第9話 ロックウォーク

ロサンゼルス国際空港に降り立った一人の日本人は真っ直ぐタクシー乗り場へと向かった。

透明なガラスの向こうに、黄色いタクシーがズラっと並んでいるのが見える。

映画のワンシーンのようだ、と彼は思った。

真新しいスーツケースを引きずりながら歩く若者は、グレーのジーパンにブルーのシャツ、黒のキャップを被っている。

背中にギターは背負っていない。 

自動ドアを出ると密かに足元のコンクリートに目をやりつつ、個人史的な第一歩を踏み出す。

大きな風に長い髪がなびく。

昼過ぎのロサンゼルスは快晴。独特の匂いと乾いた空気。

ヒサは今、間違いなくアメリカへとやって来たのだ。


「ハリウッドのサンセット通りまでお願いします」


ドアが閉まると、タクシーは五線譜の上を走り出した。


***


目が覚めると、ヒサは見慣れない天井に一瞬戸惑う。

あ。

遅ればせながら自分が今アメリカにいることを思い出す。ふとエフェクターのディレイが頭に浮かんだ。

ヒサは上半身を起こし、部屋を見渡す。開きっぱなしのスーツケース、備え付けの小さな冷蔵庫に入りきらなかった大量のバドワイザーの缶、棚の上の固定電話、その隣に投げ出された煙草。ヒサは大事なことを思い出した。

ギターを買わなくては。

シャツを着替えて、部屋を出る。


ヒサが向かった先はギターセンター(*1)だ。

ハードロックの聖地に構える店だけあって、日本の楽器屋とは迫力がまるで違った。国柄なのか、土地の使い方も惜しげがなく、ビルをそのまま横に倒したような横長の直方体が空間を大胆に占めている。


店内は、雑誌で見るよりも遥かに広く感じた。千本単位で大量のギターが並ぶ光景は壮観だ。


「初めて見る顔だね、きみ。日本人でしょ?」


店内をキョロキョロと物色するヒサに店員が声をかけた。アメリカ人男性にしては線が細く、背もヒサより低く、女性のように綺麗な顔立ちだ。ハードロックをやっているのだろうが、長髪がまぎらわしい。パティ・スミス(*2)に似ているな、とヒサは思った。


「ええ、まあ。昨日こっち着いたばっかりで」


「音楽やりに来たんでしょ?持ってきたのはストラトだけってとこかな?」


そう思ったのは、ヒサがレスポールのギターばかり物色していたからだろう。


「いや、それがギターは持ってきてなくて」


「もしかして、家に忘れたのかい?ハハハ。しっかりしなきゃー」


店員は胸の前で手のひらと手のひらをぴったりと重ね合わせるように手を叩いて笑った。


「まあ、そんなとこです」


「ってジョークだよ、ジョーク。そんなにムッとするなよ。アメリカ人はジョークを言うもんなの。知ってるでしょ?」


ヒサはムッとしたわけではなく、店員の話しぶりから所作に至るまで、そこかしこに女性っぽさが漂う理由に意識が行ってしまい、反応が鈍くなっただけなのだが、店員はデリケートな日本人をからかい過ぎたのだと勘違いをしていた。


「ムッとなんかしてませんよ。せっかくだし、ハリウッドで新しいギター買うのもいいかなって。持ってくるのも大変だし」


「現実的なギタリストだね。きみ、いいよ。日本人のロッカーってね、だいたいみんなギター1本だけ背負ってやって来るんだよ。どうやら日本ではそれが音楽を志す者の基本スタイルなんだとさ。まったく困るよね。一番大事なのは鞄でしょ?」


真面目なのか、ふざけているのか。ヒサにはどちらとも読み取れない。


「それもアメリカンジョークですか?」


「これはジャパニーズジョークだろ」


男の声が1オクターブ低くなった。


「と、とりあえず何か試しに弾いてみていいですか?」


「もちろん。これなんてどうかな。いい音出るよ。ビジュアル的にも格好いいんじゃない?」


壁から取り外されたのは、えんじ色のレスポールだった。けばけばしいド派手な装飾のギターばかりが並んでいる中で、その控えめな色はかえってきわ立ち、ボディ全体が静かな野心を放っている。


店員は耳だけで手際よくギターのチューニングを合わせると、本体にシールドを繋ぎ、アンプのスイッチを入れた。ギターだけを見て、アンプの方を全く見ないのは、身体がスイッチの位置を正確に記憶しているからだろう。慣れた手つきでつまみを回し、音を探す。


「はい、ここ座りな」


ヒサに椅子を差し出し、ギターを渡すと、すぐに持ち場に戻った。プロだな、とヒサは思った。これは客がリラックスして試奏できるように、あえて演奏に興味ない素振りでその場を去るスマートな配慮だ。そこまで考えたとたん、緊張が押し寄せてきた。日本から遥々やってきたギタリストの演奏なんだから実際は興味津々で聴いているはずだ。ここはハードロックの本場。甘ちゃんのジャップが来たと笑われるかもしれない。ギターからそっと顔をあげ、店内を見渡す。アドレナリンが噴き出すせいか、周りがよく見えない。そのくせ、客も店員も全員がこちらを見ている気がする。店内に他のギターの音は無く、申し訳程度にBGMが流れているだけだ。ヒサは目を閉じる。ビビってどうする?毎日必死で練習したんだ。時間を削り、ピックも削ってきた。日本での日々が脳裏に蘇る。手の汗をジーパンで拭い、ピックを力強く握ると、ギターのボディを叩きつけるようにEmイーマイナーを鳴らした。店内にジャラーンと低く鈍い音が響く。その音が瞬く間に視界をクリアにした。アンプのつまみを回し、少しだけ歪みディストーションを足すと、ヒサは無我夢中でレスポールをかき鳴らした。ここはもうミナミのマクドナルドだ。


***


「あ、やっぱりね。それに決めると思ってたよ。気持ちよさそうに弾いてたもんね。えーと、1200ドル(*4)だね」


パティ似の店員はレジを打つ。


「なんか気持ち入っちゃって。こいつ他の奴に取られたくないなって、すげー思ったんですよ」


ヒサは財布から、今朝ごっそりと忍ばせた100ドル札を取り出し、12枚まで数える。


「うんうん。シビれる演奏プレイだったよ。そういえば、きみの演奏、後ろでずっと聴いてた人誰だと思う?」


「え、さっきの聴いてる人いたんですか?」


「ニールだよ。ニール・ショーン」


ニール・ショーン。ヒサが中学時代によく聴いたハードロックバンド・ジャーニー(*3)のギタリストだ。


「ニ、ニール・ショーンがおれのギターを?」


ヒサの両手からドル札が零れ落ちた。紙幣がひらひらと桜のように舞い散る。


ここは、間違いなくハリウッドだ。


____________________

(*1)ギターセンター…アメリカ全土に260店舗以上を展開する世界最大級の楽器チェーン店。1959年にハリウッドで創業。

(*2)パティ・スミス…1970年代、ニューヨークのパンクシーンで活躍した女性シンガー。代表曲は『Because The Night』。

(*3)ジャーニー…ニール・ショーンを中心に結成されたハードロックバンド。1970~1980年代にブレイク。最近では、ワールド・ベースボール・クラシックの公式テーマソング(TBS)に選曲されたことや、マライア・キャリーがカバーしたジャーニーの曲が映画『海猿』の主題歌として使用されたことが記憶に新しい。また、朝の情報番組『スッキリ!!』のオープニングで使用されている曲もジャーニーの代表曲。

(*4)1200ドル…当時のレートで約15万円。

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