April 11, 2129 at 14:51~

 『とんかつドン太』という大きな看板の目立つ定食屋。そこの平たい屋根の上に、その男は立っていた。

 ‘屋根’であり、‘屋上’でないことは、そこに登る為の階段も梯子もないことからわかる。地上から高さ五メートル以上のそこに、男はどうやって登ったのか。

 奇妙な風貌の男だった。

 赤茶けて後方に逆立った頭髪。極めて細い目と小さめの鷲鼻、薄い唇の配置された顔面の左半分は、無機質な金属製の装甲板に覆われている。それだけで、彼が身体の一部を機械化した人間――サイボーグであることを如実に示している。灰色のマントは、付属したフードが中に押し込まれている。

 開いているのか殆どわからない右目の瞼がぴくりと動き、反対に閉じていた左目の機械の瞼は、小さな作動音とともにぱっちりとひらいた。

「……臭う。災いの臭いだ」

小さな彼の呟きに呼応するかのように、彼の右耳の小型通信機から、高くエフェクトのかけられた声が発せられる。

――‘観測’したのか?

「ああ」

――場所は?

「ここから西に五キロ……ロストプス近郊だ」

――了解。早急に向かってくれ。

通信機は、それきり沈黙した。

 男のマントが風に翻る。銀白色の筒型の銃器を携えた右腕と、三本の鉤爪の付いた電動義手の左腕が露になった。左右三枚、計六枚のしなやかで透明な‘翅’が、マントの下の背中から展開されると同時に、男は春の空に躍り出た。

 「空は、こんなにも低かったろうか……?」

キッと前方を見据え、トンボの如く飛ぶ彼の言葉を聞いていたのは、そのすぐ近くをすれ違ったツバメ位なものであった。




 三日前に始業後のイベントが粗方終了し、今は四月十一日月曜日。ようやく通常授業が始まったこの日も、このクラスの六時限目、生物の授業は終わりに近付きつつある。

 「……」

 生物担任であるこの教諭は、今日生徒達に教えるつもりでいた範囲について後悔していた。彼の授業はわかりやすいことで定評があるが如何せんハイペースで、授業の尺が十分弱余ることはざらだ。しかし、今回彼は二十分近く空き時間を発生させてしまったのである。先程トイレに行っていたが、それも僅かな時間しか潰せなかった。

 何もせずにいるのはむしろこちらの方が退屈する。だがわざわざ予定より早くカリキュラムを進める理由もない。

「……ふむ、そうだな」

彼は赤く染めた短い髪を掻きながらおもむろにホワイトボードに向き直り、ある単語をそこに書き連ねた。

 『バイオエナジー』。

 「この単語について何か知っている者、挙手しろ」

彼特有の早口に、着席した生徒達は誰一人反応しない。

「いないなら……ほら、そこの転入生」

「へっ?」

向かって左から二番目、最前列。左目に大きな傷を持った、艶のある長い黒髪の少年を教諭は指名した。

 アルカ・ロイド。日系アメリカ人。始業式の丁度一ヶ月前に、姉を名乗る女リディア・ロイドが、彼を二年生のクラスに編入するよう押しかけてきた。校長は当然ながら拒否したのだが、一部の教員が独断で最高クラスの入試問題を解かせたところ、アルカはこともなげに全問正解してみせた。そんな経緯があって特例中の特例で編入された、とんでもない天才である。

 彼がアルカを指名したのに、特に理由がある訳ではなかった。強いていうなら、教員達の間で噂になっているこの生徒が果たして如何程のものか、そういう品定めのようなものだろう。

 生物担任は手招きし、おどおどしているアルカをホワイトボードの前に立たせた。生物の授業に於いて、皆が彼の問いに答えられぬ時に、唯一答えることのできる者がいた場合、前に出て説明するのは恒例となっているのだ。覚悟を決めたのか、先程までどこかなよなよとして頼りなかったアルカの立ち居振る舞いが、急に凛々しくなる。

 「バイオエナジーは、生命の根幹を司る物質です。二〇五〇年代、当時まだ中小企業規模だったGアームズに雇われていた科学者、イリヤ・ゴルルコビッチ・マカロフが発見しました」

そこからの説明は立て板に水で、完璧といえるものだった。

 バイオエナジー。あらゆる生物が体内で無限に生成・循環させ、その流動が生物の生命活動に密接に関わる素粒子様の物質。生物全ての細胞が一様にこれを作る能力を備えているが、生成プロセスは一切不明。コーカサス一の巨大軍事企業『Gアームズ』がその取り扱い技術を独占・秘匿しており、その性質についての研究はGアームズの雇った科学者にしか行なえない為、未だ多くの謎が残されている。

 「……以上です」

 教諭は満足した。短くごわごわした髭の生えた口が小さく歪む。

「いい解答だ、アルカ。では次に、この物質の利用法について――」

例を挙げろ、とまで彼は言いたかった。

 けたたましいブザー音が鳴り響き、生徒の声でアナウンスが入る。

「緊急事態発生!! 体育館にエラーの反応を感知!! 生徒諸君は、速やかに第三地下シェルターに避難して下さい!! これは訓練ではありません!! 繰り返します、これは訓練では……」

教諭は舌打ちした。ここ数ヶ月、このロストプス工科大学附属高等学校周辺にエラーは出現しなかった。できればそのまま現れずいて欲しかったのだが、最低でも二週間に三体は現れると云われるから、恐らく今月だけで七、八体はロストプス近郊に湧くことになろう。気が滅入る。

 「……スクープの予感だな」

しかしこの生物担任の鋭敏な聴覚は、そんな心持で、しかもクラス内がどよめいていようとも、向かって右から二番目、最後部座席に座る少年のその言葉を聞き逃すことはなかった。

 またか、と、彼は心中で大きな溜め息を吐いた。アッシュグレイの髪の一部を鶏冠のように立て、眼鏡ではなく度の入った水泳用ゴーグルをかけたそのロシア人少年は、名をイワン・ボスコノビッチ・ミズコフという。彼は非公認広報グループ『OKB913』を半年前に設立、校内で何か事件があればいち早く嗅ぎ付けて記事にしてしまう。迷惑この上ないが、今はむしろ、彼が体育館に一人で向かわないようにするべきである。

 「聞いたなお前達、すぐに避難だ! 他の教員がルート上に待機しているはずだ、指示に従え!」

教諭は焦ることはなかった。てきぱきと指示を出し生徒を廊下に出す。

 だが、

「アルカ、お前もすぐに……!?」

つい先程までホワイトボードの前に立ち往生していたアルカは忽然と姿を消していた。

「……問題児か……」

眉間にX字を描く自分の傷跡を歪めて、苦々しく見つめる教諭の視線の先には、どさくさに紛れて開けられたと思しき窓があった。




 ロストプス工科大学附属高校、通称ロス高のあるソルボターリ地区。コーカサス内に存在する十の地区の中でも最小であるここの、北のはずれ――エリア840という地域は、十五年前に起こったエラー大発生以降過疎化が進行しており、只でさえ希薄な人口密度に拍車がかかっていた。そのほぼ中央に位置する小高い丘の上に、アルカの住まう家、もとい研究所がある。

 「アルカ、よく聞いて」

 丁度一ヶ月前、三月十一日のことだ。

 様々な名称が背表紙に記載されたファイルが、四方を囲む本棚にぎっしりと入った、応接間のような一室。低いテーブルを挟んで並んだソファーの、入り口の扉から近い方に座るアルカ。三日前にロス高への編入が決まり、交通アクセスをパンフレットで確認していた彼に、姉のリディアが徐に話しかけた。

「遂にエラー対策本部からベーシスミッションの許可が出たわ」

VSバーサスミッション?」

「私達姉弟の研究意義を賭けた基礎任務ベーシスミッションよ。これが成功すれば正式に部隊として編入される……」

 リディアの口調はどこか得意げだった。それもその筈である。他界した両親が残したレポートからそのコンセプトを受け継ぎ、研究と試作品のテストに十五年以上を費やした、エラーに対抗する為の『発明』が、ついに日の目を見ることになるのだから。

 自分達の研究――アルカの貢献も大きいので、リディアは二人の研究だと思っている――成果をデータとして取り、エラー対策本部にその有用性をアピールする。それが、ベーシスミッションの狙いである。

「基礎任務……これからのエラー対策の指標になるってこと?」

「簡単かもしれないけど油断しないで。今回は実戦よ」

そしてこの最終試験ともいうべき任務の最前線に立つ、即ち被験者となりエラーと戦うのが、アルカだった。今回は実戦、という言葉の通り、最新のVRヴァーチャルリアリティ技術を利用した仮想訓練は、この時の為に何度も行なってきたのだ。

 アルカに様々なグラフの書かれた紙を一枚手渡し、リディアは弟の周囲をゆっくりと歩き回りながら説明を続ける。

「これまでのエラーの出現場所のパターンを分析してみたけれど、概ねどの地区の都市部にも均等であることがわかってきたの。そしてここ最近、ロストプスには出現していない。次の襲撃地域は間違いなくロス高周辺ね」

はっとアルカは顔を上げ、リディアを見た。五年前から学校に通っていない自分を、急に高校に、それもさして目立った評判のある訳でもないロス高に編入させた姉の真の狙いがわかった気がした。

「貴方の任務はロス高周辺に出現するエラーを倒し、帰還すること。そしてその際誰にも情報を漏らさないこと。これは社長だけじゃなく、大統領の威信も賭かっているわ」

 説明を聞いたアルカが自信なさそうに俯いたのを見て、少し言い方が冷淡過ぎたろうか、と、リディアは後悔した。決して彼に覚悟がなかった訳ではない、とかくアルカというこの少年は自分に自信がないのだ。今もわざわざ下座を選んで座っているような小心者。

「……大丈夫よ。現場で動くのは貴方一人でも、バックアップは万全だし。それに、今回は強力な助っ人が付いてるの」

「助っ人?」

「ええ。その人も期待してるって言ってた。皆を守る力になって欲しいってさ」

誰とは言わない。本人からはそれについて他言無用を厳命されているからだ。それでも、こうして彼を勇気付けられるならと、リディアは“皆を守る力”の部分を気持ち強調して言った。

 「……うん」

アルカの目に静かな決意が宿る。いい弟を持ったものだと、リディアは少し誇らしくなった。




 ここに至るまでの顛末を思い返しながら、アルカは体育館への最短ルート、即ち校庭を走っていた。お世辞にも運動神経の良いとは言えない走りで、砂埃を巻き上げる。纏わり付く不安を振り払うように。

「これが、記録に残る世界初のバイオバーストになる……」

既に進行方向からは、ズシンズシンという体育館特有の重々しい音が響いている。しかしその音量、振動は人間のものとは桁違いだ。その正体が何なのか、言わずと知れている。

 ガラリ、真新しい金属製の遣り戸をスライドすると、案の定そこには人類の天敵・エラーがいた。中生代ジュラ紀後期の肉食恐竜アロサウルスを彷彿させる巨躯は、しかし新品のコピー用紙をも思わせる美しい白に返り血のマーブル模様を描いている。足元に累々と転がるのは、生徒の亡骸、だったもの。腹が減ったと言わんばかりに足を踏み鳴らすエラーに擦り潰され、原型を留めていない。

「クギャルゴオウオウウウウ!」

それはその場の獲物生徒を食い尽くしてもまだ足りなかったのだろう、新たな食物の登場に歓喜の叫びを上げた。元々紅い目が更に血走り、瞳孔を絞って狙いを定める。

 対して、アルカは。

「ズィオオォォォオォア!!」

絶叫。否、咆哮。

 決して気が触れて奇声を上げたのではない。それは、エラーに対抗できる姿になる為のスイッチだ。

 エラーに向けて走るアルカは、急速にその容姿を変えていく。

 骨格は軽量化され。

 鳥類特有の気囊が発達し。

 踵から先が長く伸び。

 手足の先には鉤爪、更に強靭な腱で支えられた尾が生える。

 そう、彼こそが、人類初のバイオドライバー。彼の身体に埋め込まれたバイオドライブの名は、『Nychusニクス』。ラテン語で鉤爪を意味するその名は、軍鶏を遺伝子操作して作り出した小型のラプトルのDNAをベースとした変身形態に、なんと相応しいことか。

 「…ああ、疼く。獰猛な狩猟本能が顔を覗かせて…キシシッ」

歯を剥き出し、嗤う。

「ヒャハハハハ! 狩りの始まりだぁ!」

身体構造の変化がもたらした爆発的な脚力の増強は、彼を一足にエラーの頭上まで持っていくのに十二分だ。

 最早、彼には先程の穏やかさは影も形もなく、それは凶暴な捕食者プレデターそのものだった。

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