2.
それから僕は、再び入院させられた。
僕の脳……詳しく言えば自我や情動を司る大脳新皮質は、ガビマルたちの拷問によって完璧に破壊されていたらしい。今僕がこうして明瞭な自我を保っていられるのは、スナドリが脳内に仕込んだ
スナドリとの会話で、自分の人格が書き換えられていたことは知っている。しかし、一度自分が死んだのだと聞かされると、やはり不思議な気持ちだった。
脳の全体が死んでいるわけではないので、ロボットとは見なされない。また<プール>による再構成が行われたわけでもない。
「別人として戸籍を作り直すべきだ、って話もあったがな。
そうガビマルが説明してくれた。
当然、表向きにはこれらの事実は伏せられている。僕はガビマルらの『突入』に協力した際、脳に深刻な損傷を受けたが、奇跡的に回復した――と、いうことになった。父や母や、多くの人が見舞いに来て、ねぎらいの言葉をかけてくれた。
それから、同情の言葉も。
「スナドリさんのことは、残念だったね」
彼女は……クマソと共に逃亡し、その後都市管理機構に逮捕・拘束されたことになっている。罪状は様々だ。違法倫理技術の使用、突入の妨害、違法薬物の使用、人格の改変による洗脳。公判はまだだが、そのうち獄中死のニュースが報じられるのだろう。全ては闇の中、というわけだ。
だが、もはやどうでも良かった。
僕は
彼らはまた適当な別の人間を探し、サジェストに従って、人々の望む物語を付け、売り出すだろう。それでいい。それで誰もが満足する。僕じゃなくても。
誰もが交換可能で、誰もが等価値な世界。
(そんな世界で、わたしたちに何ができると思う?)
彼女の問いに、僕はまだ答えられない。
だが、仮説を立てることはできる。
彼女の思いを。
彼女の願いを。
……久しぶりの外は既に眩しい陽光に満ちていた。
手で庇を作り、突き刺すような光線から目を守る。
目が慣れるのを待って、僕は歩き出す。
自動清掃ロボが巡回する街区には、ゴミ一つ落ちていない。
道をゆく人々の表情は、皆柔らかだ。
いつもよりあたりの空気がのんびりしているような気がした。今日は休日だっただろうか、と僕は少し記憶を辿る。義眼にアクセスし、視界に表示された今日の日付を見て僕は納得する。
『技術の日』
カリスが生まれるよりもずっと前。二○二五年、三十代の白人アメリカ人男性を模した機械知性「エリック」が、チューリングテストを完全にクリアした日。技術的特異点。人類の新たな門出として設定された、記念すべき祝日。
思えばこの日が、すべての始まりだったのだ。
この不自然でちぐはぐな、僕らの社会の……。
一つだけ、望んだことがあった。
僕の考えをトレースし、
不意の分断により休眠状態にあったそれを、再び稼動させてほしいと頼んだのだ。
「冗談だろ? プライベートを垂れ流しながら歩くようなもんだぜ」
ガビマルは止めたが、僕はどうしてもと頼み込んだ。もとより、僕らの
梅雨明けの風は、まだ湿気を含んでいて重たい。入院の間に伸びた髪を切ろうかと僕は考えている。道路を挟んだ向こうの通りを、老夫婦が仲睦まじく歩いている。
足元には石畳。何色かに分かれた正方形のタイルが、ランダムなパターンで敷き詰められ、モザイクのように抽象的な幾何学模様を作っている。銀色の無人車がモーター音を響かせて僕の横を通り過ぎていった。
こうした一つ一つの手触りを、そのたびに生まれる心のさざめきを、僕は
それは作品ではなく。
それは藝術でもなく。
……目覚めてからずっと、疑問に思っていた。
なぜ僕は、体を動かせるようになったのだろう?
思考だけを再構成し、主観を語る狂言まわしとして利用する――僕が彼女が与えた役割。
それが失敗に終わった今、僕を動かす
僕は思い出す。
(願わくばこの続きを。ここからの物語を)
彼女の叫び。機械知性に託した願い。
だがカリスは結局、物語の続きを語りはしなかった。
そしておそらくスナドリは、こうなる可能性をも予見していたのだ。
だから彼女は僕を残した。
すべてが企てが失敗した後もなお、この物語を記憶し、語り続けるための存在……
いいさ。
あえてそれに乗ってやろうじゃないか。
だが勘違いするな。
それはスナドリに対する感傷からなんかじゃない。そんなものはもう、とっくの昔に無くなっている。
歪に最適化された社会で。過干渉の幸福の中で。管理された自由意志の中で。それが滑稽な一人芝居に過ぎなくても。機械知性の掌の上で踊っているに過ぎなくても。あるいはその衝動すら、スナドリが僕に残した
僕は記録して、叙述して、叫ぶ。
そうして僕という存在を、僕という意識を、お前らの耳元で主張し続けてやる。
高く昇った日が、あたりを白く染めている。街路樹のざわめき。雨上がりのにおい。どこかで子供が叫ぶ。足裏から伝わる地面の硬さと、少し痩せて軽くなった自分の体重。クラクション、足音。心臓の鼓動。歩道の空き缶を、清掃ロボがするりと持ち上げ、背中の籠にしまった。丸みを帯びたクリーム色のボディ。すれ違いざま、その表面に丸く歪んだ僕の顔。
角を曲がると、子供とすれ違う。たしなめる両親の年齢はまだ若い。くたびれたトレーナー。男性の目じりに浮かぶ笑い皺。女性は眉を潜めて不機嫌そうな表情。視線を上げると、そこは噴水広場だ。開けた視界に、風が吹き抜ける。ベンチには若い恋人たち。その足元には、艶やかな新緑。床のタイルは鮮やかなオレンジ色だ。中央の噴水から、青みを帯びた水が高く上る。
その向こうで立ち上る入道雲。予定通りの夏の気配。
僕は語る。
語り続ける。
この物語が終わるまで。
この物語が終わっても。
忘れるな。
僕たちは生きている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます