砂漠/都市 ―二〇六五年―
別れの儀式は、大勢の村人の集まる中で盛大に執り行われた。
村の人は、それぞれにミラのことを思い出して語り合い、そして泣いたり悔しがったり怒ったりして、それでも最後は元気付け合うようにお互いの肩を叩いて、広場を去っていった。
ルウが産まれたばかりのミラの子を抱いて、広場の隅に所在なげに立っていた。
泣き腫らした目をしている。
横に。ルウの服の裾を掴んで不安そうに立っている、小さな男の子と女の子。ミラの子供たちだろうか。
砂漠で死んだものは砂に返るのだと、リサが言った。
砂に返って、新しい生命を生み出す糧となるのだと。
一度死んだこの大地に、再び新しい生命が宿るのだろうか。
マリアはぼんやりと考えながら、広場を後にした。
頭の芯が痛んだ。目の辺りが熱を持っていて、まぶたが重い。
部屋のある建物の前に出たとき。微かに聞こえてくる楽器の音に、ふと足を止めた。
この間の夜、ルウと一緒に聞いたものだ。
音は下から聞こえてくる。
建物に入ると、静かな廊下に反響して、ほんのわずかに音量が増す。
この下なのだ。
下へ続く階段が見つからない。ほかの入り口があるのだろうか。外へ出て建物をぐるりと回り、見上げたり壁に耳をつけたりうろうろ歩き回っているうち、別の壁面に大きな穴があって、そこから下に続く階段があるのを見つけた。
中を覗きこむ。暗い。
部屋にとって返し、ペンライトを持って再びやってくると、階段を降りる。
マリアの部屋のある廊下と、同じような景色が目の前に現れた。だけど、足元に散らばっている瓦礫のようなものは、マリアの部屋の前の廊下にはない。
瓦礫を避けながら廊下の端まで歩いてみても、見慣れた自分の部屋はなかった。
別の階なのだ――。
地面の傾斜から考えて、マリアの部屋より下の階だろう。窓から地面が間近に見える自分の部屋が、建物の最下層だと思っていたのだが、砂の地面の下にもまだ建物は続いていたのだ。
窓にはどれも、頑丈な鉄板や、分厚い木が打ちつけられている。通路には砂が積もり、それを脇に寄せるようにして道筋が確保されていた。
上へと続く階段は、途中まで砂に埋もれていて、ここでもマリアの胸の高さほどの大きな鉄の板が、その砂をせき止めている。
音ははっきりと、階下から聞こえていた。
ペンライトで足元を照らしながら、慎重に進む。階段を、かなり下った。こんなに深い建物だったのかと、初めて知る。
いや――。深いのではない。高いのだ。
ここは地下ではない。閉ざされてはいるものの、窓がある。
半地下だと思っていたマリアの部屋は、本来のこの建物のにとっては上のほうの階だったのかもしれない。建物の不自然な出入り口も、そう考えれば頷ける。あれは本当に、壁に穴を開けただけのものだったのだ。
それでは……。
ざわつく胸を押さえながら階段の一番下まで下りると、ホールのような広い空間に出た。
広間の中央に、黒くて大きな、天板のものすごく分厚いテーブルのようなものが置かれていた。
その前の椅子に、ハルが座って、テーブルのように見えるものに手を載せている。
マリアが広間に足を踏み入れると、ハルはこちらを振り向かずに手を止めた。
音がやむと、広い空間にしんとした静寂が降りた。
しばらくの間があって、
「隠れ家を、見つけたな?」
そう言ってハルが、顔だけこちらに向ける。
マリアが歩み寄るのを、いつもより少し悲しげな笑顔で迎える。
「これは、楽器なの?」
椅子に座るハルの横に立って、テーブルのようなものを見下ろしながらマリアは聞いた。
「これを弾いていたの?」
「うん」
「なんていう楽器?」
「ピアノだよ」
「きれいな音ね」
歯のように並んだ白と黒の棒に、マリアは見とれていた。
「触ってもいい?」
「どうぞ」ハルは笑って、手でそれを指し示す。
白い棒を、撫でてみる。棒のひとつを押すと、簡単に音が鳴った。
静かな広間に、一粒の音が響く。
「鳴ったわ」
「うん」
ハルはまた笑う。
「ルウは、ハルにしか弾けないって言ってた」
「だれだって弾けるよ。ただ……こいつのために作られた曲を弾ける人間は、この村にはいないみたいだな」
ハルは笑顔のままだったが、その瞳は目の前の楽器を通り越して、遠い場所を見ているようだった。いや、その楽器の上に、重ねているのかもしれない。遠い場所――あるいは、遠く隔たった時間を――。
「おれがいた世界では、一番ポピュラーな楽器だったよ」
おれがいた世界。
マリアは心の中で繰り返す。
「どこにでも……そうだな、どこの学校にでも必ずあったから、子供から大人までみんな知っていた。だれでも音を鳴らすことができる。ちょっと練習すれば、簡単な曲は弾けるようになるよ」
ハルは、「ピアノ」に目を向けている。
その瞳は、自分のお腹にいとおしげに目をやっていたミラに、少し似た色を浮かべていた。
「コンクールがあってね――」
「コンクール?」
「そう……だれがこいつを上手く弾くことができるか、決めるんだよ。それで認められるとさ、これを弾くことが仕事になる」
「音楽が?」
「そうだよ。信じられる? 汗を流して食べ物になる草を育てるんじゃない。ものを売りに行くために毒虫に警戒しながら砂漠を渡らなくてもいい。窓から入ってくる砂を一日掛けて掻き出す作業だってしなくていい。一日中。こいつと一緒にいられる」
そう言ったきり、ハルは黙った。
沈黙を埋めるように、マリアはピアノを鳴らした。
ハルの奏でるような音楽ではない。
それは、ただの音にしかならなかった。
「ハル……」やがてマリアは、その楽器を見つめ、手を置いたままゆっくりと言った。「あなたはどこから来たの」
表情を変えずに、ハルは沈黙する。
また少し時間があって、ハルは口を開いた。
「マリア、言っておかなければならないことがあるんだ」
「なあに?」
「きみが、都市――シンジュクからやってきたのは、たぶん間違いない。コクブンジの帰りに会った男の話を覚えている? 砂漠の村の連中が、都市に盗みに入った。そこで都市の子供を攫ってきたけれど、追っ手がかかって子供たちを置いて逃げた。きみがここにやってきたのと同じ夜だ。おれは、シバの村に行ってそのときの話を聞いてきた」
ハルは、ピアノの白い盤に目をやったまま、続ける。
「ほとんどの子供たちは都市の『警備員』に連れ戻されたらしいけれど、全員じゃなかっただろうって……きみは……『覚醒』したばかりで意識があいまいなまま、ここまで歩いてきたのかもしれない」
「『覚醒』……?」
静かに問い返すマリアに、ハルは、いたわるようなまなざしを向けた。
「都市での喧嘩を、聞いていたんだろう? あれは――」
ハルの問いかけの意味を考えて、マリアは先回りして答える。
「私のいた世界は、本当にもうないのね」
ハルは答えなかった。
「私は時間を飛び越えたんじゃなかった。眠っていたの?」
ハルは、黙ってピアノを見つめていた。
「コールドスリープ……」
マリアは、都市で耳に入れた言葉を口に出してみた。自分の身に起きたものとは思えない、奇妙な響きだった。
「帰ることはできないのね」
沈黙は、肯定なのだろうか。
「家族も友達も、もういない」
あの暖かい世界には、もう帰れないのだ。不自然に時間を跳躍してきたのなら、逆に、戻ることだってできたかもしれない。そんな夢みたいな話、信じてはいなかったけれど。もしそんなことが起こったのだとしたら。
しかし、時間は確実に流れていたのだ。そしてそれは、二度と戻ることはない。
砂が、土に戻ることはないように。
二〇九九年――都市で聞いた言葉を、マリアははっきりと思い返す。
「今は、二〇九九年なのね? 二〇六五年に世界は戦争で滅んだ――あのころの世界は、もうないのね? 私は……よく分からないけれど、何かの理由で眠りについて、今三十年ぶりに目覚めた……そして、都市から出てきた……そういうこと?」
自分に言い聞かせるように、口にする。と――。
「だけど……」何か考えながら、ハルは少し言いよどむように口をつぐむ。
「マリア」
それから、静かに呼びかけた。
「きみは二〇六五年を覚えている? 緑の世界や、都市の繁栄や、技術の発達を」
「忘れたことはないわ」
「この村は、その時代の文明の遺跡だよ」
予想していたことだった。
「二〇六五年以降に、世界に何が起こったのか分からない。都市の人は核戦争が世界を滅ぼしたと考えている。この荒廃ぶりからすればきっとそうなんだろうけど、はっきりしたことは何ひとつ伝わっていない。今ある歴史は、全部後から作られたものだ」
そう言うと、ハルは真っ直ぐにマリアの目を見つめた。
「確かなのは、今は絶対に二〇九九年じゃないってことだ」
「……え?」
衝動的に、マリアは目を上げていた。ハルは真剣な面差しで、マリアを見つめている。
「この建物を見ただろ?」
確認するように、ゆっくりとハルは言った。
「ここはこの建物の地階だよ。きみのいる部屋は、地上五階。これだけの砂が堆積するのに、どのくらいの時間がかかると思う?」
想像もできなかった。
「三十年なんかじゃない。もっと、考えられないくらい長い時間が、経っているんだ。都市の『覚醒者』たちはみな自分が三十年の眠りから覚めたと思い込んでいる――いや、思い込まされているけれど、そいつは嘘なんだ」
絶望というものが形を持っているとしたら、きっとこれだ。
マリアは思った。
砂の中に突き出た廃墟。
その表現は合っていたのだ。
砂の上に建てられたのではない。砂の中に、それは立ち尽くしていた。
――少なくとも一度世界が終わってまた始まるくらいの時間は経っている。
いつだったか、ハルが言っていた言葉を思い出す。それは、比喩ではなかった。
「ねえ、でも」
そこで疑問にぶち当たる。
「どうして今、この時代に私は目覚めたの? コールドスリープは、そんなに長い時間を越えられるものなの?」
ハルは答えなかった。答えられないのかもしれなかった。
「ハル、本当のことを知っているの?」
「たぶんね」
マリアにも、聞いておかなければならないことがあった。
「ハル……教えて。あなたも、二〇六五年から来たの」
「そうだよ」
ハルは、ゆっくりと笑って頷いた。
「でもそれはたぶん、きみの記憶にある世界とは違う」
戦々恐々として、待っていた。
心のどこかにはまだ、楽観的な部分が残っていた。本当に悪いことも。本当にいいことも。この都市の中では、そうそう起こるものではない。規則違反者が学校から消えるって言ったって、別に極刑が待っていると決まっているわけではない。彼らはどこか別の地区で楽しく暮らしているかもしれないし、あるいは噂はただの噂で、本当は別の理由があって単に転校しただけかもしれない。現実なんて、そんなものだ。
実際ユウキの遅刻常習のペナルティも、軽いものだった。
いや……その後の喪失感。あれはけっこう痛かった。
本当は、そっちが罰だったりして。
仮に噂が真実で、別の地区に飛ばされても、砂漠に放り出されたとしても、ここより嫌な場所はそうないんじゃないか。何も起こらない、夢もない生活には辟易していた。そんな生活に飼い慣らされているような周りの人間にも。
シュウと離れてしまうのは、だけどそれだけは、心残りだ。けっこう気の合う友人だった。
それくらいに考えていた。タカを括っていた。
前時代の人間に喧嘩を売った――買った、とユウキは思っているのだが――生徒に対する都市の対応は、早かった。
翌日の朝には事務センターからメールが届いた。
今すぐに来いという。
前回は掲示板だったのに。それも、授業が終わってからという指示だったのに。
嫌な予感。
イプシロンともこれでお別れだったりして。
あまり現実感を持っているとは言えない、どこかふわふわした気分でボロ端末を眺めた。
(さようならイプシロン。お前はけっこういいヤツだったよ)
使いこなせるまで行かなかったのが残念だ。
シュウは教室にいなかった。
いまひとつ実感がわかないが、もしかしたらお別れかもしれないから、ひとこと言っておこうと思って少し待った。戻ってこなかった。
事務センターの窓口の女性は、この間と同じだった。
ここの薄気味悪さも同じ。
「ここでしばらくお待ちください」
下手な台詞みたいに決められた言葉だけを無表情に言って、事務員は室内に消えていった。
薄暗い廊下で、待たされる。
五分と待たされずに、事務員が窓口に戻ってきた。
台本の確認でもしてきたかのように、
「右のドアから入ってください」と機械的に、ユウキに告げる。
いよいよだ。
心臓がドキドキ音を立てているのは、恐怖からではない。
噂の真相を身を持って知ることへの緊張と興奮に、不安はどこかへ押しやられてしまっていた。
事務センターの中に入ると、さらに次の扉を指示された。
事務員が扉を開けると、暗いコンクリートの長い階段が下へと続いていた。
「これ、下るの?」
なんだか先が遠そうだ。
事務員は、当然だというようにひとつ頷く。
ため息をついて、ユウキは階段を踏み出した。
居住棟なら数階分はあろうかという距離を下って、やっと階段の下の部屋から明りが漏れるのが見えた。吸い寄せられるように明りの中に出る。
そこは、冷たい、むき出しのコンクリートの広場だった。
天井は高く、無機質な白い照明が、全体を明るく照らし。壁にいくつか、見たことのないタイプのコンピュータのようなものが設えられている。
何百人も入れるかという広さがあったが、人の気配はなく、深閑としていた。
水の流れる音が、どこかから聞こえてくる。
この都市で感じたことのない、湿った空気にそこは包まれていた。
同じ階層に、こんな場所があるなんて。
いや、ここは同じ階層なのだろうか。
かつん。
人の足音のようなものが、広いフロアに響いた。
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