第3話 1992年2月22日
営業終了後の店内は相変わらずしんとしていた。外を走る車の音が、寄せては返す波のように、途切れながら聞こえる。
「はーい。しつもーん。先輩、なんで動かないんですか?」
「うっせー。黙って仕事しろ」
「だって、もう終わりましたもん」
タカシはピカピカになったテーブルにチラッと目をやるそぶりを見せ、すぐさまヒサの方にやってきた。
「けっこうマジに好きなんでしょ?」
たった今、ヒサが床の四角模様を頼りに揃えたばかりの椅子を引っ張り出すと、タカシは足を組んで座った。
「なんだよ。お前だって今のままで十分楽しいだろ?」
ヒサは、タカシから少し離れたところにある椅子に座った。
「俺は、別にいいんすけど」
「けど、けど何?」
「いや、だってー、せっかく毎週みんなで飲み行く仲になったわけじゃないですか?俺は十分ですよ。でも、先輩はソフィーに気があるんでしょ?こっそり二人だけでも会ってるみたいだし。もう気持ち伝えたらいいじゃん、って思うんすよね」
「ソフィーは何も考えてないよ」
「でも、エマも言ってましたよ。ソフィーはヒサのこと好きだって」
「それマジ?」
「や、嘘っす」
ヒサはビニール製の手袋を脱ぐと丸める間もなくタカシの方に投げた。
大して飛ばずに落下する。
「ちぇ」
タカシに背を向け事務室に戻った。が、ヒサが閉めたドアはすぐに開けられた。
「でも、もし本当だったら先輩、絶対行きましたよね?」
タカシはヒサを逃がさない。
「まあな」
「だったら行くべきでしょ」
タカシは力強く言うと、
「タカシ、何書いてんだ?」
「ようし、完璧。ほら」
「なんでだよ、タカシ。この日は」
2月22日、その日はヒサの誕生日だった。バンド名にガールと冠しているだけあって、女子のご多分に漏れず、記念日ごとが好きなガールネーションのメンバーは、その日、ヒサとタカシをハードロックカフェに誘っていた。皆でヒサの誕生日会をやろうと約束していたのだ。
「俺、この日シフト入るんで」
タカシの目は真剣だった。
「今動かないと、もうチャンスないですよ。俺、先輩が一発かますの、待ってるっす」
タカシの言う通りだった。ガールネーションが日本に滞在できるのは3月までだ。もう一緒に遊べる日数は残っていない。
「なあ、タカシ」
「なんすか」
ヒサはタカシのギターケースを勝手に空けると、ストラトを取り出し、目を合わせずにタカシの前に突き出した。
「
「うっす」
精一杯に力の込もったトレモロ(*1)が、今日も無人の店内に小さく響いた。
***
お友達同士のまま迎えた1992年2月22日、ヒサ22歳の誕生日。
ヒサとガールネーションの5人は、バースデーケーキを食べ、乾杯した。
楽しいはずの誕生日会なのに、ヒサはどこか気が落ち着けないでいた。いくら慣れた仲間とはいえ、男1人で女5人を相手にするのは決して楽じゃない。ヒサは肩肘張りつつも、タカシがいる時のように何とか普段通り振る舞おうと努めていた。
突然、店員がカクテルを5杯とビールを1杯運んできた。
「あれ、それ頼みましたっけ?」
覚えのない注文だった。
「あちらのお客様からです」
店員はバーカウンターの方向に手を添えた。
店員の指す方向を見ると、カウンター席に座る若い男がニコッと笑っている。腕に巻かれたロレックスの時計から察するに、おそらく30歳前後といったところか。一人で煙草をふかしている、その姿からは洗練された大人の余裕が漂う。
ヒサはうっすらとケンカを売られたような気がした。しかし、ムッとした様子を見せたら、ガールネーションの手前、格好がつかない気もした。
「私たちどうすればいいかしら?」
わざとらしく首をかしげて、ソフィーはヒサをからかう素ぶりを見せた。
女心など理解できたためしがないが、この時だけは、ヒサに気まずい思いをさせたくないソフィーの優しさが手に取るように分かった。
「もらえばいいじゃん」
平静を装って答えた。おれ余裕ぶっこいてるな、とヒサは思った。彼女達に気を遣わせたくはない。
それにしても、ただでさえ外国人の女5人を相手に精一杯なのに、この横槍は一体何なんだ。
ソフィーがためらいがちにグラスを手に取ると、残りのメンバーも後に続いた。それを見たロレックスの男は満足気な笑みを浮かべ、椅子から立ち上がった。グラスと煙草を片手で器用に掴むと、ヒサたちのテーブル目指して歩き出した。
ヒサはピリついた。場合によっては、腕力だって辞さない構えだ。
________
(*1)トレモロ…同じ弦を素早く連続で細かく上下にピッキングする奏法。
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