第15話 二人の帰国
「おい、日本に帰るってどういうことだよ」
ジェイスの怒号が飛んだ。
「ちょっと下のスーパーで飲み物でも買ってこようか」
シリアスなムードに気後れしたのか、サトウは部屋を出て行った。
ここはヒサとサトウが住むシェアハウス。ジェイスとヒサの2人だけが残された。
「すぐまた戻ってくるよ」
「あの野郎、もう戻ってこなくていいぜ。酒ならここにあんだろ」
「や、サトウさんのことじゃなくて」
「え?」
「おれのことだよ。日本に一回帰るけど、すぐにお金貯めてまた戻ってくるから」
ヒサは興奮気味のジェイスを落ち着かせるようゆっくりと言った。
ジェイスは不満を表すように大げさな手振りでビール瓶の栓をあける。
アメリカに来て半年が経ち、ヒサの貯金はすでに底をついていた。食費こそ極限まで削ったものの、人と会えば酒や煙草、音楽をやれば機材や楽器周りの諸々にお金がかかる。日本で1年かけて貯めた100万を超える軍資金はあっという間に溶けた。もうここにはいられない。ヒサはもう一度日本で働いて、お金を作るつもりだった。
「ヒサとやるセッション、すげー気持ちよかったんだ。だけどよ、ヒサが日本に帰るからって、それを昔話にするにするつもりはねえ。俺は今からお前を本気で口説こうと思う」
ヒサは戸惑いを隠せない。
ジェイスはハリウッドで活動するハードロックバンド・フィップスナックのボーカルだ。ジェイスとヒサはルームメイトのサトウ繋がりで知り合い、意気投合。セッションを重ねた。セッションはいつもジェイスの家で行うため(*1)、このシェアハウスに来ることは滅多に無かったが、ヒサが帰国するという知らせが耳に入ると、電話もかけずに家まで押しかけてきた。
どうしてジェイスがこんなに熱くなっているんだ?
「金が無いならよ。俺ん家住めよ。そうすりゃあ、家賃ゼロだろ」
「急にどうしたの。クールなジェイスが今日はらしくないじゃないか。急にそんなこと言われてもびっくりするだろ」
「俺はヒサのギターがマジで好きなんだ。ただカッコイイ音を鳴らせるってだけじゃない。技術があるじゃん。速弾きだって指が何本あるか分かんないくらいだし」
「なんか今日はすごい褒められてる?」
「アドリブもすげーいいの弾くし。前にヒサ、金があったら
「うん。さすがに学費が高過ぎて無理だけど」
「お前ならそこで講師ができるぜ」
「まさか。冗談よせよ」
ジェイスがまさかこれほど自分を評価しているとは、ヒサは全く思っていなかった。テーブルには空いた瓶や缶が散らばっている。ほとんどジェイスの仕業だ。
「ところでヒサ、犬は大丈夫か?」
「ん?大丈夫も何も、おれ犬は大好きだけど?」
「よし、じゃあ俺ん家に来い。これはフィップスナックのフロントマンとして言う。うちのバンドに入ってくれ」
「ジェイスのバンドにおれが?」
ジェイスはもう一缶、ビールを飲み干した。そして、また缶ビールに手を伸ばす。それはまだフタが開けられていないヒサのビールだ。ジェイスはその缶ビールを握りしめ、ジッと見つめた。
「なあヒサ。お前の分、半分もらうぜ」
そう言って、フタを開け、口をつけると、中身を半分ほど残し、ヒサの前にドンと置いた。お酒の力を借りたかったのかもしれない。ジェイスはロックバンドのボーカルらしい言葉をヒサにぶつけた。
"You are my dream"
ジェイスの熱いパッションを前に、ヒサは高ぶる感情を必死で抑える。普段はあまり感情をストレートに表現しないジェイスが、今日は酒の力を借りてまで真剣な思いを語っている。ジェイスとセッションを重ねた日々が蘇る。ヒサがアドリブを繰り出す渾身のギターソロ、それに応酬するかのようなジェイスのハイトーンボイス。一緒に鳴らした轟音が頭の中をめまぐるしく駆け巡る。いつだったか、大阪の私鉄でイギリス人と出会った時のように、目の前の缶ビールを飲んでやろうと思った。ただ、明後日の飛行機で日本に帰る予定は変えられそうにない。
煙草臭い部屋に沈黙が降りる。ジェイスとヒサに忘れられた煙が2本、気まずそうに絡み合っている。
意を決したヒサは、ジェイスの目を真っ直ぐ見て答えた。
”I’ll be back here soon,then give me left beer. ”
ヒサは缶ビールをジェイスの方へ押し返した。
ジェイスは、ヒサの手元に置いたビールにもう一度手を伸ばし、残りのアルコールを、言い足りない言葉と一緒に飲み干した。
「ああ、分かった。その時はフィップスナックの仲間として乾杯しようぜ」
ジェイスは口元を手の甲で拭い、ニカっと白い歯を見せた。
***
缶ビールを手に取ると、ヒサは握りしめた一枚の名刺を見つめていた。
ここは太平洋の上空、日本へ帰る飛行機の中である。ヒサが見つめる名刺は、最後にRIKIに会った時、もうすぐ日本に帰ることを告げたヒサにRIKIが渡したものだった。
「ヒサちゃん何日に帰るのー?あーそうなんだ。じゃあ俺の方が2週間早く帰るってことかー」
ヒサはRIKIが何を言っているのか分からなかった。
「日本に帰るってどういう意味ですか」
「どういう意味ってそのままの意味だよな。こっちで10年やってきたけど、俺もそろそろ帰るわ」
ヒサは深く聞くことはしなかった。RIKIは十分過ぎるほど輝かしい功績を残した。もうアメリカでやりたいことはやり尽くしたのかもしれない。ちょうど10年という節目の数字が何かを決断させたのかもしれない。それとも日本に何か目的があるのかもしれない。その理由はよく分からない。ただ、時代的な背景が一番大きかったのではないだろうか。
ハードロックは、1980年台のアメリカのロックシーンを席巻したが、人気は永遠には続かなかった。ヒサが大学を卒業した頃から、ハードロックの人気を脅かすグランジと呼ばれるジャンルがロックシーンに台頭してきたのだ。例えば、NIRVANA(*3)がその代表格だ。グランジの王者NIRVANAの後ろにStone Temple PilotsやAlice in Chainsが続く。彼らの人気はとどまる所を知らない。ハードロックを駆逐するのも時間の問題と思われた。
NIRVANAを筆頭とするグランジブームの到来、すなわちハードロックの凋落を象徴するような出来事がヒサの身近でも起こっていた。ヒサが過ごした半年間の間に、ハリウッドの街のハードロック専門のライブハウスがいくつか潰れたのだ。そんな悲しい現実を、ヒサを含め当時ハリウッドで活動していたハードロッカーは皆、目の当たりにしていた。RIKIとて、いやRIKIこそ、ハードロックの一つの時代の終焉に、埋めようのない寂しさを抱いているだろう。もちろん、RIKIの胸の内は分からないが、そのことだけはヒサにもたやすく想像できた。胸の奥が少し痛んだ。
「これ日本の連絡先(*4)だから」
そう言ってRIKIが渡した名刺を、ヒサは帰りの機内でぼんやり眺めていた。表裏で日本語と英語に分かれているところが、いかにもRIKIらしい。10年間、アメリカでハードロックを貫いたRIKIと全く同じタイミングで自分が帰国することに、偶然を感じつつ、そして少しの誇らしさも感じつつ、ふと窓に目をやる。外は真っ暗だ。真っ暗すぎて、窓に自分の顔が反射する。くっきりと映った自分と目を合わせるのは、どこか気恥ずかしくなり、窓の外、機体の翼の先に点滅するオレンジの灯りに目の焦点を合わせる。規則的については消え、ついては消える丸い灯りを見ていると、少し眠くなってくる。ヒサは備え付けの安っぽいヘッドホンを外した。機内には大勢の人がいるにもかかわらず、数人の小さないびき以外に音はない。しんとしている。耳を澄ますと、飛行機特有のボーという途切れることのない小さな音が母のような安心感を与えてくれる。永遠とも思える静寂の中、ヒサは目を閉じた。
***
1993年2月、二人のギタリストがアメリカを去った。
__________________
(*1)セッションは家で行う…当時、一般の家であってもスタジオと変わりなくアンプで音を出すことが出来た。ハードロックの都・ハリウッドでは、音楽が街のいたるところから聴こえているのが自然だった。
(*2)MI…Musicians Instituteは世界的に有名な音楽専門学校。中でも、GIT(ギター科)は特に有名で多数のプロギタリストを輩出している。日本にも姉妹校MI Japanが存在。
(*3)
(*4)日本の連絡先…1993年当時、まだ固定電話が基本だったため、アメリカにいる時と日本にいる時では電話番号がそれぞれ違う。
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