砂漠2 ―記憶―

「おーい! ハルー! マリアーーっ!」

 高い声が聞こえた。


 砂を蹴る馬の足音を耳ざとく聞きつけたのだろう。建物の間からルウが駆け寄ってきた。

 二人を乗せた馬に近寄ると、彼女は真っ先に馬の鼻面に抱きつく。

「おかえり、リュウ。ご苦労さま」

 馬のほうも嬉しそうないななき声を上げて、鼻を摺り寄せる。


「馬が先かよ……」と苦笑しながら、ハルがひらりと馬上を降り、続いてハルに助けられながらマリアも地面に足をつけた。馬に揺られているような感覚が体に残って、足がおぼつかない。


「ハルも。おかえり。リュウはいい子だった?」

「ああ、完璧。言うこと聞くし、水が欲しいのメシが欲しいの駄々こねないし」

 ハルが馬の首筋を撫でる。その向こうで、少女はそっと馬の顔から離れ、黙っているマリアのほうに一歩踏み寄った。


「おかえり。マリア」快活で遠慮のない彼女にしては、相手の表情をうかがって言葉を選んでいるらしい。「どうだった?」


「うん……」そう言ったきり、マリアは続きを言いよどむ。


 沈黙してしまったマリアの代わりに、彼女はハルに返事を求めるように目を向けた。

「楽しい遠乗りじゃなかったみたいね」


 ハルは肩を竦めて、言葉少なに答える。

「人は住んでなかったよ」


「私の知ってる街じゃない」

 マリアはぽつんと答えた。


 すると、ルウは大きな目と濃い眉を吊り上げて、きっぱりと言った。

「当たり前だ」


「おい、ルウ……」

 ハルが困った顔で、たしなめるように名前を呼ぶ。が、ルウは、引き下がらない。


「だから言っただろ。行くだけ無駄だって。コクブンジにはもう人は住んでいない。ハルだって行ったことがあるだろう! じい様が言ってた。むかしは水も十分にあって、この世界がこうなってからも大きな町があったって。だけどもうずうっと前に毒虫が出て人がいなくなって、泉も枯れた。あそこは死んだ町なんだ!」


「死んだ町……」

 一言が突き刺さる。だけど、自分の生活はそこにあったはずだ。


「そうだ!」

「じゃあ……」

 あの景色を見たときから宙に浮いていた言葉が、よみがえってきた。

「だったら、私はどこから来たの? 私のコクブンジはどこにあるのよ」


 反撃を予想していなかったように、ルウが一瞬怯む。

 数日間溜め込んでいた不安やわだかまりが、一気に噴出してくるのを感じた。


「私はどうしてここにいるの? ここはどこなの? 分からないからこの目で見たかった。だから行ってみた。悪い? 説明してよ、誰かこの状況に納得いく説明をしてよ!」


「じゃあオマエは、そこに行って自分の目で見て、納得したのかよ」

 ルウの方も引かない。それどころか、それはマリアの一番痛い部分を突く一言だった。


「ここはこんなに荒れ果ててるけど、自分がいたコクブンジだけは豊かな生活を送ってたっていうのか? 一人だけその中から弾き出されて、砂漠に迷い込んじまったって? 本気でそんなこと思ってんのかよ!」

「そんな……まさか、そんなことあるはずない、こんなの……」


 そう言って言葉を切った。いろんな感情がこみ上げてきて、うまく言葉に出せない。

 砂漠の夕暮れの、冷たい風が、体を撫でて吹き抜けていく。

「こんなの、……悪い夢だわ」


「今度はそれかよ」ため息混じりに、苦々しげな口調でルウは言った。「どっちが夢なんだ?」


 予想もしなかった疑問を返されて、マリアは愕然とルウを見つめ返した。


「言っとくけど、あたしはオマエの夢の登場人物じゃないよ。ちゃんと存在してる。夢だって言うなら、オマエの言うその、水が溢れてて植物がいっぱいで色とりどりで、家族や友達のいる世界のほうが夢じゃないって、どうして言い切れるんだよ」


 言葉が出なかった。マリア自身がずっと考えていたことだったから。

 マリアは自分の知っているコクブンジを思い返していた。不思議なことに、よく知っているはずの町並みや景色が漠然としか思い出せない。


 家ははっきり覚えている。学校も。では、その間の道は?

 近所のよく買い物に行った店を覚えている。しかし、店の内装はどうなっていただろう。何を売っていた? 何を買いに行った?


「あたしだって、オマエが時間を飛び越えて来ちゃったなんて信じられないね。だけどこれが夢の話だって言うのはもっと違うよ。あたしは現実に生きてる。オマエもここにいる。これが現実なんだよ!」


「ルウ、もうやめろよ」

 二人の少女のやり取りを黙って見守っていたハルが、見かねたように口を挟んだ。


「やめない! マリアの言う綺麗な世界なんて夢だ。そんな世界はどこにもないんだよ! 早く認めろよ!」


「やめろ!」

 初めてハルが声を荒げた。はっとして、ルウが言葉を切る。二人の視線がハルに集中した。それまでマリアに見せていた温和な笑いは、完全に消え去っていた。


「いい加減にしろよ。いま急いで決めなくたっていいだろ?」

 大きなため息をひとつついて、顔を上げると、ハルは二人の顔を見て、苦笑した。


「なに泣きそうな顔してんだよ、二人して。ほら、リュウが待ちくたびれてるじゃないか。早く休ませてやって」

 そう言って、馬の手綱を取り、ルウに手渡す。

 ルウはそれを受け取って、上目遣いにハルを見た。


「ハルも、故郷が恋しくなったのか?」

「そんなんじゃないよ」

 そう言うハルの表情には、控えめな笑顔が戻っていた。


「ふうん」安心したような。急に興味がそがれたようなぶっきらぼうな調子で言って、ルウは手綱を引いた。二、三歩で、振り返る。

「ともかく、もうあそこには行くなよ。毒虫が巣を作ってて、本当に危ないんだからな」


 愛馬を引いて去っていくルウの背中を目で追って、マリアは張り詰めていた力が抜けていく気がした。流すまいと思った涙が、視界を覆う。


 ハルはルウの後姿とマリアとを交互に見て、小さくため息をついた。

「あいつなぁ……。悪気はないんだけどな。あれがあいつの慰め方なんだって言ったら、信じる?」


 傷ついた。だけど、悪意は感じなかった。それどころか、彼女はマリアに「おかえり」といったのだ。誰かの口から欲しかったその言葉を、くれたのだ。慰められたとは言いがたいが、力づけようという気持ちはあったのかもしれない。もしかしたら、だけど。

 しかし、頷いたら涙がこぼれてしまいそうで、じっとしていた。そんなマリアの頭を、ハルが後ろからやさしく小突いたので、弾みで涙がこぼれだしてしまった。そのままハルが、マリアの頭を撫でる。


「はあ、困ったね。泣いてもいいよ」


 いったんこぼれだした涙はなかなか止まらなくて、声まで上げて泣き出してしまった。

 どうしてこの人は。人の気持ちを読んだように行動に出てくれるのだろう。まるでなんでも分かっているというように。

 砂丘の稜線に赤い夕日が飲み込まれていくのが、涙に滲んで見えて、その間ハルはずっと頭を撫でていてくれた。




 時間を飛び越えるなんて、そんなことが本当に起こりうるだろうか。

 だとしたら。いったい自分はどんな理由で、未来の世界に来てしまったのだろう。

 信じられない。


 しかし、ここで見たさまざまな事柄が、ここが二〇六五年のトウキョウではないことを物語っていた。


 異世界だろうと未来だろうと、大差はないような気がした。どちらにしても、現実味のなさは変わらない。夢でないのなら。そして、夢だとしたらどちらが夢なのだろう。


 信じていた世界が音を立てて崩れていくのを感じた。

 今この世界が信じられないのと同じくらい、記憶もどこかちぐはぐで、ぼやけている。考えがまとまらない。


 もしこれが本当に未来の世界なのだとしたら。

 それを認めるなら、次に考えるのは元の世界に帰る方法だ。果たしてそんな方法があるのだろうか。時間は前にしか進まない。しかし、飛ばして進んでしまうことだってありえないはずだ。




 ルウが部屋に現れたのは、その夜のことだった。


 ポット栽培の植物を抱えていた。

 細長くとがった大きな葉に、線状の白い模様が入っている。一見して葉しか見えないが、ポットに入っているのだから茎も根もあるのだろう。丈が高く、抱えるとルウの背を軽く超えていて、顔が隠れた。それで、一瞬植物が歩いて入ってきたように見えて、身構えてしまった。


 ルウは無言でそのポットをベッド脇に置くと、初めて会った日と同じ、自信満々の顔できっぱりと言った。

「さっきは言い過ぎた。悪かった」


 あまりにも偉そうなので、謝られているのだと気づくのに時間がかかってしまった。

 マリアが何も言わないので、ルウはさらに畳み掛けるように、「ごめん。謝る。許してくれ」そういうと、軽く頭を下げた。


「そんな、許すだなんて……」

 マリアは慌てて身を乗り出す。人に真剣に頭を下げられたことなどない。なんだかとんでもないことになってしまったような気がしたのだ。

 が、ルウは、なぜかそれを拒絶と受け取ったようだった。くっきりとした眉を、不安げに曇らせた。


「怒っているのか?」

「怒ってないわ」


 先ほどまでの気落ちを忘れて、マリアは努めて笑顔を作ろうとした。しかし、ルウは安心するどころかますます不満そうな顔になる。


「どうして怒っていないんだ?」

「どうしてって……」

「嫌なことを言ったから、傷ついたんじゃないのか?」

「そりゃ、楽しいことじゃないけど」

「じゃあ怒ったんだな」

「……怒って欲しいの?」

「悲しんでるよりはいい。やる気が出てくるだろ。あたしは周りにいるやつが悲しそうな顔をしているのは嫌だ。悲しい気持ちは伝染するから」

「ルウ……そんなつもりで……」


 マリアはこの自由奔放に見える少女の不器用な友情に、感動しそうになった。が。


「ああ、そんなつもりで言ったわけじゃないよ」あっさりと、悪びれもせずにルウは言い放った。「あたしは考えなしに話しすぎるって、いつもハルやじい様やみんなに叱られるんだ。もう少し相手の気持ちを考えろとか、状況を考えろとか、雰囲気を察しろとか。リサは叱りはしないけど、ため息つくし。後で反省するんだよな。ともかく、ごめん!」


 本題を思い出したルウは、謝罪相手に一言の発言の隙も与えずにそこまで言うと、上目遣いにマリアを見た。

「許す?」


「分かった、許す」

 彼女のマイペースには勝てそうにない。マリアは苦笑混じりに言った。


「良かった! じゃあこれは、和解の品だ。受け取れ」

 ルウは目を輝かせて、持ってきた植物を指差した。それからマリアの隣に腰を下ろして、一仕事終えたように体を伸ばす。


「うれしいわ。なんていうの?」

「アグロネマ。あたしが育てた中で、一番きれいな模様をつけたやつだ」

「ありがとう」


「いいよ、礼なんて」そう言って、ルウは初めて照れたような笑いを浮かべた。

「暗くて殺風景だから、木でも持っていってあげなさいって、リサが。それとも、部屋を移る? 高いところは好き? ここは涼しくて過ごしやすい部屋だけど、窓があれだけじゃ、つまらないだろ」

「気を遣わなくていいわ。十分よくしてもらってるもの。申し訳ないくらい」

「そうか。足りないものがあったら言えよ」


 ルウは得意げに言った。


「ハルはたいていのものは用意するぞ。あいつは交渉上手なんだ。この村にないものをいろいろ手に入れてくる」

 どこか得意そうに言う。兄のことを自慢する、小さな子供みたいだ。

 そのまま後ろに倒れてベッドに寝転んでしまったルウの様子に、思わず笑いがこぼれた。


 自分の兄のことを思い出した。乱暴なところはあるけれど、いい兄だと思う。歳が離れていないから、一緒に遊んで育った。頼りになんかしたことはなかった。

 でも、マリアが中学校に入ったころのことだ。友達と過ごすうちに、つい時間を忘れて帰宅が遅くなって、父と母に思いっ切り叱られた日。――遅くなるなら連絡ぐらいしろよ。迎えに行ってやるから――そう言われて、初めて、この人は年上の男で、自分を守ってくれようとしている存在なのだと意識した。


 みんな、どうなったんだろう。


(いけない)


 マリアは大きくひとつ頭を振った。少なくとも、ルウの前では悲しい顔をしないようにしよう。平気な顔をしている場所を作っておくことも、必要な気がした。でないと日がな一日、悲嘆にくれ、不安に押しつぶされて過ごさなければならなくなってしまう。

 できるだけ楽しいことを思い出そう。そう思って、記憶を探って、みんなの笑顔を思い浮かべる。

 これもいけない。ますます帰りたい気持ちにさせられる。


 もっと、事務的なことを――そう、たとえば家族の名前や、年齢、誕生日――兄は――お兄ちゃんは――。


(……?)

 マリアはふと、床を見つめて目を見張る。


 兄の名前はなんだったか――?


(まさか。そんなはず……家族の名前を忘れるなんて……?)

 こめかみの辺りに指を当てた。お兄ちゃんの名前は……。


 頭の中に、どんな文字も音も浮かび上がらない。おかしい。

 きっと、記憶が飛んでいるんだ。そう、自分を説得する。砂漠をさまよった夜の前と後とで、記憶に断絶があった。それからも、いろんなことがあった。だから、少しばかり混乱して――。


 隣でルウは、幸せそうに目を閉じている。

 本当に子供のようだ。

 比べる人間がいなかったから、漠然と同年代だと思っていたが、もしかしたらマリアより年下なのかもしれない。そう思って、

「ルウは、いくつなの?」

 聞くと、ルウは寝転がったまま顔だけこちらに向けた。不思議そうな顔をしている。


「いくつって、何が?」

「何がって、歳よ。私は十六歳。もうすぐ十七だけど」


 また、小さな違和感を感じる。

 もうすぐ十七歳――? いつ? あと何日で――?


「トシ?」 ルウは、初めて聞く言葉のようにそれを繰り返した。

 表現の違いだろうか。村の人々は、それを何と言うのだろう。

 一瞬前に自分の中に生まれた戸惑いをかき消すように、マリアは笑顔を作ってルウに説明する。


「自分が生まれてから、今までの時間の長さよ」


 硬いベッドに気持ちよさそうに寝転んでいた少女は、がばっと勢いよく体を起こした。

「マリア、そんなこと覚えてるの? すごい!」


 驚いたのはマリアのほうだ。自分の年齢を覚えていることで褒められたのは、物心ついて以来、初めてだ。


「知らないの?」

「だって、どうやって自分が生まれたときのことを覚えているんだ?」

「それは、周りの人が」

「数えるのか? 長かったぞ。雨季と冬が何度も何度もあった。誰かが一生懸命数えてたのか?」


 ハルの言葉を思い出した。

 ここの人間は、年を数えることをしない。

 こういうことだったのか。


 それでは本当に、今が何年なのか分からないのだろうか。

 再び不安に襲われるマリアの横で、ルウはしかし、別の感想を持ったようだった。

「マリアは本当に別の世界から来たのかなぁ。なんだかすごいなぁ」


 感心したような声を上げながら、再び横になるルウから、複雑な思いで目を離した。

 しばらくの間、沈黙が部屋に下りた。


 いくつもの不安や疑念が、力任せに心の中に侵攻し、どうにか平静を保とうとする心をかき回し、乱しては去っていった。胸が締め付られるように痛む。

 これからどうやって、何をしたらいいのか。何ひとつ、分からなかった。分かるための糸口でさえ、ハルに手伝ってもらわなければ見つけられないのだ。

 それでも自分は恵まれているのかもしれない。少なくとも、知らない世界に放り出されて一人で成す術もなく途方に暮れているわけではないのだから。ここにはハルがいて、ルウがいる。


 でも、向こうの世界には。家族がいて、友達が――。

 帰りを待っているかもしれない。待っていて欲しい。

 鼻の奥が熱くなって、こみ上げてくるものがあった。しかし、不思議と涙は出てこなかった。さっきハルの前であれだけ泣いたから? 枯れて乾いたこの世界では、涙さえも、無限に溢れ出てはこないのだろうか。


 ルウが持ってきた植物に目をやった。

 色のない世界に、一点だけ明るく緑色に浮かび上がっている。


 ぼんやりと眺めていたマリアの耳に、ぽつん、とひとつの音が落ちてきた。

 続けて流れ出す、旋律。聞こえてくる音はかすかなものだが、やわらかくて温かいものに体を包まれていくような気がした。


「ハルだ」眠ってしまったのかと思っていたルウが、横でつぶやく。


「ハル?」

「うん。ハルが弾いてるんだ。アレを弾けるのは、ハルだけだから」


 ルウはけだるげにそれだけ言うと、大きく寝返りを打って反対側を向いてしまった。

 言葉が切れると、再び闇を伝って届く遠い音に、部屋全体が浸された。


 初めて聞く音だった。

 音の一粒一粒が、何かとても大切なもののように優しく紡ぎだされ、乾いた空気を潤し、空に舞って、消える。

 静かに、空気を揺らして。形あるものすべてを包み、空間のすべてを満たし、動くものを休ませ、動かないものに降りそそいで、じっと聞き入るものの頬を撫でて。

 手にとって愛でるように、次々と生み出される音のすべてを聞き逃すまいとして耳を澄ますうち、いつの間にか深い眠りに落ちていた。

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