲れのようですが?」

「え? そうか? 別に疲れてないぞ」


 礼次郎が不思議そうに答えた時、


「うっ!」


 はっと何かに気付き、後ろを振り返った。

 だが、


「何だ、とんぼか……」


 少し離れた所にとんぼがのんびりと飛んでいただけであった。

 しかし壮之介はその様を見ると驚いた。


「あのとんぼまでの距離はおよそ五間(約9メートル)、すぐ後ろにいたわけでもないのに飛んでいるのがわかったのですか?」

「そう言えば何でわかったんだ?」


 礼次郎自身もそのおかしさに気付き、首を傾げた。

 ちょうどそこへ、千蔵が戻って来た。礼次郎は待ちきれない、と言った風にすぐに聞いた。


「どうだった?」


 千蔵は馬から飛び降りるや跪いて報告した。


「それが、徳川軍は一人もおりませぬ」

「いない? 一人も?」


 礼次郎は耳を疑って聞き返した。


「はい、近づいて行ったところ、見張りの兵どころか歩いている人の姿も見えませんでした。罠であったらまずいと思い町中には入りませんでしたが、別の場所から覗いてもやはり人影は感じられませんでした」

「それは変だな、どういうことだ?」

「わかりませぬ。町中へ入ってみればもっとわかると思いますが、まずはご報告をと思い、戻って参りました」

「そうか、ご苦労だった」


 礼次郎は不審に思いながらも千蔵の働きを労った。


「しかし誰もいないと言うのは妙だな。せっかく占領したのに」


 順五郎が不思議がった。

 礼次郎は少し考えると、


「いや……城戸は山がちな上に小さな領土だ。その上奴らは城戸の民を皆殺しにしてしまった。天哮丸を手に入れたら、民のいない山間の領土など奴らにとっては何の価値もないだろう。しかも城戸は徳川領からすると北条領の向こう側であり、飛び地になる。むしろ統治の為に人を置く方が無駄だ。捨てて浜松に帰ったのかもしれん」


 と、眼下の城戸の町を見下ろしながら言った。


「なるほど、それは道理」


 壮之介が納得した。


「まあ、いないならそれはそれでいい。とりあえず、行ってみるか」




 礼次郎らは恐る恐る城戸の町に脚を踏み入れた。


「本当だ。誰もいないようだ」


 壮之介が見回して言った。

 千蔵は周囲に隙の無い視線を配る。


「今のところ、人がいる気配は感じませぬ」

「そうか、忍びのお前がそう言うならそうかもな。徳川は本当に引き上げて行ったんだろう」


 と礼次郎が言った時、


「!?」


 礼次郎ははっと何かに気付いて後ろを振り返った。


「………」


 礼次郎は遠く町外れの方向を、目の色変えて見つめる。


「どうかしたか?」


 順五郎が不思議そうに聞くと、礼次郎は、


「今、何か物音が聞こえなかったか? 何か足音のような……」

「足音? そんなの聞こえたかな?」

「オレははっきりと聞こえたが」

「気のせいじゃないか?」


 順五郎は静かにして耳を澄ませた。


「ほら、何も聞こえないだろ」


 順五郎が笑うと、


「本当だ。じゃあさっきのは何だったんだろう?」


 と言った礼次郎、何故か少し呼吸が乱れていた。

 壮之介はじっとその様子を見て、


「やはり疲れているのでは?」

「またそんなこと言うのか? いや、別に疲れてないぞ。」


 礼次郎が不思議そうに答えた。


「それにしてもひでえ状態だぜ」


 順五郎は街中を見回して憤激した。


「ああ、わしは城戸の人間ではないが、これは流石に怒りを抑えきれん」


 壮之介も額に青筋立て、目を怒らせて言った。


 町中の屋敷、家、小屋、などは皆、壁に生々しい血の跡を残しながら半壊、或るいは崩れ落ちており、あの時の状況の悲惨さを感じさせた。

 その様は、攻め滅ぼされたと言うより、破壊された、と言う方が正しいかも知れなかった。


 当然城戸家の次期当主である礼次郎もその怒りたるや尋常ではない。


「家康め……いつか必ずその首は取ってやるぞ……」


 静かだが心の中は激情に燃えていた。

 しかし、ふと気付いた。


「おかしいな。何で遺体が転がってないんだ?」

「あ、そう言えば」


 順五郎らも言われて気付き、地面をきょろきょろと見回す。

 血の跡はあるが、遺体は一つも転がっていない。


「徳川が片づけて行ったのか?」


 順五郎が首を傾げる。


「流石に後ろめたく、せめて遺体だけでもと埋葬して行ったのかもしれんな」


 壮之介が言う。


「変だな。そうだ、館に行ってみよう」


 四人は町の中央の大辻を通って城戸家当主の館に向かった。

 その途中、礼次郎の少し後ろを歩いていた壮之介が、小声で順五郎に言った。


「なあ、順五殿、礼次郎様の様子がちょっとおかしいとは思わんか?」

「え? おかしい? どこが?」


 順五郎も小声で答えると、壮之介は礼次郎の後姿を見ながら、


「いや、どことなく顔色が悪いであろう? 目も少し充血している。それに少し動いただけで息も乱れている。見たところ疲れがたまっているようなのだが、礼次郎様は疲れなどないと言う。だが、離れたところを飛んでいるとんぼに反応したり、さっきみたいに足音が聞こえるなどと幻聴を聴いたり、何かがおかしい。そう思わんか?」


 すると順五郎も異変に気付いた。


「そう言えばそうだな。でもただの寝不足とかじゃないかな? ほら、昨日、一昨日とよく眠れなかったって言ってたし」

「そうであればよいのだが……その眠れなかったと言うのも気にかかる」


 礼次郎の後姿を見つめる壮之介の瞳に、一抹の不安の色が走った。

 そうこうしているうちに、館の前までたどり着いた。

 館も同様、自慢の塀は崩れ、堀の水は濁り、櫓は倒れ、かろうじて屋敷は何とか原型を留めてはいるものの、半壊に近い状態であった。


「くそっ……」


 礼次郎は両拳を血が滴らんばかりに握り締めた。


「あ、あれは何だ?」


 順五郎が指差す方向、館の塀の端の方の手前、広範囲に渡って土が盛り上がっていた。


「何だあれは? あんなのあったか?」


 礼次郎は何気なくそこへ向かって歩いて行った。

 するとその方向を見た千蔵の目の色が変わった。

 何かを感じ取った。


「ご主君、お気を付けを!」


 咄嗟に叫んだが、


「……!」


 礼次郎もすでにそれを感じ取っており、サッと後ろに飛び退いて、前方左の崩れた建物を見つめた。

 すると、ガヤガヤと何人かが喋る声が聞こえたかと思うと、その崩れた建物の影から現れた数人の人影。


「誰だ!」


 礼次郎は刀の柄に手をかけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る