第16話 ロックスター

1993年10月。


海を渡った去年の9月から早くも1年以上が経った。

日本のうつろう季節はいつもいたずらで、冬の兆しを含んだ微かな陽射しに、人は心をたゆたわせる。


ヒサは南海電車の中でつり革を握っていた。RIKIに会いに行くためだ。日本に帰国してからRIKIと会うのは、これが初めてになる。8ヶ月前、帰国の時にアメリカでRIKIから名刺を貰ったが、そこに書かれた電話番号に連絡するなど畏れ多くて、とてもできることではなかった。


きっかけはいつだってナオミが連れてくる。


***


「ヒサにだってさ」


ユミコがヒサに電話を手渡す。帰国してからというもの、ヒサは週の半分、ユミコの家に泊まっていた。半同棲生活のようだった。それを知っていて、ユミコの家にヒサ宛の電話をかけてくるということは、電話の相手はあの人しかいない。


「もしもしナオミさん。こないだはありがとうございました。おかげでまたCats In Bootsキャッツ・イン・ブーツ聴き出しましたよ」


「はは。それは良かった。SLUMLORDSスラムローズ(*1)付き合ってくれてありがとね」


ヒサが2月に日本に帰国してからも、月に何度かナオミと遊びに行く関係が続いていた。主にバンドのライブだ。先週もナオミに連れられ、SLUMLORDSスラムローズのライブに行ってきた。


「いやいや、こっちがですよ。おれも大橋さんのライブ見てみたかったんで」


「ほんと大阪でライブしてくれてラッキーだったね。あ、実はね、今日はもっといいお話があるんだな」


「おっと、それは気になります。ナオミさんがタメて言う時は、間違いないですもん」


そして実際に間違いなかった。


「実はなんと、RIKIちゃんが大阪に来てます」


「嗚呼」


「そして、なんと」


「はい」


「ヒサちゃんに会いたいってさ」


「勘弁してください」


ヒサは思わずその場にしゃがみ込み、嬉しさのあまり泣きたくなる境地に至った。怪訝そうな顔で寄ってきたユミコに、ヒサは何度もウンウンと頷き、親指を立ててみせるが、ユミコにはそれが何を表しているかさっぱり理解できない。


「えっとねー、明日の夜7時にサウスタワーホテル(*2)だってさ。どうする?勘弁しとく?」


「いや、勘弁するわけないでしょ?誰がこの機会に勘弁するんですか。行くに決まってるでしょ。そりゃ絶対行くに決まってるでしょ」


「あはは、その感じ懐かしいわ。じゃあ明日ね。私も仕事終わったらすぐ向かうから」


自分を誘ってくれた感謝の気持ちをRIKIへ直接伝えたかったが、アメリカでもらったRIKIの名刺に書かれている番号はもちろん関東の家の電話番号だ。RIKIが大阪にいるなら、直接連絡する手段は無い。とにかく明日の夜7時にサウスタワーホテルだ。明日の夜7時にサウスタワーホテル、明日の夜7時にサウスタワーホテル、明日の夜7時にサウスタワーホテル。忘れようとしても忘れられないだろうが、それでもヒサは何度も頭の中で反復した。


***


南海電車が堺駅を過ぎる頃、缶ビールを突然差し出してきたデイビッドのことを思い出し、笑いがこぼれる。デイビッドとサム&デイブに遊びに行かなかったら、ナオミとの出会いもなく、当然ミヤコとの出会いもなく、当然RIKIとの出会いもなく、当然今日は無かった。そしてデイビッドと遊びに行く場所がサム&デイブになったのは、ガールネーションが夜遊びをヒサに教えたからだ。ハードロックカフェでソフィーをナンパしたところから全てが始まり、今日に繋がっている。思い返せば、嘘みたいだ。感慨に浸るのも束の間、電車は終点の駅に着いた。南海電車は難波駅のすぐ近くではスピードが落ちてゆっくりになる。それが今夜の始まりをわざと焦(じ)らしているように、ヒサには思えた。


南海難波駅の隣にサウスタワーホテルがある。電車を降りてすぐ、あっという間に着いてしまうが、入り口付近の様子が何やら騒がしい。若い女性が集まって人だかりを作っている。ホテルで何か特別なことでもあるのだろうか。普段なら気にかかるところだが、ヒサは、RIKIとの再会を前にして緊張と期待で頭がいっぱいだった。人混みをかき分けロビーに入る。ロビーの椅子に腰をかけようにも落ち着かず、しばらく立ったままでRIKIの到着を待つ。緊張がピークを迎える夜7時、あたりを見回すがRIKIらしき人影はない。というより、入り口の群衆がロビーにも侵入してきており、RIKIが現れていたとしても見つけにくい状況だ。


10分待ってもRIKIは現れない。ナオミとの電話で時間を聞き間違えたか。いや、それともロビーに押し寄せる人だかりのせいでお互いに相手を見つけられず、部屋に戻ってしまったか。ヒサはフロントでRIKIとのアポがあることを告げた。フロントの女性はてきぱきと名簿を指でなぞり、おそらくRIKIの名前を見つけたのだろう、部屋番号を確認し電話をかけた。手短に話を終えると、受話器を下ろし、こちらで少々お待ちください、とヒサに伝えた。


フロントのそばに立っていると、しばらくしてRIKIが現れた。


「久しぶりじゃん。元気してたの?」


「は、はい。お久しぶりです」


「まだ、ちょっと早いなー。とりあえず部屋行こうか」


RIKIは右腕にはめた時計を見て、そう言うと、エレベーターの方向へ歩き出した。最後に会ってから、8ヶ月の時を越え、9200kmの距離を越えた場所で、ヒサはRIKIとの再会を果たした。


「わざわざ降りて来て頂いてすみません。言ってくれれば部屋まで直接行ったんですけど」


「誘ったの俺じゃん」


何マル何号室とだけ伝えればいいにもかかわらず、わざわざ一度降りて自分を迎えに来てくれたことに恐縮と嬉しさがこみ上げる。


RIKIの部屋では点けっぱなしにされたテレビが阪神の試合を中継していた。自然と野球の話を世間話程度に軽く交わす。RIKIは巨人ファンで、ヒサは阪神ファンだったが、この日に限っては、もちろんヒサも巨人ファンだった。


「よし、そろそろ飯でも食いに行こうか」


RIKIとヒサは再びエレベーターに乗る。


「そういえば、ヒサちゃん向こうで最後に話した時、またアメリカに戻るって言ってたよね。金は順調に貯まってんの?」


「そこそこは貯まりました。帰ってすぐにバイト始めたんで」


「へえ、いいじゃん。何のバイト?」


「クーラー組み立てる仕事です。流れ作業の一角でずっと同じ作業するんで、正直きついです」


「そりゃ、大変な仕事だね。まだしばらくは続けるの?」


「お金は貯まってきたんで、そろそろ時期見てやめるつもりです」


「ってことはあれだ。そろそろ戻るの?アメリカ」


「いや、それが」


ヒサは言葉を詰まらせた。


「どしたの?」


「えっと」


「なんだよー。言ってみなよ」


「付き合ってる彼女がいるんですけど」


「ああ、ナオミの後輩だっけ?」


「はい」


「はっはっは。分かったわ。さては、ロックより女に流されたんじゃねーの?もう!二度と遠い外国になんて行かないで!私だけを見て!おう、当たりめえだ。お前を捨ててまでやる音楽に意味なんかねえよ。ったく、ヒサもギタリストの前に、まずは一人の男だってことだねー」


RIKIは一人芝居でヒサをからかうが、これが図星だった。


「はい……。ぶっちゃけ、女に流されてます」


二人は身をよじって爆笑した。

ユミコはこれまでにヒサが付き合った誰よりも素敵な女性だった。昼間は不動産関係の会社で事務の仕事をし、アフターファイブに新地でホステスをこなす。そんな忙しい中にあっても、隙間時間を見つけては宅権やインテリアコーディネーターの資格の勉強に励んでいた。ヒサが「何でそこまで頑張るの?」と聞いたとき、ユミコは「ヒサが毎日夢中で音楽をやるように、私も何か頑張ってみたいから」と答えた。女性としての魅力だけではなく、人間としての魅力も兼ね備えたユミコにヒサはぞっこんだった。週の半分をユミコと過ごす同棲生活は居心地がよく、この生活を手放したくはなかった。


「ナオミから聞いてるよー。その彼女、まだナオミと一緒に新地でホステスやってるらしいじゃん。たまにはいい男が店に来るかもねー」


RIKIは悪戯っぽい目でヒサを見る。


「そこんところ、ヒサは心配じゃないの?」


二人はホテルを出る。入り口付近の混雑は解消されたようだ。


「そりゃ、心配ですよ。でも彼女もそれ分かってて、毎日帰ってから電話くれるんです」


「今どき毎晩律儀に電話かよー。たく、スケベな女だぜ」


RIKIなりの褒め言葉だった。RIKIはふと思い出したように本題に戻る。


「そうか。じゃあ本当にもうアメリカあっちには戻らねーの?」


「春くらいまでは、全然戻るつもりだったんですけど。それと、夏に日本でバンド組んだんですよ」


「へえ、こっちでバンド組んだんだ。そっかー」


本当のことを言うと、もう一つ理由があった。それはグランジが幅を利かせる今のアメリカのロックシーン(*3)だったのだが、それについてヒサは何も言わなかった。それをRIKIに言うのは失礼な気がしたからだ。


そして、一方でヒサには気になることがあった。10年ぶりに日本に帰ってきたというのに、日本のロックシーンでRIKIの名前は聞こえてこない。バンド結成の情報も、ライブ出演の情報もない。これは音楽活動休止と言ってもいい状況だ。このことについても、ヒサは触れなかった。帰国の時、理由を聞かなかったこともそうだが、ヒサは音楽の話をはじめとして、核心に迫る質問は避けてきた。当時は、それがヒサなりの礼儀のつもりだったが、後に少し後悔する。もっと踏み込んで、音楽の話をしても良かったのかもしれない。


本当は、いつもRIKIに聞きたいことはたくさんあった。ハードロックの凋落と盛り上がるグランジブームをどう思っていたのか。カート・コベイン(*4)という黒船はRIKIの瞳にどう映っていたのか。

グランジの根本的な思想には、ハードロックに対するアンチテーゼが含まれている。ライトハンドと呼ばれるタッピングプレイで魅せたエディ・ヴァン・ヘイレンや速弾きの神と呼ばれたイングヴェイ・マルムスティーン以降のテクニック至上主義に走るギターは、まるでスポーツのようだと揶揄された。小手先の技術ばかり競い合って、肝心の中身はどうなってるんだ。難しいことなんかやらなくたって俺たちの魂込めたロックかっこいいだろ?長髪を斬った、そのアンチな思想に、ヒサ自身も心打たれるものを感じていなかったと言えば嘘になる。

ただそれでも、ヒサは純粋に、ハードロックが好きだった。


気が付くと、目の前に懐かしいお店が現れた。ハードロックカフェ大阪だ。RIKIに連れられて、着いたお店は、ハードロッカーにとってのドリームレストランだった。いかにもRIKIらしいお店のチョイスがヒサは嬉しかった。RIKIはヒサの知っているRIKIのままだった。そして、この場所は、タカシと二人でブロンドの女をナンパした全ての始まりの場所でもある。


「やっぱここでしょ」


RIKIがそう言ってヒサの少し前を歩く。先に見据える看板は変わらない。黄色く塗られた丸いロゴ


「こんなに人が集まってるなんて、変ですね」


ヒサは店の様子がいつもと違うことに気がついた。


店の周りに大勢の若い男女が群れをなして、騒がしい。なぜ店内に入らないのだろうか?人混みをかき分け店に入ろうとするも、何人かの警備員と店員がロープを持って人が入れないように抑えている。一体どうしたというのか。すると、RIKIが、店員に「俺だよ、俺」と親指で自らの顔を指し示した。店員は慌ててロープを上に持ち上げた。


「こちらです。どうぞ」


店員は二人を店内へと誘導する。


こんな経験は初めてだ。一体、何がどうしたというのだ。

そういえばホテルも騒がしかったな。

店員はRIKIとヒサを奥のテーブルへと案内すると、軽く一礼して外の持ち場へと戻った。


案内されたテーブルには一人の外国人が先に腰をかけている。


"Hey,RIKI"



その時、地球がブレた。



____________________

(*1)SLUMLORDSスラムローズ…日本を代表するヘビーメタルバンド・聖飢魔IIのギタリスト・ジェイル大橋が、聖飢魔IIの解散後、アメリカで結成したハードロックバンド・Cats In Bootsキャッツ・イン・ブーツを経て、次に結成したバンド。

(*2)サウスタワーホテル…現在の「スイスホテル南海大阪」のこと。南海難波駅の隣にあるミナミを代表するホテルだ。この時代はサウスタワーホテルという名称だった。

(*3)アメリカのロックシーン…1993年、当時日本ではアメリカほどのグランジブームはまだ上陸しておらず、ハードロックがまだ人気を誇っていた。

(*4)カート・コベイン…日本ではカート・コバーンの名称で親しまれているが、アメリカではコベインと発音されている。本作では、当時ヒサが馴染んでいた呼び方であるカート・コベインと表記している。

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