砂漠1 ―コクブンジー
――忘れ物はないの?
そう聞くのは、母の、朝の挨拶のひとつだ。
小学校のころから変わらない。
――マリアはそそっかしいんだから。
これは口癖。
もう子供じゃないんだから、そんな心配してくれなくてもいいのに。
そう思うけれど、母には言わない。
代わりに、「ないよ、行ってきます」そう挨拶を返す。
母は、家を出ようとするマリアに行ってらっしゃい、と声をかける。
これは朝の儀式だ。
あの朝も、同じ儀式で送り出されて、学校に向かった。
一年と三ヶ月、通いなれた道。学校の前の緩やかな坂道で、ナツミに会った。
――おはよう。昨日の「若草の夏」、見た?
――見た見た。クロノさん、かっこよかったねぇ。
ナツミはドラマに出てくる若い俳優に熱を上げている。精悍な顔つきや引き締まった体がいいそうだ。どちらかといえばはかなげな文学少女という感じの彼女からは想像できない。
セミが鳴いていた。まだ雨季が明けたばかりだというのに。気温が一気に上昇したような気がして。これからやってくる夏休みのことを、考えていた。
海に行こう。ナツミたちと四人で。
来年の夏は、受験で忙しいかもしれないから、今年は精一杯楽しむのだ。
でもその前に、ナカニシ君と会えなくなってしまうのが寂しい。
日に焼けた笑顔が脳裏に浮かび上がる。
夏休みまでに告白する勇気なんて、ないけれど。
切れ切れに浮かんでくる「日常」の一場面一場面を、マリアは規則的に揺れる馬の背の上で思い返していた。
周囲の景色を見るのが怖くて、前に乗って馬を操るハルの背中にしがみついたまま、いつの間にか目を閉じていた。
しっかりと閉じたはずのまぶたを通してさえも、周囲の明るさが分かる。遮るものなく照りつける太陽が、体を覆う日除けの布を突き抜けて肌に刺さる。あらゆる角度から体にのしかかるような暑さが、それでなくても重苦しい気持ちをさらに圧迫する。
ナカニシ君はどうなったんだろう。
両親は、兄は? ユイは、ナツミは、マイカは……?
苦い思いがこみ上げてくる。嫌な想像。
それを追いやるように、頭に浮かぶ、声。
――本当に、マリアはそそっかしくて。末っ子で甘やかされたせいだわ。
――マリア、今日は宿題やってきた?
――もう少し頑張れば、上位の大学を狙えるぞ。
――ナカニシ君、彼女いないみたいだよ。
――マリア、遅くなるときは連絡しろよ。駅まで迎えに行ってやる。
「着いたよ、この辺りだ」
しがみついていた背中の向こうから、思考をさえぎるように声がかけられた。
同時に、馬の足取りがゆっくりになる。
思わず背中から体を離し、目を開けた。それまでまぶたに被われていた目が、突然強い光にさらされる。
ゆっくりと手綱を引いて、ハルが後ろを振り返る。
「なんだ、眠ってたのか? 静かだと思ったら」
明るさに慣れず目をこするマリアに、ハルは肩越しに、呆れたように笑った。
「初めてなんだろ、馬に乗るの。度胸あるな」
「眠ってなんかないわ。まぶしくて……」
ハルがまた、小さく笑ったような気がした。満月の砂漠の廃屋で、初めて会ったときと同じ笑顔で。
マリアの前からふわりとハルの気配が消えて、砂の上に足を下ろす音がした。
ハルに片腕を取られ、もう片方の手で馬の背につかまって、引き寄せられるように馬上を降りる。難なく着地したつもりが、馬上から地面までの距離を誤って――というより、地面がやわらかく沈んだように感じられた――よろけて、ハルに支えられた。
おかしい。しばらく閉じていた目が、元に戻らない。何も見えないのだ。
それなのに……。
「大丈夫か? やっぱり寝ぼけてるんじゃないの?」
そう言って、身をかがめて下から覗き込む、苦笑するようなハルの顔は、はっきり見える。
何も見えないのではない。
何もないのだ。
そう理解するのに、もう少し時間がかかった。
――黄色い砂の海。
目に映る景色について、マリアが何かしらの判断を下すのを待っていたように、しばらく経ってハルが口を開いた。
「この辺りが、コクブンジ……と、むかし呼ばれてたところだな」
それまでの笑いを含んだ声とは違う、感情のない声だった。
「うそ……」
目で見るまで信じていなかった。なんと言われても、まだ冷静でいられた。
それなのに。目の前に広がるこの光景はなんだろう。
茫漠とした荒野。
ここがコクブンジ? まさか。
信じられない。彼の言葉が。自分の目が。それとも疑うべきは、記憶か、精神か、自分の存在そのものか……何が嘘をついているのだろう。
「少し歩くか?」
意識の遠いところから、ハルがそう聞く。
いつもの笑顔に、困ったような表情が浮かんでいる。
哀れむような、慰めるような、あるいはこの風景がマリアの期待していたものと違ってしまったことを、申し訳なく思っているような。
自分は今、どんな表情をしているのだろう。失望? 困惑? それとも悲しみ?
違う。悲しくなんかない。だって、まだ信じられない。
頷くと、ハルは先に立って歩き出した。
「足元に気をつけて」
よく見ると、大小の石が砂に隠れているのが分かった。いや、石ではない。コンクリートの破片。拳くらいのものから、人の背丈くらいの長さを持ったもの、細いもの、面積の広いもの。風雨にさらされ砂にまみれ、褪せてはいるが、近寄ってみると、たしかに自然のものとは違う色や形を持っている。
地面から出ているものに足をとられて躓きそうになって。振り返ると、細い鉄の棒が砂から先端を覗かせていた。
前を行くハルに従って、いつの間にか丘陵を登っていたらしい。しばらくして、高台に出た。
マリアはそこでさらに息を呑んだ。
これが、コクブンジ――?
自分が住んでいたはずの。家族が暮らしているはずの。学校があって友達がいて、生活のすべてがあったはずの街?
眼下には、今辿ってきたのと同じ瓦礫に埋まった地面が続き、その先に朽ち果てた街が見えた。写真で見たことがある「廃墟」と同じ光景が、眼前に広がっている。
必死で記憶を手繰り寄せる。
記憶に残る建物はないか。見覚えのある景色はないか。
砂から突き出て途方に暮れたように立ち尽くす、中途半端な高さの「かつて建造物だったもの」の群れに、マリアが知っている街の面影はなかった。
「行ってみる?」混乱しているマリアの思考をこれ以上かき乱さないようにしてくれているのだろう。そっとハルが声をかける。
彼の心遣いを、頭のどこかでは感じながら、マリアは首を横に振った。
「もういい」
こんなのは私の街じゃない。こんな場所知らない。きっと間違いだったんだ。
では、ここはどこだろう。まさか……。
もう一度ゆっくり首を振って、何度となく頭をもたげる考えを否定する。
異世界に飛ばされてしまうなんて。
時間を越えてしまうなんて。
そんな馬鹿な。どうかしている。
そんな話が現実に起こるはずがない。そんな夢みたいな話が。
夢? 私は夢を見ているのだろうか。
あの、砂漠をさまよった夜から、ずっと。
トウキョウがもうないと聞いたあの夜。
マリアはひとつの仮説にたどり着いた。自分でも馬鹿げていると思う。だけど、トウキョウがかつて存在していて、なくなったものだとすれば――そしてこれが夢でないと仮定するなら、残された可能性は……。
『今は、いったいいつなの?』
まさか、……ここは二〇六五年のトウキョウじゃないの?
答えを聞くのは怖かったけれど、聞かずにはいられなかった。
『二〇六五年……?』
ハルはかすかに目を見開く。ルウは隣でわけが分からないという顔をしていた。
『違うのね? ……それじゃあ……今はいったい何年なの?』
聞かれたハルは、困ったようにマリアを見つめていた。その表情が、マリアの不安をさらにかきたてる。
『ごめん、おれにも分からないんだ』
やがてハルが口を開いた。顔に穏やかな微笑を取り戻していたが、ほんの少しだけ沈痛そうな表情が混ざっていた。
『分からないって……?』
『ここの人間は、年を数えることをしない。きみが……きみの考えている可能性が現実だったとして、その時から継続した文化を持っている人がいないんだ。たしかに言えるのは、今は二〇六五年じゃない。それからかなり……少なくとも一度世界が終わってまた始まるくらいの時間は経っている』
『ちょっと待ってよ』一人話に置いていかれそうになって、ルウが声を上げた。『だったらマリアは、過去の世界から来ちゃったって言うの?』
信じられない気持ちで部屋に戻るマリアを、ルウが送ってくれた。
翌日も、翌々日も。マリアはひとりで部屋にこもっていた。
リサが食事を届けてくれたが、何も言わなかった。
ルウは散歩だ宴だいい天気だといっては数時間おきにマリアの部屋を訪れ、外へ誘ったが、マリアはそのたびに首を横に振った。
数日後の夜に、ハルが、黄ばんで破れかけた一枚の大きな紙を持って部屋を訪れた。
地図のようだった。左上隅に、「2064」という数字があるのだけが、マリアにも読み取れた。口の中が苦くなって、嫌な感じがした。頭の芯が冷たかった。
地名を記したと思われるのは見たことのない文字だったが、ハルが読み上げるその名前には、覚えがあるものがいくつかあった。
「コクブンジ」という地名に、ピンと来た。
よく知っている場所だ。私が住んでいたのは、そこではなかったか。
帰りの馬上では、マリアもハルも口を開かなかった。
ハルは来たときよりもゆっくりと馬を走らせる。そのハルの背に掴まって、流れて行く景色をぼんやりと見ていた。所々で遠くに同じような廃墟が見える以外、景色にほとんど変化はない。
馬の足が、時おり瓦礫を蹴り上げた。最初に歩いた夜の砂漠には、そんなものはなかったと思う。大地は細かい砂の粒に埋め尽くされていると思った。
あれは、どこだったのだろう。
ふいに、遠くから大きなエンジンを載せた何かが近づいてくるような音がして、ハルが馬を止める。
そのまましばらく待つ。一台の大型の車――マリアの記憶の中にあるものよりも、かなり大きく重量感があり、屋根はない――が、こちらに向かって近づいてくる。
音を聞きとめた瞬間、ハルは少し警戒するような気配を見せたが、どうにか乗っている人間の顔が見えるくらいの距離まで車が近づき「おーい! ハル? ハルじゃねえか」というような叫び声が聞こえると、緊張を解いた。
車が目の前で止まる。運転席に乗っていた男が降りてくると、ハルは一度マリアのほうをちらりと気にする素振りを見せてから、自分も馬を降りた。
「オキさん、どうしたの、これ」
車に目をやって、ハルが聞く。
オキと呼ばれた大柄な男が、得意げに車のボンネットに手を載せた。ルウの母親の、リサたちと同じくらいの年齢に見えた。日に焼けたたくましい腕を上げ、親指で背後を示す。
「手に入れたんだよ。ツルミの村の連中からな。いま、村に持って帰るところさ」
「へえ。よくこんなものがあったね」
「すごいだろ」
「これがあれば便利そうだな。けど、燃料は?」
「そいつが今、悩みのタネさ。村に連れ帰ったら動かねえじゃ、はるばるツルミまで行った苦労が報われねえ。一応、知恵は借りてきた。機械も一緒に手に入れたし、まあ、どうにかやってみるさ」
オキは、可愛がっている動物か何かを見るようなまなざしを車に向けて、腕を組んで大きく頷いた。が、すぐに眉を寄せる。
「問題は、この道さあね」
ひげをたくわえた
「『どうにかした』程度の燃料じゃ、馬力が足りねえ。平らな地面ならいいが、砂の中を走るってなると、もっと力がいる。道さえ良けりゃなあ……」
「そうだね……でも、村の中で使えるだけでも仕事の能率が上がりそうだ」
「ああ。あんたんとこも、どうだい?」
ハルは驚いたように目を見張った。
「まだあるの?」
「ああ。ツルミの連中の話じゃ、実はヤツらはこんなのがゴロゴロ落ちてる場所を元から知ってたらしいんだ。ただ、誰も動かすことができなかったし、ガラクタだと思ってた。それがな――」オキは、内緒話でもするように、少々身を乗り出した。「近ごろ、砂漠を旅してきた『客』ってのがツルミの村に居ついてな。その『客』が、かなりの物知りで。こいつの動かし方も修理の仕方も知ってて、ガラクタを復活させたらしいんだ」
「へえ……」
「最近、多いやなあ、その手の話。あんたも、ヤマトの『客』だもんな」
ハルは特に返事はせずに、小さく笑いを浮かべた。
「まあ、どうしたって使い物にならねえのも多いから、少しずつ修理してるんだけどな。できた分から売るつもりらしいから、声を掛けといちゃどうだ?」
「そうだね。今度行ってみようかな」
ハルが答えると、オキは抜け目なさそうに笑った。
「ツルミの連中にとっちゃ、ガラクタが、突然宝の山だ。笑いが止まらねえって顔だったぜ?」
「だろうね」
「ツルミといい、ヤマトといい、『客』は大事にするもんだなあ。はっはっはっ」
豪快に笑ってオキは、
「ところであんた、そっちの子は――」
馬上のマリアに目を止めて、顎に手を当てた。
「ああ、ヤマトの新しい『客』なんだ」
「あ? こりゃまた……あんたぐらいの年頃の客、流行ってんのか?」
「ははは、さあね」
苦笑するようにハルが答える。
オキは顎をごしごしと撫でながら、ハルに顔を寄せて、
「あんた、こりゃあんたのソレじゃねえのかい?」
「何を言っているか分からないよ」
「いいんだぜ。おれは別に……そういうことなら、うちの娘の話は諦めるしかねえが……」
「オキさんっ、まだ言ってるの?」
慌てた様子のハルにニヤリと笑って見せて、オキは「じゃあ、またな」と車に乗り込み出ようとしたところで、再び「そうだ」と運転席から身を乗り出した。
「シバの奴らの話を聞いたかい?」
「……シバの村の? ううん。何かあった?」
「ヤツら、また都市でひと暴れしたらしい」
「……都市で?」ハルがふっと顔を曇らせた。
「ああ。盗みに入ったんだってよ。こないだの十五の月だ。今度は人まで攫って来たって話だよ」
「都市の人間を?」
「そうさ。都市の警備の奴らに見つかって追いかけられて、外で小競り合いになったそうだ。で、結局持ち帰ったもんはいくらもなかったって話だけどな」
ハルは目を細め、何か考えているようだった。
「まあ、『元々は自分たちのものだったのを、取り返そうとしただけだ』ってのがヤツらの言い分だ。気持ちは分からねえでもないが、『今』はマズいよなあ」
「……うん……」
「あの計画、シバの連中を絡ませるのはちょっと考えたほうがいいかもしれねえぜ? 血の気が多くて、いまひとつ物分りが悪い。突っ走られちゃ、ほかの村に迷惑がかかる。それに、今回の件で、東の抜け道は使えなくならねえかな」
「……そうだね……。どうもありがとう」
「いや、いいってことよ。そんじゃまた、よろしくな」
そう言って、車のエンジンを何度か吹かし、大きく手を上げてオキは今度こそ去っていった。
見送るハルは難しい顔をしていたが、振り返ったときにはもう、いつものやわらかい表情に戻っていた。
「マリア、ごめんな。帰ろう」
やがて日が低くなって辺りが赤味がかってきたころに、ヤマトの村が見えてきた。
同じように崩れたビルの群れだが、人の気配がある。人の声が、馬のいななきや犬の鳴き声が聞こえる。布が風にはためき、わずかながら木の緑も見える。
帰ろう。
そう言ったハルの言葉が、温かくて、それでいてすんなりと心の底に落ちては来ずに、胸を締め付けた。
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