砂漠1 ―ヤマトの村―
「聞いた? 三組の女の子がナカニシに告白したらしいよ」
両肘をテーブルについて身を乗り出し、重大な秘密を打ち明けるような口ぶりでマイカが言った。制服姿の他の三人がいっせいに、「えー!」と声を上げる。
続けて「だれだれ?」と興味津々の様子で聞いたのは、ユイだ。
「キノシタさん。知ってる? バレー部の」
「えー! 美人じゃん、強敵出現!」
「それで? ナカニシ君はどうしたの?」
独特ののんびりした口調で、ナツミが聞く。両手で大事そうに持ったマグカップを、くるくると揺すりながら。
「OKしたって話は聞いてないけどね、まんざらでもなさそうだよお」
「きれいだものね、キノシタさん。頭もいいし」
「手ごわいな、どうする?」
ユイがいたずらっぽい調子で言うと、三人の目がいっせいにマリアに集中した。
――擦り切れるのではないかと思うほど何度も思い出した日常の一場面を、マリアはもう一度忠実に頭に思い描こうと、何度目かの努力をしていた。
硬い床に板のようなものと木の皮を延べ薄い布を被せた、申し訳程度のベッドの上。うずくまって。ぼんやりと、ひび割れた壁を眺めて。
目が覚めてから、どれくらいの時間がたっただろう。
あとどれくらい時間が経てば、この夢から覚めるのだろう。
いつまでじっと待っていればいいのだろうか。
静けさが、つきつきと肌を刺す。音を立てず身じろぎもせずにいると、静寂が肌を破って体内に侵入し、自分が空気に溶けてしまいそうな空恐ろしさを感じて、マリアはたまらずに体をかき抱く。
(ここは、知らない世界なんだ……)
もう一度、「日常」に思いを馳せる。
目を閉じて何度も振り返っているうちに、あの場所に戻れるような気がした。
ふと気づけば、変わらずコーヒーショップでカフェオレを飲んでいる自分。友人たちが不思議そうにマリアの顔を覗き込む。――どうしたの? ぼんやりして――ううん、なんでもないの。ちょっと夢を見ていたみたい――。
学校の帰り道のコーヒーショップには、毎日のように寄っていた。
駅近くのビルの二階。大きな窓があって、窓際にはいつも色とりどりの花が飾られていた。その窓際の席でカフェオレをすすりながら、暗くなるまで友達とおしゃべりに興じる。
寄り道はいちおう校則で禁じられていたけれど、店の客の半分くらいは、同じ制服を着た高校の生徒だった。
一緒にいる友達は決まっていた。気が強くておしゃべりなユイ、女の子らしくて繊細で、やさしいナツミ。それからマイカ。頭が良くて流行に敏感で、新しいものが大好きで。
同級生や教師の噂話。家族のこと。学校の成績や、将来の夢。恋について。
他愛もない内容だったけれど、話題は尽きなかった。
あの日――。
記憶に残る、たぶん最後の日。
その日も、日が暮れるころまで話して、真っ暗になる前には帰途に着いたはずだ。遅くなると母親が心配するから。駅前で三人と別れるのがお決まりのパターンだが、店を出てから後のその道のりを、どうしても思い出せない。
重いもので蓋をされてしまったように、あるいは霧がかかったように。そこで、思考が止まってしまう。
どこで友人たちと別れたのだろう。最後に何と言っただろう。
手を振った? 笑っていた?
電車に乗っただろうか。駅の中を歩いただろうか。
気づくと満月の砂漠を歩いていた、あの夜に記憶が飛んでいる。
まるで、突然別の世界に放り出されてしまったかのように。
異世界に移動した? そんな馬鹿な話があるはずがない。
しかし一方で。そんな馬鹿げた話を否定し切れない不安を感じていた。
次々とよみがえってくる記憶は、切って貼ったようにどこか不自然で、違和感があった。いったい私は。どうしてしまったのだろう。
あの夜――といっても、あれから丸一日も経っていない。
それは昨日の夜のこと。
自分がどこから来たのか、なんのために歩いているのかも分からず、月明かりを頼りに砂の大地をさまよっていた。何かから逃げていたような気がするが、それがなんだったのか覚えていない。
丘の上に小さな建物を見つけた時には、月はすでに少女の背後にまわっていた。
わずかに上辺が欠けたような、いびつな長方形の細長い建物は、そこに建っているというよりは、まるで砂の中から生えてきたように見えた。
まぼろしかもしれない。なぜかそう思った。
あまりにも砂漠に溶け込みすぎていたからかもしれない。砂の丘の稜線も、月明かりににじむ紺色の空も、視界の中で唯一人間の手によって造られたのであろうその建物も、まるで一枚の大きなキャンバスに描かれた絵のように、同質だった。
何時間も歩き続けて、やっとたどり着いた初めての人工物なのだ。そこにはもっと、圧倒的な存在感があるのが自然だと思えた。茫漠としていたここまでの時間にひとつの終止符を打つような、緊張感や、安心感や、感動があってしかるべきと感じた。
そんなものがまったくない。ただの、小さな建物。
それでも逡巡することはなかった。
失意とも期待ともつかない気持ちで、次の瞬間には、砂に足をとられながら斜面を駆け上っていた。
砂から突き出たコンクリートの壁は、褪せたような薄い緑色をしていた。
入り口というよりは、壁に無理やり穴を開けたように見える、胸の辺りの高さしかない低い入り口に手をかけて。息を殺して中を覗き込み、しばらく考えて、穴をくぐり中に足を踏み入れる。
つま先が、何かを蹴飛ばした。細長くて丸い。手のひらに収まる大きさ。ペンライトか何かだろうか。
手探りでスイッチらしいボタンを押すと、小さな光を放った。
静かだった。体にまとわりついていた砂が床に落ちる、ほんのかすかな音さえ聞こえる。
風から逃れたら途端に眠気に襲われ、いまさらのように足が痛み出した。
ペンライトの弱々しい灯りを上向かせ、息を殺して階段の上を覗き込む。意を決し、重い足を一段一段上へと運ぶ。
上階に顔を出したところで。床に投げ出された長いものに気づき、思わずペンライトの光をまともに向けてしまった。
人……?
倒れている。
動かない?
(人がいる)
男? 一人だけ。
闖入者に驚く様子もなく、ゆっくり手を顔の前にやって光から目をかばいながら、体を起こし。
「灯りを、消してくれないかな」
「あ、ごめんなさい」
それは、まだ少年と言っても良さそうな、若い男の声だった。彼の言葉を脳が勝手に処理したらしく、気づいたらそう言ってスイッチを切っていた。一方で、脳の他の一部分が突然の出来事を整理しようと忙しく動く。
彼の言葉を私は理解したのだ。少なくとも、この砂だらけの土地には、同じ言語を使用する人が住んでいるわけで、ここは、いったい……。
「ありがとう。きみは……?」
優しげな声で彼は言って、こちらを見ながら小さく首をかしげた。安全な人間だろうか。逃げるべきか。
だが、一度休めそうな場所を見つけてしまった足は、もうこの場所を離れてさらに遠くまで歩き続けることはできないくらいに重く、熱っぽいだるさを感じていた。
一生懸命情報を整理しようとしていた脳の一部分は、いつの間にか理解することを諦めて活動をやめていた。少女はそのまま、力尽きて崩れ落ちるように、冷たい床に座り込んでいた。
月明かりの中で、彼が初めて少しだけ驚いたような顔をしたのが分かった。
そこで、マリアは気を失ってしまったらしい。
喉の渇きを感じて目が覚めると、この場所に、横たわっていた。起き上がろうとすると体のあちこちが痛んで。慣れない砂の上を、一晩歩き続けたのだと。思い出した。
見たことのないほど、色彩に乏しい室内だった。
コンクリートの建物らしいが、壁も床もくすんで黄色がかった灰色で、壁に大きく取られた窓にはガラスさえはめ込まれておらず、カーテンのつもりか布がかすかに風に揺らされていた。
外から人の声が聞こえた気がした。一人ではない。何人かで談笑するような声だ。
遠くで動物の鳴き声のような低い音。
痛む足を引きずって窓に寄り、布をまくって外を見ると、窓の下の地面はやはり砂だった。一晩歩いてきた砂漠と違うのは、砂の地面がいくらも続かないところに向かいの建物が見えるところだ。
窓から顔を出して見上げる。向かいの建物は三階分の高さを持っていた。しかし、それにしては一階の窓の位置が低すぎる。半地下か、まるで半分砂に埋まっているように見えた。ひび割れた外壁は、こちらの建物もきっと同じなのだろう。
ここにどれだけ人が住んでいたとしても、おそらくこの建物――あるいは街は、その人たちのために作られたものではないのだろう、と。廃墟となった街に住み着いた人々。マリアは直感的にそう思った。
しばらく窓の外をうかがっていると、談笑がやみ、向かいの建物の影から人が出てきた。大柄な女性だ。三十代後半と予想する。マリアの知っている大人と、身体的な外見に大差はない。しかし、身なりは大きく違った。この部屋と同じ、色味の少ない粗末にさえ見える服。装飾品もない。
大きなかごを手に抱え、砂に足をとられることもなく進んでくる。こちらに向かってくるのだ。そう思ったところで、マリアとその女性は目が合った。
そこで女性は足を止め、「あらぁ」と拍子抜けするほど陽気な調子で声を上げる。
「目が覚めたのね。気分はどう?」
なんと答えていいのか分からず黙っていると、言葉が分からないとでも思ったのだろうか。
「今そっちへ行くわ、喉が渇いたでしょう」
身振りを交えてゆっくり言って、マリアの視界から姿を消した。
「ルウ? ルウー」
誰かを呼ぶような声が聞こえて。それから、コンクリートの床をこちらへ向かってくるような足音。
コップにいっぱいの水を一気に飲み干して、ここは一体どこなのか、とマリアは女性に尋ねた。
リサと名乗った女性は、相手が言葉を理解していることに安心した様子で、それでも聞かれていることの意味が分からないというように首をかしげた。
「ここは私たちの村よ。私たちはヤマトの一家。だからヤマトの村。私たちはそう呼んでいるわ」
それからリサは、硬いパンのような見たことのない食料、果物、着替えの服と、持っていたかごから魔法のように次々にいろいろなものを出しながら、鼻歌でも歌うように。
「砂漠を一人で歩いてきたんですって? 大変なことよ。あの辺りはめったに人も通らないし。夜の砂漠は寒いし、運が悪ければ毒虫に刺されるかもしれない。あんたは運が良かったわねえ。あの場所にたまたまハルがいなかったら、どうなってたか。あの子の『夜遊び』も役に立つのね。お礼を言っておきなさい」
夜の寒さを思って、改めて身震いがした。それに毒虫って……?
「ハル、さんって。あの男の人ですか? リサさんの、息子さん?」
「あの子」と言った親密そうな口ぶりから推測して聞くと、リサは可笑しそうに声を立てて笑った。
「違うわ。ハルはこの村の子よ」
窓から差し込む光が赤味を帯びてくるまで、マリアはベッドの上でじっと時間の過ぎるのを待っていた。
何人かが部屋に来た。大人はみんな楽しそうな、陽気な顔をしていて、快活に話した。着ているものが違う以外は、マリアと同じ、ごく平均的なニッポン人に見えた。
子供たちは入り口から様子をうかがい、マリアと目が合うと気まずそうな顔をして走って行ってしまった。
マリアと同じ年頃の若者は、姿を見せなかった。
皆、この少女が一体なぜ、どこから来たのかを知りたがった。知りたがっているというよりは、社交辞令的な質問だったのかもしれない。
そうして答えられないマリアに、一様にがっかりしたような、慰めるような、あるいは哀れむような様子で部屋を去っていく。
砂漠。廃墟。コンクリートの部屋。見たことのない服装の人々。ヤマトの村。
どれも現実味がない。
そうかといって、夢にしては手が込みすぎている。
だが、夢でないとしたら。
物語の中にでも、入り込んでしまったというのか。
もっとあり得ない。
混乱して。考えることに疲れて。
することもなく、リサが置いていった服に着替えた。見たこともない、と思ったのは、目の粗く色彩に乏しい布地のせいだったようだ。着てみると、マリアが着ていた服とそれほどの違いはない。鏡がなかったが、見下ろす限り不自然なところは何一つない。これを着て外に出たら、この村の人間に見えてもおかしくない。
それは、ずっと否定し続けている「異世界」に同化してしまうのではないかという危惧をはらんでもいて、反面、どうしていいのか分からない状況でありながら、とりあえずこの村にいることを許されたという安心感を与えるものでもあった。
(外に、出てみようか……)
マリアは床に足を下ろす。冷たい感触が足の裏に
一番端の部屋らしい。右手側には、室内と同じく剥き出しのコンクリートの廊下に、部屋らしい入り口がいくつか見えた。奥は、暗闇に消えている。
と――。階段を駆け下りてくる軽い足音。
思わず体を引っ込める。
わけもなく、その場にいてはいけないような気がして。重い足を引きずってベッドに戻り腰を下ろしたところに、勢いよくカーテンをめくって小柄な人影が飛び込んできた。
赤い髪が、暗くなってきた室内でも輝いて見える。
日に焼けた肌、大きな瞳、健康そうな笑顔。
マリアと同じくらいの年頃に見えるその少女は、気遣いという言葉などかけらもない元気いっぱいの声で、
「なんだ、起きてたのか」
そう叫ぶと、ずかずかと部屋に入り込み、マリアの前にまっすぐ歩み寄った。
「こんな暗い部屋で何やってんだ? みんなが元気ないって言ってたけど、大丈夫か? ずっとここにいたのか? 動けないのか? 腹が減ってるのか?」
あっけにとられるマリアの返事を待つこともなく一方的にまくし立てると、ふっと笑みを消し、顔を寄せて大きな瞳で覗き込む。
「どうしたんだよ。話すのもダメか?」
心配というよりは、不思議そうに開かれた丸い目。髪も瞳も薄い色をしているが、この少女もまた普通のニッポン人の容姿をしている。
そこまで見て取って、何か言わなければならないことに気づいた。
「あの……」
しかし何を言っていいのか分からず、言葉を濁す。と。せっかちそうな少女は、何かを納得したように、ああ、と頷いて、マリアの目の前から身を離した。
「あたしはルウ。そんなに警戒しなくてもいいよ。村の人間はオマエに危害は与えないから、安心しな。オマエは客だ」
「あの……それはどうも……」
堂々と言い切られて、思わず礼を言ってしまった。
「それでオマエ、名前は?」
「……マリア」
「マリア。ふうん。それで、どこから来たの?」
「それが……よく分からなくて」
「覚えていないのか? やっぱり頭を打ったのかな」
「違うの。あの、ニッポンの、トウキョウ、なんだけど」
「ニッポン? トウキョウ? 聞いたことあるような気がするけど、それってどこ? 近いの?」
よく動く彼女の瞳は、また不思議そうな表情を浮かべていた。
「それが分からないの。ここはどこなの?」
どうやら敵ではないようだ。そう判断し、ずっと抱えている疑問を、思い切って投げかけてみた。しかし、少女は不審そうに眉を寄せ、口を尖らせた。
「ここはヤマトの村だ。聞いてないのか?」
「だから……」
食い下がりかけて、やめた。昼から何回も聞かされた言葉だ。また、変な顔をされるのだ。そう思うと、小さな落胆を感じた。
しかし。ルウの次の言葉は、これまで会った人々とは違うものだった。
「オマエ、もしかして、シンジュクから来たのか?」
「え?」
昼間会った人々の口からは出てこなかった言葉に、マリアは顔を上げた。
その地名には、たしかに覚えがある。だが。
「違うな。そんなはずない」ルウは自分の言葉をすぐに否定した。「あの都市から出てくる人間なんていないもの。あそこは絶対に人を放さないし、受け入れもしない。恐ろしい街だって、みんな言ってる」
「その、シンジュクって、どんな街なの?」
心がざわざわと波立つのを感じて、急き込んで聞かずにはいられなかった。
ルウは、先ほどまでとは違うマリアの勢いに押されて、初めて一瞬だけたじろいだ様子を見せる。が、すぐに気を取り直したようにマリアに顔を近づけると。恐ろしい話をするように、声を低くした。
「壁に囲まれた、大きな地下都市だ。あたしらは近づいちゃいけないって、言われてる。怖い生き物が住んでるんだって」
大きな、地下都市……?
「まさか、だって……」
マリアの知っているシンジュクなら、そんな街ではあり得ない。知らないシンジュクが存在するとしたら。――ここはいったい?
愕然とするマリアを、ルウはしばらく考え込むように黙って見つめていた。
それから、慰めるようにマリアの肩に手を置いて。
「ねえ、ともかくハルに聞いてみようよ。ハルなら何か知っているかもしれない。あいつはシンジュクのこともよく知っているし……」
ルウの提案は、マリアに再び希望を与えるに十分なものだった。
「ハルって、ゆうべ砂漠で会った人? 私を助けてくれたって……」
すがるような目でルウを見上げると、少女の薄い色の瞳がうれしそうに輝いた。
「そうだよ。マリアのこと気にしてたけど、大事な商談があったからね、男たちと一緒に出かけてたんだ。アサカの村に行ってたのを、リサが――会っただろ? 彼女はあたしの母親だよ。マリアが目を覚ましたからちょっと行って来いって言うんで、あたしが呼びに行ったんだ。アサカの村は遠いけど、リュウを飛ばせばひとっ走りだ。連れて帰ってきたんだけど、ウラに捕まって話し出しちゃって……人気者なんだ。もうすぐ来ると思うけど?」
相手に理解できない単語が混ざっているのを気にも留めず、一息にそこまで言うと、ルウはいたずらを思いついた子供のようににやりと大きく口角を上げた。
「マリア、会いたいだろう」
「会いたい!」
「よし、行こう」
ルウはマリアの手を引いて立たせると、強引なほどの力で引っ張って走り出した。
その手が、望む答えに自分を導いてくれるのではないかという淡い期待を抱いて、マリアは足の痛みも忘れて走っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます