第6話 運命の列車
1992年7月、蝉の合唱がリハーサルの様相を呈し始めた初夏の夜。
ヒサはこの日もシフトが入っていた。泉州(*1)に住んでいるヒサは、南海電車(*2)に乗って難波へ向かう。
いつものようにつり革を握り、窓の外をぼんやり眺めていると、泉大津を過ぎたあたりで、和歌山行きの電車に景色を遮られる。ガタンガタンと重たい音が車内に響き渡る。こちらの電車と違い、向かいの電車は会社帰りのサラリーマン達でぎゅうぎゅう詰めに混み合っているようだった。
もし普通に就職をしていたら、今頃は自分もあの電車に乗っていたのだろうか。そんな考えがヒサの頭にふと浮かんだ。自分の居場所を必死で確保しようと踏ん張っていた彼らの残像が瞼に焼きつく。背中がチリチリと熱い。もしかして自分は逃げているだけなんじゃないか?自分だけが皆から置いて行かれるんじゃないか?親も無視して、世間も無視して、いつか甘い考えだったと後悔するんじゃないか?あれ、何で不安になるんだ。ロックだ何だと言って、結局、レールに乗った安定が欲しかったのか?いや、違う。絶対に違う。さっきの電車に乗るか乗らないか。その答えを見つけるために今、この電車に乗ってアメリカへ行くんだ。だからもう少しだけ待ってほしい。誰に?
急行電車が堺駅に止まり、ヒサは我に返った。
何人かの乗客が乗り込んでくる。その中に一人だけ外国人の男が混じっている。色白の肌に、茶髪がよく似合い、スラッと背が高い。肘まで捲ったカッターシャツが、ワイルドさを醸し出している。男はヒサの隣に並んで立つと、右手でつり革を握った。左手にはフタの空いた缶ビールを持っている。ヒサは彼の視線を感じた。特に不思議はない。体中にアクセサリーがたくさん散らばっていて、男なのに長髪、日本人なのにアメリカナイズなファッション、気になって当然だろう。車内でなくとも浮いている。ヒサは窓の外を眺めてやり過ごす。電車が難波駅に着き、改札を出た。マクドナルドに着く頃には、電車で見た外国人のことなどすっかり忘れていた。翌日、また彼に会うまでは。
翌日もヒサは同じ電車に乗った。3月に大学を卒業したヒサには、時間がたっぷりある。渡米は9月だ。ここでしっかり稼ぎ切ろうと、ヒサは可能な限り連勤でシフトを入れていたのだ。昨日と同じように、つり革を握り、泉大津を過ぎたあたりで、すれ違う電車を眺める。急行が堺駅に止まり、扉が開くと、また彼が乗ってきた。男は昨日と同じように、ヒサの隣に立つ。左手には今日も缶ビールだ。2日連続で彼と電車が一緒だったことも面白かったし、ヒサはこのワイルドな男にどこか親近感を抱いた。誰に迷惑をかけているわけでもないのに、皆と違うことをしているだけで、日本社会では冷たい視線を投げられる。それでも自分のやりたいようにやる。生きたいように生きる。話してもいないのに、この男からはなぜかそんな気がした。
ふと、昨日より強い視線を感じた。ヒサはそっと窓に映る隣の男を盗み見る。男は真っ直ぐヒサの方に首を向けているようだ。さすがに気になったヒサは不思議そうに男の方を振り向いた。もちろん目が合う。すると、男は持っていた飲みかけの缶ビールを無言でヒサに差し出した。言いたいことは男の目を見れば分かった。ヒサは「サンキュー」とでも言うように、男から缶ビールを受け取ると、グッと一気に飲み干した。それを見て、男は肩を震わせて笑った。ヒサも思わず吹き出した。傍から見たら意味がわからない光景だろう。周りの乗客達はあっけにとられ目を丸くしていた。が、それも束の間、流暢な英会話が始まると、理解を諦めた。
「ていうか英語めちゃくちゃ上手いな。だけどよ、オーストラリア訛りなのは、どうしてなんだ?」
「オーストラリア訛りなんて入ってないけど」
「いや、入ってるさ。イギリス人を甘く見ちゃいけないぜ。訛りはすぐに分かる。ヒサの英語はジャップに多いアメリカ訛りの英語じゃない。どうしてオーストラリアなんだ?」
「まあちょっと色々……」
ヒサはお茶を濁した。
「さては、あれだな。これか?」
男は小指を突き立て、ニカッと笑う。こういう時の悪戯そうな表情はどうやらイギリス人も同じらしい。
「この野郎、やるじゃねーか」
「そんなんじゃないって。別に付き合ってたわけじゃないし」
「なんだよ、振られたのか?」
「だから色々だって」
「まったく、ジャップって奴はどいつもシャイだからな。どうせロクに告れもしねえでイン・マイ・ハートってとこだろ?」
「……。さっきからたまに出てくるジャップっていうのやめてくれないか。いい言葉じゃないよ」
「そうなのか?日本ではいい言葉じゃないのか。わるかったな」
日本でなくとも、いい言葉では無いはずだが、本人は納得したらしい。彼は紳士的なイギリス人の一般的なイメージとは全く違ったが、思ったことを全部口にする真っ直ぐな男だった。こういうタイプは憎めない。
「ところでヒサは普段どこで遊んでるんだ?」
「今はバイトしかしてないよ。2月頃までなら、サム&デイブによく行ってたかな」
「おい、奇遇だな。俺もしょっちゅうサムデブに遊びに行ってるぜ。あそこにいる日本人はファッキン変わった連中ばかりだな。ヒサはどうしてサムデブを知ってんだ?あー、なるほどな。聞かないでおくよ」
デイビッドは、点と点が繋がり線となる、とでも言うかのように大げさに頷くそぶりを見せた。
「勝手に察してんじゃないよ。別に余裕だし」
「じゃあどうして最近は行ってないんだ?」
「バイトとか色々あんだよ」
「イン・マイ・ハートしたあの子を思い出しちまうからだろ」
「バカ言え、そんなんじゃない。サムデブなんか楽勝だよ」
「言ったぞ。じゃあ明日サムデブに行こうぜ」
「い、いいよ。行ってやるよ」
「まったくヒサはファッキンわかりやすいやつだぜ」
こうしてヒサはデイビッドとサム&デイブで会う約束をした。
「じゃあな。明日だぞ。忘れんなよ」
電車が難波駅に着くと、デイビッドはそう言ってヒサの背中をポンと叩き、ミナミの人混みに消えていった。
***
週末のサム&デイブは大勢の客でごった返していた。ヒサが半信半疑で店内を見回すと、ダンスフロアよりもずっとバーカウンター寄りの壁際、ポールに丸いお盆を乗せた程度の細身のテーブルに、長身の男が肘をかけ、煙草を吹かしている。くゆらせた煙が晴れ、ニカッとイヤミな笑顔をのぞかせたのは、もちろんデイビッドだ。
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(*1)泉州…大阪府の南部。堺市から岬町までの旧国名「和泉」に当たる地域を言う。関西国際空港がある泉佐野市より南には2015年現在でも田園風景が広がる。
(*2)南海電車…難波と和歌山を結ぶ路線を走る電車。難波から関空へは特急ラピートで最短34分と、関空へのアクセスが便利。
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