第10話 ハリウッド・ドリーム
ヒサはモーテルの部屋で立っている。電話の前に立っている。受話器の上に手を置いたまま立っている。
この状態で20分は経っている。
ハリウッドに来て、今日で6日目になる。お昼に電話しようとしたものの、失礼があってはいけないと、あれこれ無駄に考え過ぎて、午後の時間をだらだらと過ごすうちに、もう夕方になっていた。
「っしゃ」
気合十分。ヒサはダイヤルを回した。
”Hello”
「もしもし、はじめまして。あの、ミヤコさんですか?」
「日本人ね。そうですけど?どちらさま?」
「突然、すみません。自分、ナオミさんから頼まれごとされた者なんですけど……」
「あー、やっぱり。ヒサちゃんだっけ?」
「はい、ヒサって言います。えっと、とにかくミヤコさんに会えばいい、みたいなこと言われて」
「それだけ?ナオミったら、ざっくりしてるね。じゃあどうしようか。晩御飯はもう食べた?」
「いえ、まだですけど」
「いまどこなの?」
「泊まってるモーテルですけど」
「じゃあモーテルの名前教えて。今から迎えに行くから」
「今からですか?いえ、大丈夫です。えーっと、サンセット通りの……」
ヒサは受話器を置くと、慌てて身支度に取り掛かった。顔を洗って、ジーパンを履く。お尻のポケットに財布を、前方のポケットに煙草を、それぞれ同時に手早くしまうと、ベッドに脱ぎ捨てられたシャツを手に取った。こんな時に限って、お気に入りのシャツがシワでヨレヨレになっている。
着るんじゃなかった。
観光スポットに行くくらいのことで調子に乗ってお洒落した昨日の自分を呪う。心の中までメリケナイズされたわけではないが、自然とFワードが出そうになる。
F●CK!
マーフィーの法則(*1)はアメリカでも絶好調らしい。
仕方なくベッドの脇にある紙袋の中から、ハリウッドで買ったばかりの新しいシャツを取り出した。
これはこれでカッコいいじゃん。
ヒサは特別に何かを期待しているわけではないが、いや、正直なところ、少しは期待して、鏡の前に立ち、髪の毛を入念に整える。仕上げに、ベッドの上に置かれた帽子を手に取り、目深に被った。被るのなら、どうして髪を整えたのか。
さて、ヒサがこうも舞い上がっているのには2つの理由がある。ひとつ目は、ミヤコはナオミが働いていたLAにある日本人クラブのホステス仲間だということ。かなりの美人だと予想されるだろう。ふたつ目は、この年の春に日本でメジャーデビューを果たしたばかりのロックバンド・カラードアニマルのボーカル三浦の元カノだということだ。デビュー作は不発だったし、当時、まだ一般的には知られていないバンドだったが、音源を聴いたヒサは、カラードアニマルが只者ではないと直感していた。事実、カラードアニマルは数年後にはブレイクを果たし、武道館公演までも手中に収め、90年台後半の日本のロックシーンを牽引するビッグ・バンドとなった。あの才能の塊のようなボーカル・三浦と付き合った女性だ。素敵な女性に違いない。電話でのミヤコのツンと取り澄ました口調も、ヒサの好奇心にいっそうの拍車をかけていた。
ヒサは椅子代わりのべッドの上で、Gコードをやさしく弾いた。ジャランと鳴った音が止み、もう一度ギターを撫でる。コードはまたGだ。音が止み、ヒサはふたたび同じコードを鳴らした。
一体どんな人なんだろう?
ヒサは無意識に腕を振り、ストロークを繰り返した。
Boo!
窓の外でクラクションの音が鳴った。
***
「まさかこっち来てフェア・レディZに乗るとは思ってませんでした」
「へー、車くわしいんだ」
言うわりには、ミヤコの相槌は、どこか興味が薄そうな冷めた口振りだ。
「女の人で車が好きって珍しくないですか」
「そうかもね」
「ほら車は男のロマンって言うじゃないですか」
「ふうん」
初対面にしては無愛想だ。
「なんでフェア・レディZにしたんですか?やっぱりあれですか?フォルムですか?丸みを帯びつつも鋭さを失わない曲線美っていうか」
「かな?」
「……」
会話が続かない。
この女性が、アネゴ肌で面倒見が良く、いつも陽気に周りの人を笑わせてくれるナオミの友達だとはとても思えない。
高飛車で、ぶっきらぼうで、無愛想で、そっけなくて、お高くとまって、ドライで、ただし美人だった。
難攻不落な、たしかに美人だった。
車に乗り込んで5分。ヒサの弾丸は早くも底をついた。
たった10秒の果てしなく長い沈黙が訪れる。
車に乗る時にヒサが抱いた淡い期待は、今、確かな不安に変わった。
どうすんだ、おれ。もう撃てる弾はないぞ。
「私、これが普通だから気にしないでね」
怒っているわけではないのだろうが、ヒサは落ち着かない。
「いえ全然。ミヤコさんに迷惑かけちゃったみたいで」
「ごめんね。ナオミみたいにお喋り得意じゃないの」
「いやいや、そんなことないでしょ。クラブで働くってお喋り得意じゃないと勤まらないじゃないですか」
「……」
ヒサが撃ったのは終止符だった。
馬鹿か、おれは。
まるで皮肉じゃないか。
全てが終わったかのように思えた。が、その時、ミヤコがくすくすと笑いをこぼした。口が開かないよう努力しつつも、わずかに肩を震わせている。
「あの、何かおかしいですか」
ヒサは恐るおそる尋ねる。車は信号で止まった。
「だって」
言いかけて、ミヤコはヒサの着ているシャツを指さした。
「ん?」
ヒサは自分のシャツをピンと伸ばして、そこに書かれた英語を口にする。
「ハ、リ、ウッド……」
「あはは、舞い上がり方がわかりやすいよ」
ヒサは何を笑われているのか、さっぱり分からない。
”Hollywood”とプリントされたロゴは、これがカッコいいと思って観光地の土産屋で買ったシャツだ。一年もお金を貯めて、就活も無視して、海を越えてやって来るくらいに憧れた土地の名前が入っているのだ。着たいに決まっている。
「え、これイケてないんですか」
「全然イケてないよ。外国人が大阪で”大阪”って書かれたシャツ着てるの見て、イケてると思う?」
信号が青に変わり、車が動き出した。
「それは全然イケてないです」
「ヒサちゃんって不思議だね。ほんとナオミの言うとおりだよ」
ミヤコが何を言っているのだろう。ハリウッドTシャツはどう見てもクールなシャツだ。が、そんなこと今はどうだっていい。とにかくミヤコが笑った。今はただ、窮地を救ってくれた昨日の自分に感謝があるだけだ。
じっくり話してみると、ミヤコはツンとしてはいるものの、高飛車に構えてなどいないことが分かる。
むしろ、たまにケラケラと笑うギャップが魅力的だった。
カラードアニマルのボーカル三浦が惚れたのも頷ける。
「三浦さんって実際はどんな人なんですか。やっぱりワイルドですか」
「うーん、どうかな?こう、ワイルドに見えて、実は、新譜が出る度に、別れた女にCD送り届けるみたいな?アメリカまで郵送するみたいな?そういう真面目な男だったりするかもよ」
語尾をボカした言い方ではあるが、照れた表情を見れば、真実は明らかだ。
車が、ミヤコの働く日本人クラブに到着した。
「ミヤコちゃん、お帰りなさい。隣にいるのは……。どうぞこちらへ」
ひとまず様子を見ようと判断したのは、バーテンダーのアツシだ。
アツシはカクテルを振りながら、バーカウンターの端の席へ2人を案内する。
この日本人クラブではカウンター席とラウンジ席の2つから、客はどちらで飲むかを選ぶ。カウンター席の方はよくあるオーソドックスなバーだ。椅子は9つ並ぶ。一方、ラウンジ席の方はテーブルとソファーがあり、客の隣にホステスの女性がつく。当然だが、料金システムも違う。テーブルの数は10ほどあり、お店としてはラウンジの方がメインだ。
経験豊富なアツシには、入ってきたお客を一目見るだけで、どちらを目的にお店にやって来たかが瞬時に判断できる。ミヤコとヒサの距離感を見れば、どんな関係か、だいたい察しがつく。知り合ったばかりか、久しぶりの再会といったところだろう。簡単な判断だった。アツシは頭がキレる上に、お喋りも達者な男で、人の心を読むことに長けている。その上、二枚目な風貌のバーテンダーと来れば、絵に描いたような色男だ。
「この子ね、ヒサって言うの。ナオミの友達。で、こっちはバーテンやってるアツシ」
淡白なのは、どうやら職場でも同じらしい。ミヤコは随分とシンプルな紹介を済ませつつも、ヒサのお酒を一緒に頼むことを忘れない。
「へー、ナオミちゃんの友達なんだ。ってことは……。ははーん。さてはコレやりに来たっしょ?」
アツシがエアギターで速弾きを決めて見せると、他のお客も含めて、カウンター席にどっと笑いが起きた。
「アツシさん絶対モテるでしょ」
最近ご無沙汰にしていた日本語が飛び交うせいか、初めてやってきたはずのこの店に、ヒサは懐かしさを感じた。
「日本ではモテたね。うん。鬼のようにモテたよ」
「よく言うよ。こっちでは全然じゃない」
ミヤコがアツシを軽くたしなめた。
「外国人の女の子にはオレの良さが理解できないんだな、これが。や、オレも努力はしたんだよ?ほら、ここハリウッドだし。ギター弾けたら相手にしてくれるかなとかって思って、買ってみたりして。でもFコードだっけ?あれ難しいね。あそこで挫折しちゃった。ていうかヒサちゃんはそもそも何でギター始めたの?それに、こっちまで来ようってなったのはどうしてなの?」
アツシはあまりに自然にヒサの過去を引き出す。
「元々中学の頃にハードロックにハマって。それで高校に入ってギター始めた感じですね。ハリウッド行こうってなったのは、色々あるんですけど、一番はハリウッドで活躍してるRIKIさんの影響かもしんないです。高校の頃からずっとRIKIさんに憧れてて。おれもRIKIさんみたいに一人でアメリカで、それもハリウッドで勝負してやるんだ、みたいな」
自分の話を熱心に聞いてくれているせいか、やけに皆が真剣な表情になったな、とヒサは思った。
「はいよ、ヒサちゃん、コレ。ビール。ロッカーなんだから、もちろんロックで飲みなよ」
ロックグラスに氷の入ったビールが出された。ヒサは目を白黒させる。隣のミヤコは知らん振りを決め込んでいた。アツシのシャレが不発に終わるも、店の扉が開いたことに気づき、逃げるようにお客を出迎えに行った。
「いらっしゃいませ」
扉の方からアツシの声が聞こえる。
「せっかくだったのにすみません。驚きの方が強くて。ほんとは爆笑するところだったのに」
グラスを見つめヒサはミヤコに謝る。
「普通そうなるよね。あれアツシがよくやる持ちネタよ。スベるところまでが計算の内なんだってさ。意味わかんない」
ミヤコはつまらなさそうに斬って捨てた。
「あー、お久しぶりです。いえいえ、そんな。来てくださって光栄です」
扉の方からアツシの声が聞こえる。
「そろそろ今日あたり、リキさん来てくれるんじゃないかって思ってたところですよ。どうぞ、こちらへ」
リ、リキさん?
ミヤコと話していたヒサだったが、ただならぬ名前が聞こえたのは気のせいかと、目の前の話を遮って、ヒサの首はアツシの方へ振り向いた。
その時、地面が揺れた。
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(*1)マーフィーの法則…当時、日本でも流行り出した史上最強の法則。アメリカで発見された。「慌てて飛び乗った電車は反対の方向へ行く」「落としたトーストがバターを塗った面を下にして着地する確率は、カーペットの値段に比例する」等が有名。
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