終幕

1.










 この痺れは、どちらのものだろう。

 胸のあたりに広がったそれは、すぐに熱さへと変わる。猛烈な熱さ。全身から汗が噴出す。だがその一方で、心は酷く冷えていた。落下する直前、浮遊感と共に総毛立つ感覚。何かが急速に終わる……その予感に対する恐ろしさ。

 同期していたわたしの思考がブレていく。四つの目で見ていた二つの視界。完全に統合され認知されていたその片方が急速に飽和し、輪郭を失って崩れていく。

 母に抱かれているような安心感と暖かさが潮のように引いていき、代わりに鬱陶しく貼りつく夜気の、その濁った気配を感じた。体の輪郭を確かめる。足、腰、手。指の一本一本を確かめる。動いた。それはやっと、脳が命ずる通りに動いてくれた。


 は立っていた。大学の円形劇場に。

 胸に手を当てる。そこには痺れも、痛みもない。


「きっかり一日、だ」


 背後からの声に振り返る。そこには見慣れた禿頭と、その頭頂部から突き出す黒い突起のシルエット。


「入院した患者が何者かによって連れ出された。確認してみると、なんと先ほど逮捕が撤回されたクマソじゃねえか。上に問い合わせると、しばらく泳がせろと命令が来た。クマソ側との調整を守り、日付が変わり次第確保せよ。もしその場にスナドリが居合わせていた場合、これを処理してよし、とな」


「なんで」


 彼の手には銃が握られていた。高出力のレーザー銃。

 あたりに満たされている、鼻を刺すような強いオゾン臭。


「運が良かったなあ、キジマ。お前の確保は命令に入ってなかったぜ。それにしてもどうやって生き延びたんだ? まさにだ」


 ……あっけない、あまりにもあっけない幕切れ。

 ガビマルは呆けたように立ち尽くしている僕の横を通り過ぎて、人形のように立ち尽くしているクマソの前を通りすぎて、舞台脇にある半壊した階段を上り……僕の視界から消える。


「お前の演説、ずっと聞かせてもらってたぜ。スナドリ」


 そこにさっきまで立っていた女性の姿も……舞台の下から僕がさっきまで見上げていたその姿もまた……視界から消えていた。いや。舞台の端から僅かに、革靴のつま先だけがのぞいている。天に向けられたつま先。仰向けに倒れた体。

 震える足を無理やり動かして、僕は舞台へと登る。


「見ての通りだ、奇跡なんて起こらねえ。続きなんて語られねえ。お前はただの……勘違いした狂信者さ」


 こちらに背を向けて立っている、禿頭の男。

 その向こうに横たわる、女性。


「スナドリ……」


 声がうまく出せない。

 よろめきながら、ガビマルの隣に立つ。


「スナドリ……」


 彼女は死んでいた。

 胸に開いた穴からは、血も出ていない。服に開いた穴が焦げ、黒い煙を放っている。焼けた化学繊維と肉のにおいが混じりあい、悪臭になって鼻を刺す。


「変な気を起こすなよ? キジマ。もう終わったんだ、全部な」


 ガビマルの声も、その右手に揺れる銃口も、どこか現実との境目が曖昧だった。

 これは夢か? 僕は悪夢の中にいるのか。


 ああ。でも……。

 僕は、彼女の前に跪く。

 その見開かれた目を、差し出すように宙に伸ばされた手を、半開きのまま固まったその口元を見る。

 頬を涙が伝う。


「俺もこんな結末は、望んじゃいなかったよ」


 ガビマルが悲痛な声で言った。。

 何を、今更。

 一瞬胸に沸いた怒りは、だがすぐ諦めに変わる。

 彼の中では、それは当たり前の思考なのだろう。絶えざる外部からの入力に翻弄され、その場その場で自分の人生の物語を生成し、疑うことなく消費している。哀れな人形。機械知性の傀儡たち。


「応援が来るまで、まだ時間はある。それまで泣きゃいいさ」


 思わず笑いそうになるのを、堪える。

 違う、違うのだ。

 僕が涙を流すのは、そんな理由からじゃない。

 そしてきっと、この涙の意味は、彼には永遠にわかりゃしないだろう。

 僕は知ってしまった。


(麻薬中毒者の如く、彼はわたしを追い求め続けた。衝動は単なる化学反応の結果に過ぎないが、便利なことにヒトの理性は勝手にそれを意味づけしてくれる)


 僕がもう、役目を終えてしまったことを。

 今の僕は。スナドリの生体機械群バイオマシンが役目を終えた今の僕は。

 

 


 作られた動機。薬漬けの好意。

 僕はたんなる駒に過ぎなかった。意思や感情すら、彼女の絵筆であり、素材でしかなかったのだ。


(突然姿を消し、反社会的な組織に身を置いた恋人。好色そうな権力者に、人を人とも思わない、残虐非道な集団――。ヒロイックな妄想をかき立て、動機をデッチ上げるには充分だ)


 英雄気取りで彼女を追い、まんまと利用されたバカな男。

 僕は叫んだ。

 頭をコンクリートの地面に叩きつけた。額に走る感覚。白濁する視界。それを痛いと感覚する自分が憎らしい。脳内で活動するスナドリの機会。作り物の僕の意思。僕も彼と同じだ。肉人形だ。役立たずの肉人形……!


「何してんだ! おい!」


 取り押さえようとするガビマルの手を、自分でも驚くほどの強さで跳ね除け、僕はさらに頭を打ち付ける。割れた額から血が滲み、眼に入って視界が赤に染まる。


「やめろ、キジマ! 落ち着け!」


「ああああああッ!」


 キジマは僕をうつ伏せに地面に引き倒した。


「どうしちまったんだよ、おい!」


 動けなくなった僕は今度は笑った。掠れた声で、肺を引き攣らせて、涙を流しながら大声で笑った。僕に呼びかけるガビマルの息が湿っぽい。吐き気がした。圧迫された肋骨が悲鳴をあげる。

 どこまでも利己的な衝動で、この体は涙を流し続ける。


 機械知性に飼われた僕らは。

 自らの意思を示すこともなく。

 皆が誰かの駒として生きて。

 互いがその自覚のないまま、歪んだ物語を生きていく。

 それは互いにどうしようもなく乖離して、共通項すら見当たらない。


「キジマ……頼むよ、落ち着いてくれ。あの頃のお前に戻ってくれ……」


 この茶番はいつまで続くんだ?

 答えろよ。



 カリス

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