都市/砂漠 ―別れ―

 壁の時計は、そろそろ四時を回っていた。

 トキタ博士は落ち着かなげにデジタルの四角い数字を確認して、ため息をついた。


 そんな老人の様子を、こちらもため息をつきたい気持ちでユウキは見つめている。


 じいさんは、あと一時間もしたら出かけてしまう。

 さっきの男と会うのだろうか。難しい話があるようだった。

 この間の複雑な様子と関係があるのなら、ユウキにだって話を聞かせて欲しい。

 すっきりしないまま二度と会えなくなるのは、さびしい。


(だっておれたち、じいさんと孫なんだろ?)

 ふと、そんなことを考えている自分に気づいて、内心で笑ってしまう。演技だと思っていたはずなのに。そう、これはあくまで仕事。十五日間の奉仕作業。


「じいさん、おれ、今日で『労働』終わり」


 トキタは目をユウキに向ける。表情は読み取れない。

「おお、……そうか、そうだったな。……いや、早いな……もう十五日か」

 感慨深げに言う。


 早いね、でも、じいさんが来て欲しいって言うなら、明日もあさっても来てやってもいいよ。

 ここの片づけだって終わってないし。ほら、中途半端ってさ、落ち着かないじゃん。


「そうか、今日で最後か……」

 繰り返すトキタの口調に寂しさが混じっていると感じたのは、自分の期待のせいかもしれない。トキタはため息をついた。しばらくそのまま時間が過ぎた。


 老人は、また時計に目をやる。

 意を決してユウキは口を開いた。

「でもおれ、じいさんが言うなら……」


 その時、電話が鳴った。

 老人が受話器を取る。電話のテレビ画面は暗いままだ。相手が映像を送ってきていないのだ。


「なんだって? ――うん、――うん。――そんなことが……なんだって、また……」

 温厚な老人らしからぬ緊張した声色を、ユウキは耳を疑う思いで聞いていた。

「――そうか、そういうことか……」

 深刻そうな声で言って、トキタは一度チラリとユウキのほうを気にする素振りを見せると、通話口と自分の口を覆い隠すように手を当てて背を向けた。

「ともかく、それではこれ以上『覚醒者』を増やさせるわけには……」


(覚醒者……?)


 ぼんやりとその言葉を拾い上げたユウキに背を向けたまま、トキタはさらに声を落とす。

「計画は早めに実行に移す必要が……準備はどうなっている? ――ああ、そうか――」


 大人には大人の生活があるのだろう。ユウキはそう思う。だから、どんな「計画」がこの老人にあったとしても、別に不思議ではない。……こんな、抜き差しならない口調で、ユウキの目から隠れるようにしてコソコソと話してさえいなければ……。


 いや――やめよう。ユウキは内心でゆっくりと首を振る。詮索はナシだ。

 この人との付き合いも、今日でおしまいなのだから。本当の「孫」でもなく、明日から会うこともなくなるような子供に、自分の明日以降の予定をつまびらかにしなければならない義理はないはずだ。


「そうか――そうか、ああ、分かった。では、気をつけてな」

 そう言って、トキタは受話器を置いた。

 ひと呼吸分の間があった。

 受話器を置いて振り返ったトキタは、見慣れた温和な笑顔に戻っていた。

 電話での剣呑な口調を忘れさせる、優しく明るいいつもの声で、トキタは言った。


「ユウキ、それじゃあ今日は、最後の夕食を一緒にとろうか」

「え……いいの? どこか行くんじゃなかったの? 時間を気にして……」

「いいんだよ。用事は済んだ」

「なんだ」


 いろんな疑問を脇によけて、別れの時間が延期になったことに、ほっとしていた。

 一方で、落胆していた。


 「最後の夕食」なのだ。


 おそらく、「これからも来てくれ」という言葉をトキタの口から聞くことはできない。トキタは最初から、十五日の期限を撤廃する意志はないのだ。

 期間限定の家族ごっこをしていたのは、トキタだけだった。演技をしていたのは。


(おれはちょっとだけ、本気になっちまってたみたいだ……)


 もっとここに来たい、トキタと一緒にいたいだなんて。

 家族って、居心地のいいもんだな、なんて思ってしまった。

 自嘲気味に、ユウキは頬を歪めた。


「じゃあさ、おれ、カレーだっけ、前に作ってくれたやつ。あれ食べたい」

 最後ぐらい、本当の家族みたいにわがままを言ってもいいだろう?


「カレーか、いいぞ。ちょっと時間が掛かるがな。待てよ、材料が揃っているかな……」

「ね、おれ、手伝っていい? 作り方教えてよ」


 そう言うと、トキタは顔いっぱいに笑いを作った。

 孫を見るおじいさんのように。

 この笑顔は、演技じゃないといい。

 たとえ本当は自分に向けられたものではないとしても、せめて。

 胸が締め付けられるような思いで、ユウキはそう願った。







 日暮れ間近。

 それぞれに沈鬱な面持ちで帰ってきたマリアたち三人を迎えたのは、見たこともないほど切迫した雰囲気のヤマトの村だった。

 村のいたるところで火が焚かれ、人々が何事か喚きながら走り回り、馬や犬が恐れおののき不安げに声を立てる。


「いったい何があったんだ……」

 馬上でかなり遠くから異常を察し、険しい表情でつぶやくハル。

 後ろに乗っていたマリアは、その声に顔を上げる。

 それまで気落ちいた様子で黙って後についてきていたルウも、ハルに馬を並べ、非常事態に表情を引き締めた。


「どうしたんだ、これは」

 村の入り口まで馬で乗り付けて、道を駆けてゆこうとする男を捕まえ、ハルが聞く。


「毒虫だ、出やがった! トウマの家だ。奥さんのミラが刺された!」

 一息に要点を告げると、男はこれ以上足を止めていられないという様子で走っていった。


「なんだって……?」

 マリアは馬の上で、ハルの緊張した声を聞いた。

 別の馬に乗っているルウも、さっと顔を強張らせたのが分かった。


 毒虫……? ミラが刺された?


 もうすぐ子供が産まれるのだと言っていた。

 いとおしげにお腹を撫でていた。ミラが?


「マリアごめん、降りて」

「え……?」

 考える間もなく、ふわりと体を抱き上げられた。地に足が着くと同時に、ハルがルウを振り返る。


「ルウ、頼む!」

 それだけ言って、ハルは馬を走らせて村の中へ消えていった。

 取り残されたマリアは、ルウに腕を引き上げられて彼女の馬に乗る。

 短く声を上げて、ルウも馬を駆る。


 ミラの部屋に着いたとき、辺りは騒然と殺気立っていた。


「ミラは?」

 部屋の前にいる数人の男女に、ルウは短く問いかける。

 全員が沈痛に黙り込むのを見て、マリアは体の中から血が引いていくのを感じた。


「ああ、ルウ、マリア……」部屋の中から体の大きな女性が出てきて、今たどり着いた二人に声を掛ける。「気をつけて、まだその辺りにいるかもしれない」


 ひやりとして、マリアはぎこちなく周囲に首をめぐらせる。


「リサ……。ミラは……?」


 リサは小さく首を横に振った。いつもの朗らかな笑顔はない。

「ミラはたぶん、もう……。お腹の子は助けられるかもしれない。今、モトが」


 ルウは最後まで聞かずに、部屋に飛び込んだ。

 中から女の絶叫が聞こえて、マリアは息を止め体を強張らせた。

 ミラが。快活に笑っていたミラが、苦しみに叫んでいる。


「マリア、真っ青だよ、部屋に戻っておいで」

 気遣わしげに言うリサの言葉に、マリアは黙って視線を足元に落とす。

 ここを離れたくなかった。しかし、部屋の中へ入っていくこともできなかった。

 恐ろしかった。体が小さく震えて。足が動こうとしない。


「リサ! 来とくれ!」

 室内から、緊迫した声が届く。リサは一度心配そうにマリアを見て、肩にそっと手を置き、部屋の中に戻っていった。


「やったぞう!」

 外から太い男の声がした。「毒虫を仕留めた!」


「おおい! 毒虫を仕留めたぞう!」

「おい、みんなに報せろ!」

「気をつけろ、一匹だけじゃないかもしれない!」


 人々が口々に叫ぶ声が、窓を抜けて暗い廊下に伝わる。

 同時に部屋の中からも、いくつもの女の声が聞こえた。


「ミラ、頑張れ、もう少しだ」

「ミラ、しっかり」


「頑張れ!」


 中からも外からも押し寄せてくる喧騒に、マリアは堪らなくなってしゃがみ込んだ。

 様子をうかがうように戸口に集まっていた人々の何人かが、マリアに何事か声をかける。

 聞こえない。

 部屋の中からの声だけに集中しようと思った。


「ミラ! あとちょっとだよ」


 何度目かの絶叫。

 女たちの声。

 あの時、甘いにおいの充満する部屋で。服越しに伝わってきた、彼女のぬくもり。

 まだ手に残っている。


「ミラ!」


 泣き出しそうになりながら、マリアは立ち上がって部屋の中に駆け込んだ。

 モトが、小さな赤いものを抱き上げたところだった。


「ミラ? よおぉく頑張ったねえ」

 モトが優しく、若い母親に声をかける。

「女の子だよ」


 老女の手の中の赤いものを見ると、ミラは微笑んだようだった。

 赤く上気した顔は、しかし、苦しげに歪んでいる。布から出ている足の先が、毒に冒されてか紫色の不自然な斑紋を浮かべていた。

 ゆっくりと、片手を持ち上げるようなしぐさ。そばにいた女がそれを手伝って、彼女の手を産まれたばかりの子供に触れさせて。


「泣かないわ……」

 赤ん坊の頬に触れながら、喘ぐような小さな声で、ミラが言う。


「大丈夫だよ。ちゃあんと息をしている。ほおら、お母さんだよ」

 いとおしげに言って、モトはミラによく見せるように手の中の子供を近づけた。

 一度、ゆっくりとその頭を撫で、頬を包むように触れて。安心したようにミラの手は床に下りた。


 ミラの瞳がマリアに向いて。それから、傍らで一方の手を握り続けているルウへと。

「遊んであげてね」

 力なく、ルウに微笑みかける。ルウはミラの手を両手で握り、身を乗り出した。


「遊ぶよ。いっぱい遊ぶ。毎日だよ。棒取りも木登りも、羊と……ネズミごっこも、みんなするよ。トウモロコシの早食いも教える。そうだ、あたしの村一番の称号を彼女にあげるよ。トウモロコシの葉っぱの冠もね。……ねえミラ、見たいだろ?」

「……見ているわ」


 ゆっくりと、ミラは目を閉じた。

 一瞬室内に、沈黙が落ちた。


 それから。


「ミラ? ……ミラァ!」

 ルウが叫んだ。

 続いて、すすり泣く声が室内に満ちた。

 いたたまれなくなって、マリアはそっと部屋を出た。


 村中に焚かれた火は相変わらず。

 駆けていく人々の狂乱したような叫び声も。

 建物の間の狭い道をとぼとぼと歩いていると、


「マリア!」


 後ろから声が掛けられた。

 振り返ると、ハルが立っていた。

 たいまつと、もう一方の手には銃を持っている。


「マリア、動くな、そこでじっとしてろ」

 ハルが張り詰めた声で叫んで、銃を地面に向け足元を探るようにしながら小走りに寄ってきた。

 マリアの目の前まで来て、立ち止まり、息をつく。


「うろうろしてちゃ駄目だ。危ない」

「ハル……ミラが、……死んだ」


 ハルは一瞬絶句した。


「……そうか」

 静かにそう言って、銃を壁に立てかけた。それきり、沈黙が流れた。


「ハルッ」道を行く人が、呼びかける。「もう大丈夫だ。毒虫は一匹だけだった。トウマが、砂漠から連れてきちまったらしい。やつのリュックに、そいつが入っていた跡があったよ」


「……そう」

 答える声に、安堵の色はなかった。


「かわいそうになァ。もうじき赤ん坊が生まれるってんで、何日も走り通して急いで帰ってきたってのによ」

 悔しそうに、男は舌を打った。「だから、リュックを砂の上に直接置いたりすんなって、いつも言ってんだ。ちょっとのこと面倒臭がってよォ。……ちくしょう、それで奥さんの命、持って行かれちまっちゃ、やり切れねえだろうなァ」

 苦々しげに言いながら、足早にその場を去っていく男。


 倒れかかるように壁に寄りかかって体を折り、ハルは片手で額を支え、大きく息をつく。それからマリアを見上げ、

「マリア、大丈夫か?」


 言われて、マリアもその場に座り込んだ。


「疲れただろ、今日は、……いろいろあったから」

 そう言うハルも、濃い疲労の色をにじませながら、壁伝いに腰を落とす。

「大変だったよな……」


 優しく声をかけられて、こらえていた涙が溢れ出した。

 泣きたいことは、たくさんあった。気掛かりなことも。


 でも、今は。ミラノために泣くことにしよう。

 しばらくの間、ほかの事は考えないで。


 顔を腕の間に沈めると、涙があとからあとから込み上げてきた。

 泉のように干上がることを知らず、乾いた砂の大地に吸い尽くされることもなく。


 乾いた砂の大地。そう。ここは砂漠。

 緑があって、水があって、人々は楽しそうに笑いながら生活していて。

 でもここは、楽園ではなかったのだ。

 

 いつの間にかマリアは、声を上げて泣いていた。

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