都市2 ―転入生―
学生事務センターは、いつでも空いている。
ここに用事のある生徒なんて、ほとんどいない。
それではここが実際なんのために存在するのか、それはユウキにも分からなかった。
学校棟の地階。廊下の突き当たりの薄暗い一角に、それはある。無愛想というよりは、感情はどこかに置き忘れてきてしまったのではないかと思うような無表情な事務員は、取っ付きがたいを通り越してむしろ不気味な感じさえする。
窓口で名前とIDと用件を伝えると、女性の事務員はユウキをじろりと一睨みし、「お待ちください」と棒読みに言って室内へ消えた。
たったそれだけの一言を、棒読みに言える技術が、逆に凄い。
「辛気臭え場所だなあ」
隣でシュウが、不快そうに言う。
シュウについて来てもらって正解だった。ここは、なんだか怖い。自分は決して怖がりなどではないと思っていたのだが。
「さっきの事務員。あれ、なんだよ。人間じゃないんじゃないの?」
「じゃあなんだよ」
「ロボットだ、ロボット。昔の映画に出てくるだろ」
「まさか……」
ユウキは映画で見た、人とほとんど変わらない姿で家事や仕事をこなすロボットを思い出した。文明の絶頂期ならともかく、この都市では聞いたこともない。
十分も待たされて、事務員は戻ってきた。
「明日の午後三時に、八四‐B地区三号棟三〇七号室のトキタ博士を訪ねてください」
「はい? 八四のBの?」
「八四‐B地区三号棟三〇七号室のトキタ博士です。作業の内容は、そこで指示されます」
事務員は、もうこれ以上はコミュニケーションを続けるつもりはないというように、ぴしゃりと言い切って、口を閉じてしまった。
気持ちが晴れないまま、すごすごと引き返す。
「よかったな、ユウキ。少なくともこれで、『事務センターに呼び出されて翌朝消える』ということはないわけだ」
「あ、当たり前だ。たかが遅刻が続いたくらいで……『作業の内容』って言っただろ。やっぱりただの奉仕作業だよ」
「だといいけどな……気を抜くなよ」
「なんかヘンなことにならないかって、期待してるだろ」
「心配してるんだ」
シュウの口調は、複雑だった。楽しみのないこの都市では、小さな変化や事件は娯楽の一つだ。ただ、噂が本当なら。それは「小さな事件」の範疇を超えている。そこまでは行かない、けれどもそれなりに、話として面白い罰を期待しているに違いない。
ともあれ、明日の三時になればはっきりするし、それまで分かることは何もないのだ。
重苦しい気持ちでユウキはため息をついた。
悪いことは重なるものだ。
用事を終えて外に出ようとすると、「雨」が降っていた。
乾燥した都市を潤し、塵埃を洗い流す、強制手段としての人工的な「雨」。
ゲートの向こうに見える広場の噴水は、水を噴き上げてはいなかったが、石造りの水槽にはすでにあふれ出しそうなほどに水がたまっているのが遠目にも分かった。タイル張りの地面は黒く濡れて、落ちてくる細かい雨滴が小さな波紋を無数に作り、雨でも光度を抑えられることのない照明を反射して、白く光っていた。
その中を、傘を広げ、あるいはレインコートを着込んで、生徒たちは三々五々に散って行く。
「何だよ、傘持ってないのか。午後二時二十分から『雨』だって、テレビで言ってたじゃないか」
ゲートの内側から恨めしげに眺めるユウキに、シュウは半ば呆れたように、半ば慰めるように言った。
「ああ、寝坊したんだもんな。どうせろくに見なかったんだろ、天気予定」
返す言葉もない。ユウキは恨みがましくシュウに、というよりシュウの持っている傘に目を向けた。
「シュウくん、いいもの持ってるじゃないか」下手に出てみる。
「当たり前だろ。まだハゲたくないからな」
「帰るんだったら、入れてってくれないかな」
「悪いなァ。おれ、カナとデートなんだ」
シュウはにやりと笑って、付き合い始めたばかりの恋人のようなデレデレした口調で妹の名前を出した。あえてそこには突っ込まず、ユウキは交渉を続ける。
「んじゃおれも、そのデートに参加させてくれないかな……なんて」
ピクリ、とシュウの耳が反応した。
まずい、と思ったときにはもう遅かった。こいつは妹のこととなると目の色が変わるのだ。振り返った友人は、
「何言ってんだよお前、バッカじゃねーの? 何でおれとカナのデートをじゃましようとしてるんだよ! は! もしかしてお前カナに気があんのか! 許さんぞ、おれの目の黒いうちは、お前みたいなペナルティー野郎にかわいい妹を渡すわけにはいかん! ただでさえお前のせいで待ち合わせに遅れそうなんだ。これ以上付き合ってはいられない!」
おれが気があるのはお前の傘だよ。などとも言えず、勢いに押されてつい宥めようとしてしまう。
「分かった、分かったから落ち着け。いいよ。おれは濡れながら帰るよ」
「おっと、おれとしたことが、ついムキになっちまった。悪いな、そういうことだから、じゃ、また明日な。遅刻するなよ」
シュウは突然怒りの表情を消して、さわやかに言うと、紺色の傘をぱさっと開いてゲートの外の短い階段を一気に駆け下りた。そこで止まって一度振り返り、
「濡れて帰るのはやめとけよ。四十分でやむから、そこで待ってるんだな」
そう言うと、呆気にとられる友人を取り残して、水を跳ね上げながら広場に駆け出していった。
(なんなんだよ、いったいー!)
理不尽な怒りが、遅れてやってきた。
(友達より妹が、そんなに大事なもんかね……)
ユウキは家族を知らない。ユウキだけでなく、この都市のほとんどの人間は、きょうだいのいるごく一部の子供を除いて家族を持っていない。血の繋がりや、家族と生活を共にするということが、どんなことなのか。よく分からない。分からないものだから、たぶん特別で、大事なんだろうな、と想像する。
実際に、映画やなんかで見る前時代の「家族」は、親密そうで、楽しげだ。その辺にありふれた、ちょっと近いだけの他人同士の関係より、家族という目に見える繋がりのほうが、確実で重要なものなのかもしれない。
羨ましいとか寂しいとか、自分もそんなものが欲しいとか。そういう気持ちにはならないけれど。
それにしても。この雨をどうするか。
居住区は近い。走って帰れば三、四分の距離だ。濡れたって風邪を引きはするまい。しかし、飲用水と水道、シャワー以外の水にはあまり触れないほうがいいと、都市に住む人間なら子供のときから知っている常識だった。
具体的に濡れるとどうなるのかは分からない。生物には有害な薬品を多量に含んでいるという話だ。服が濡れると色が変わるという噂もある。長く雨に当たると頭がハゲるとか、やけどするとか、遠い将来病気になるとか。都市伝説レベルの話は聞くが、とりあえず少し濡れるくらいではどこも変わるところはなかった。
それでも三時にはやむというから、あえて冷たい思いをすることもない。
三十分ほど図書館にでも寄ろうか、カフェテリアでコーヒーでも飲んで待とうか。
廊下を引き返そうとして、隣で同じように困り顔で雨の降る広場を見つめている女子生徒に気づいた。同時に彼女もこちらを見る。目が合った。
転入生だ。
傘を持っていない。ということは、彼女も今日の天気予定を知らなかったのだろうか。そういうのって、教えてもらえないんだろうか。地下都市で雨が降るなんて、普通、思わないもんな。ってことは、本当に過去の世界から来た人間なのか? この……何つったっけ、ユリちゃん? いや、マリちゃん?
「ああ、『エリちゃん』だ」
思わず口に出して、しまった、と口に手を当てた。気まずい呼びかけ方をしてしまった。シュウのヤロウ、変な紹介の仕方しやがって。その上彼女は、まだユウキのことも知らないだろう。
「ごめん、おれ……」
「知ってる。同じクラスの人でしょ」
慌てて言葉を繋ごうとするユウキをやんわりと制して、エリはふわりと微笑んだ。思ったより低めの、やわらかい声だ。
良かった、変なやつに声をかけられたとは、思われなかったらしい。
「ああ、おれはユウキ」
「さっきの人も。お友達でしょ。クラスでもずっと一緒にいたよね」
ほっとしたのもつかの間、あのやり取りを見られていたのか。シュウのヤロウ、やっぱり明日会ったらヘッドロックくらいお見舞いしてやろう。
「友達っていうかなんていうか。腐れ縁かな、ずっと同じクラスなんだ。けどなんか見捨てて帰りやがったし。悪友っての? カナちゃんって妹がいてさ、もうベタ惚れなんだ、自分の妹に。全然友達ガイがないってーか……」
バツの悪さをごまかそうと、つい早口になるユウキに、エリがまた笑いを向けた。
口角が、左右対称にきれいに上がる。同時に上下も対称に、目尻が下がる。エリの周りだけ、気温が一、二度高くなったような気がする。練習したってできない、完璧な笑顔だ。
しかし次の瞬間、そこに少しだけ寂しさが混じったように感じたのはユウキの先入観のせいだろうか。
「私にも。兄がいたわ。優しかった」
(過去形なんだ……)
友人の言葉がよみがえる。
――ちゃんと生きてんのかなぁ……。
なんと答えたものか考えて、返答の形に口を開いたままユウキの表情は固まった。
なんで過去形なの?
お兄さんはどうしたの?
目が覚めて、家族に会えたの?
世界が変わってて、びっくりした?
(……じゃなくて、えーっと……)
「虹だわ」
言葉を探しあぐねるユウキの前に、ぽつんとそんな言葉が落ちてきた。
「え?」と顔を上げると、噴水の上のほうに小さな虹が架かっている。
見通しの良いこの広場で雨を降らせれば、天井の照明の光が屈折して、必ず小さな虹ができる。都市の住人にとって虹は珍しいものではない。中空に浮かぶプリズムを美しいとは思うが、それは単なる光学現象で、驚いたり喜んだり見入ったり、声に出して存在を確認し合うものでさえない。
が。五十年前に生まれたというこの少女は、まっすぐに虹へと目を向けていた。かすかに頬に浮かぶ笑顔には、先ほど感じた寂しさはもう残っていなかった。
「好きなの? 虹が」
話の継穂をやっと見つけて軽い調子で聞くと、エリは薄茶色の目を驚いたように丸くしてユウキを振り返った。
「好きじゃないの?」
「いや、好きとか嫌いとか言うもんじゃなくてさ」
エリは理解できないという顔でかわいらしく首をかしげた。茶色い瞳にじっと正面から見つめられて、少しだけドギマギする。
「だって、珍しいもんじゃないだろ。雨が降れば普通に出てるし」
「そうなの」
なぜか、がっかりした様子のエリ。悪いことをしたような気分になって、取り繕うように、「でも、きれいだよな」と言うと、エリはまたにっこり笑った。
「そうね。雨のたびに見られるんだから、いいと思う。私が生まれた時代では、虹って珍しいものだったわ」
世間話のような調子でいう少女。だが、ユウキの耳には「私が生まれた時代」というところが引っかかっていた。今の今まで、彼女が本当に二〇四九年生まれということを信じていなかったのかもしれない。いや、信じて、知識としては納得しても、現実味がわかない。
「雨が、多かったんじゃないの?」
「うん。雨はたくさん降ったわ。でも、雨が降る日は曇っていて、こんなに明るい雨の日は珍しいの。だから虹が出るのは特別なことで、見ることができると嬉しかったり、いいことがあるかもって思ったりするの。あ、でも、もっと大きな虹よ。空の端から端まで架かるような」
饒舌に語る前時代生まれのクラスメイトを、不思議な思いでユウキは見ていた。現代っ子のユウキには、天気にそんなバリエーションがあるということからしてまず理解できない。
ふと、テレビで見た古い映画を思い出す。そういえば、天気の話は昔の世間話の代表格だ。老若男女、相手を問わずに会話を繋げられる便利な話題。この地下都市ではありえない。
「今日は乾燥してますね」「今日も乾燥してますね」「今日は特別乾燥してますね」「明日も乾燥が続くようですよ」……ひと月に何度かは、雨の話題があるかもしれないが、翌日には元に戻る。「昨日は雨だったのに、乾くのが早いですね」
もっとも、そんな風に話題を探してまで会話を続けたい相手というのがそもそもいない。他人に関心を持つことの少ないこの社会では。
雨の中を、広場の向こうから噴水を迂回して二人乗りのミニソーラーカーが近づいてきた。
このあたりで車を見るのは珍しい。と思っていると、車は水をはねる音だけを立てながらどんどんこちらに向かってきて、するりと階段の下に止まった。
「やっと来たわ」
隣でエリがつぶやいた。
(え……車でお迎え……?)
てっきり雨の予定を知らずに傘を忘れた仲間だと思っていたのに。
(結局、取り残されるのはおれだけなわけね)
裏切られた気分のユウキに、エリは完璧な笑顔を向けた。
「じゃあね、ユウキくん。ごめんなさい、先に帰るわ」
「はあ、……気をつけて」
力なく手を上げると、エリも手を振り返し、「また明日」と言ってひらりと階段を下りていき、雨に濡れることなく横付けされた車に乗り込んだ。
すっかりひと気のなくなった校舎に一人で取り残され、ユウキはぼんやりと考えていた。
そういえば、エリはどうしてコールドスリープに入ったのだろう。
なぜだか、心をざわめかせる違和感のようなものを感じていた。
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