第14話 Dear タバサ

「また連れてってやるよ」


犬の散歩から帰ってきたヒサは、首からリードを外し、結果的には優しい嘘になってしまうその言葉を、それでもその時は本心で呟いた。犬の名前はタバサ。ハリウッド映画『奥様は魔女』に登場する女の子から付けられた名前だ。タバサの背中をポンポンと軽く叩くと、いつものように部屋の中をウロウロと歩き始める。ヒサがスラッシュの家に居候を始めてから2週間が経った。タダで住まわせてもらったうえ、時にはご飯までご馳走してくれるお父さんに、有り難い気持ちでいっぱいだったヒサは何か手伝えることがないかと探した。それがタバサの散歩だったのだ。ミュージシャンには猫派が多い。そんな中でも、珍しく犬派だったヒサは、時間を見つけてはタバサを散歩に連れて行った。


すっかりタバサも懐いた頃だったが、RIKIのパーティーで知り合った日本人サトウとのルームシェアの話がまとまり、二日後にはスラッシュの家から引っ越すことが決まった。そして、今日はスラッシュの家にスペシャルゲストがやって来ることになっていた。ナオミだ。


ナオミが久しぶりにハリウッドにやって来る理由はユミコにある。ユミコがヒサに会いに行こうと休みを取ると、ナオミが「それなら私も一緒に行く」と言い出した。ナオミが言うには、ユミコを一人で外国に行かせるなんて心配で夜も眠れないとのことだが、ユミコが言うには、ナオミも、自分だけ置いて皆が楽しんでいるのは少しアレらしい。二人は休みをとってアメリカへ飛んだ。


ナオミの方はアメリカに1週間は滞在できるくらい長期で休みを取ったが、ユミコの方は2日間の滞在がやっとという程度しか休みが取れなかった。新地のホステスは融通が利いたが、昼間メインで働いている不動産会社の事務の方は簡単に休める職場ではなかったからだ。ナオミはユミコがヒサと二人きりで2日間を過ごせるよう気をつかって、真っ直ぐスラッシュの家には来なかった。そして昨日、2日間の滞在を終えたユミコが日本に帰国し、今日はナオミがスラッシュの家にやって来る番だ。もちろん、かつてのホステス仲間であるミヤコとエミもナオミに会うためスラッシュの家にやって来る。ヒサはナオミと会うのは1ヶ月ぶりくらいのものだが、ハリウッドに来てから刺激だらけの目まぐるしい日々を送っていたせいで、体感としては1年ぶりに会うような懐かしい気がした。


***


「うう、タバサ、会いたかったよ」


尻尾を振ってナオミの足元をぐるぐると回るタバサをナオミはくしゃくしゃに撫でてやった。タバサは食べ物でも欲しがるように首を上下に動かしている。感動の再会なんだな、とヒサは思った。しかし、女心は秋の空だ。ナオミは立ち上がると語気を強めてヒサに聞く。


「タバサはこんなに歓迎してるっていうのに、あいつは一体何してるの?」


さっきまでの可愛い声のトーンは何だったのだろう。


「スラッシュならいつも帰ってくるの遅いですけど。バンドの練習じゃないですか?いつもギター持ってってるし、あんまり家にいることないですよ」


ヒサはそう答えると、ナオミに構ってほしそうに鳴くタバサにジャーキーを投げた。タバサは喜んで飛びつく。


「久しぶりに昔の恋人が帰ってくるんだよ。普通は待ってるものじゃない?もういい。知らないわ」


不機嫌そうに見せるナオミだったが、昔の仕事仲間であるミヤコとエミ、そして最近になってミナミで出会ったヒサと一緒に会うのは初めてのことで、本心は隠しきれていないようだった。つまり、照れていた。


スラッシュの家のリビングに役者が揃った。

宴は進み、夜も深くなる。


「ナオミからしたら、どんな感じなの?」


指についたピザのトマトソースを拭けるものを探しながら、ミヤコが聞いた。


「なんて言うんだろうね。なんか懐かしさと新しさが同時にやって来るみたいな感じ?」


両手の小指だけでテーブルの上を引っ掻き回すミヤコにおしぼりを渡し、ナオミは答える。


「ナオミさんに戻ってきてほしいな。またお店一緒に盛り上げたいです。ヒサちゃんも喜ぶと思うし。ね?」


すっかり顔が赤く染まったヒサを見て、エミが言った。


「あ、なんの話ですか?」


ヒサは飲み過ぎていた。酔いを覚まそうとコップの水を流し込む。


「ちょっと酔っただけじゃないですか」


ヒサは自分の方を見てクスクスと笑っているミヤコに、ぼそっと反発する。


一方、ミヤコはニヤニヤ笑ってヒサの方をじっと見ているだけだ。何を笑われているか分からず、ヒサは今日のシャツを確認する。無地の白シャツだ。おかしくなんかない。


「あんた、ちゃっかり男の横に座るのね」


ミヤコがにやりと笑って言った。ミヤコはヒサというより、ヒサの横に座るタバサを見ていたのだ。


”あんた”という代名詞がメス犬のタバサを指していると分かり、女だらけのこの部屋で唯一の男であるヒサの隣にタバサが可愛らしく腰を下ろしていることに皆が気づくと、リビングが湧いた。


「そうだよね。タバサも女だもんね」


ナオミは理解を示したように、そう呟いた。


「ナオミさんの今の言葉、説得力ハンパじゃないです」


「なに?もう一回言ってみな。この、この」


ナオミはヒサが座るソファーに襲いかかった。テーブルの上のグラスが倒れ、タバサも逃げ出す。


ハリウッドにやって来て、毎日が刺激に溢れて、色んなミュージシャンと飽きるまでセッションを重ねて、来週もパーティーでRIKIと会えることが決まっていて、日本からユミコが会いに来てくれて、今日はナオミがやって来た。

この楽しい時間が少しでも長く続けば、もうそれでいいかな。

ヒサは、この時そう思った。


***


いつの間にか、リビングがあるこの部屋には、ヒサ一人が残っていた。正確にはヒサとタバサの二人だ。他の皆はベッドのある部屋で先に眠りについたようだ。暖かったリビングが夜中になって、ほんのり冷たさを帯びてきた。テーブルの上には、テキーラの空き瓶や、飲み残しのグラス。積み上げられたお皿と、煙草と灰皿。散らかったままの風景が、どうしてだろう、寂しい。


こんな夜は無性にギターが弾きたくなる。もう皆眠ってしまった。そっと弾くだけなら大丈夫だろう。スラッシュのアコースティックギターを引っ張り出し、ソファーに座り直すと、ヒサはアドリブでメロディを弾いてみた。


タバサがヒサの足元に歩み寄る。


「タバサは何が聴きたい?」


もちろんタバサは答えない。ジッとヒサを見つめるだけだ。


ヒサはジャックダニエルの瓶を口に運ぶと、残りをイッキに飲み干した。今夜はすでに散々っぱら、お酒を飲んでいる。酔いが回っているのか、自分の指が勝手に弾いているメロディが頭で分からなくなってくる。リードを弾くのを止め、なんとなくバッキングするようにストロークでコードを鳴らしてみる。シンコペーションすら入らないシンプルなエイトビートだ。テンポは無茶苦茶だった。気持ちだけで右腕を上下に振っていると、ジャカジャカと刻まれる音に混じって、かすかにクーンと鳴き声が聴こえた。フレットから顔を上げると、タバサが口をパクパクさせている。ヒサを見て、一生懸命パクパクさせている。


タバサ、お前、歌おうとしてるのか?


ヒサは胸の奥にしょっぱいものを飲み込んだ。

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