April 11, 2129 at 15:01~

 一陣の風が、獲物の背中に飛び乗った。

 両手の鉤爪が眩い白さの身体に食い込み、貫き、両足の鉤爪もまたそれを掻き裂き、内臓が僅かずつ抉り出されていく。

 エラーの運動能力は高い。

 平均的なサイズは、全長六メートル、体高二メートルと大型でありながら、発達した脚力で見た目に反し俊敏に動き回ることができ、走る時の最高速度は時速三十キロメートル以上。並の人間が逃げ切れる速度ではない。

 だが、それですらバイオバーストしたアルカには及ばない。

 踵から先の長く伸びた脚が可能にする趾行が、走行時に並外れた歩幅を実現する。骨格は中空で、同サイズの捕食動物とは比較にならない程体重が軽い。鳥類と同じ気嚢によって、肺には常に新鮮な空気が送り届けられ、息切れの心配はなく、また気嚢の存在も軽量化に一役買っている。そしてバイオドライブ自体もまた、体内のバイオエナジーの流動を効率の良い走りができるよう最適化する。

 Nychusは、その軽量性を生かした高速戦闘を想定したバイオドライブ。巡航速度でも時速七十キロメートル、現生のダチョウにも匹敵し、最高速度に至っては時速百キロメートルにも達する、恐るべき俊足の持ち主である。

 「オラオラァ! テメェの鱗なんざ紙同然だ! 切り刻んでやらァ!!」

一メートルから二メートルのストライドで交互に繰り出される、不気味に黒光りする鉤爪の付いた足が、強固なはずの鱗に包まれたエラーを、切り紙でもするかのようにいとも容易く切り裂いてみせる。

「ギャアアアァァァアア!!」

エラーの叫びと共に傷口からほぼ秒間隔で血飛沫が舞い、アルカを、体育館の床を紅く染めていく。

 今仮にこの惨状を見せた上で、「ライオンに殺されるかアルカに殺されるか」とアンケートを取ったなら、十中八九は「ライオン」と答えるだろう。ライオンなら、その強力な前足で以って一撃で仕留めてくれるからだ。

 Nychusの設計思想の元となったドロマエオサウルス科の恐竜は、大型の獲物を捕らえる時、アフリカのサバンナに棲むイヌ科の哺乳類リカオンに似た狩りをすると考えられている。集団で獲物を取り囲んで、急所を狙った一撃離脱を行ない、向こうが力尽きるまで延々とそれを繰り返すのである。

 攻撃するアルカこそ敏捷だが、彼が単独行動であるのも起因して、その決着には時間を要する。しつこく付き纏う割に決定力に欠ける為、相手が出血多量と外傷性ショックで死亡するまで待たねばならない。その様相は極めて残忍だ。

「グィ……ォルアァ!」

「っぜーんだよさっさとおっねや雑魚がぁっ!!」

死力を振り絞って起き上がろうとしたエラーに、バイオドライブとの異常な親和性故に凶暴化したアルカが情けをかけるはずもない。ましてや彼は、自身のスピードとは裏腹に延々と続く戦闘に苛立ちを募らせているのだ。助走、跳躍。白く無骨な頭部に空中から痛烈な蹴撃が見舞われる。眼球に爪が食い込んだ、その感覚にアルカは快感をも覚えた。

「ガアァ! ……ギュレィィ……」

倒れ伏し、吐血。エラーは息絶えた。

 「……さあ、食事だ」

軽く息を吐き、アルカはエラーの脇腹に移動する。無造作に皮を剥ぎ取ると、やおらその肉に噛り付いた。

 食事。それは無論エラーを食べることである。

 バイオドライブは、一時的とはいえ新陳代謝を異常活性化させ、身体構造も一度壊してから変化させており、大量のカロリーとタンパク質を消費する。その為最も効率がよいのが、倒したばかりのエラーの摂食である。その肉は足が早いが、非常に美味で栄養価は高く、死後は血中に含まれる酵素が変性してエラー自身の肉を分解し始めるので、消化吸収効率も極めて良い。生のまま大量に食べても腹を壊すことは殆どないとされている。

 がぶり、ぐちゃぐちゃ、ぶちっ、グロテスクな音が、先程まで二匹の獣が暴れ回っていた体育館内で僅かに木霊する中、いつの間にかアルカはバイオバースト前の姿に戻っていた。

「……」

血塗れの顔を上げ、壁にかかった時計を見た。時刻はきっかり午後三時半。エラーどころか時間まで食ったらしいと、アルカは自分を酷く卑下した。

 彼は正義感が強く、他人の為にできる限りの努力をしようとするが、自分のこととなれば滅法自信を無くしてしまう。地の性格も内気で少々女々しく、バイオバースト時の乱暴極まりない口調の変化も臆病さ故のストレスの裏返しだ。

 「……はむッ」

 この間、彼は周囲への注意力が散漫になっていた。

 故に彼は、背後に近付く複数の人影に気付かなかった。

 「うっ?!」

藪から棒に首筋に衝撃が走る。アルカは絶入した。

 「よくやったわ、レイン」

「恐縮です」

六人の男女が現れ、血溜まりを避けながらアルカを抱え上げた。彼らはそのまま、アルカを連れ去っていく。

 しかし彼らもまた、その様子を見つめる二つの視線に気付いていない。

「……あれは、生徒会長だよな?」

床に近い換気用の小窓からの一つは、望遠レンズでキャンディッドショットするイワン。

「……」

上方にある採光用の窓からのもう一つは、マントを羽織ったあのサイボーグだった。

 彼はマントの下から型落ちした携帯電話を取り出し、電話帳を開く。ラ行から探し、「ロイドのマッドな方」を選んで発信。まだ小型通信機が装着されている右耳ではなく、左耳に押し当てた。その通信機がまるで触れたくもない存在アンタッチャブルであるかのように。

「俺だ。滞りなく倒されたぞ」

――予定通りね。……でもその言い方。

「ああ、今少々問題が発生している」

――まさか、目撃者が?

「なあに、心配は要らんさ。ここにはが来るだろうよ」

――……なら、大丈夫そうね。ごめんね忙しいのに、こんなこと任せちゃって。

「いいってことだ。無事帰ってきたら、坊主に宜しく伝えてくれ」

会話の調子は、四十分前の通信機でのものとはうって変わって始終砕けたものだった。彼は携帯電話を耳から離し、通信を切断する。

 彼がマントの裏にそれを隠した後、通信機が起動した。相手が何を話すより早く、彼が有無を言わさず口火を切る。

「聞こえるか。契約はなしだ」

――……何だと?

「状況が変わった。エラーの撃退方法が確立された。お前の調査とやらに協力する義理はない」

――待て! せめて映像を……

「さらばだ、ブラスト・ハンドレッド。否、」

一拍置き、嘲笑う。

「二年A組生物担任――ウォーカー教諭Mr. Walker




 照明を消した仄暗い小部屋で、アルカは目を覚ました。

 天井からぶら下がる縄で手首を吊られ、足も重しをされて身動きが取れない。窓から差し込む西日が、無様な自分のシルエットを作っている。アルカはまだ意識が朦朧として、何が起こっているのか理解できなかった。

 「初めまして、編入生君」

そんな彼の前に、一人の少女が歩み出てくる。声をかけられてやっと調子を取り戻し、アルカは彼女を正面から見据えた。

「私はクリスティール・フランケンシュタイン。ここ、ロストプス工科大学附属高等学校の生徒会長よ」

絶世の美少女である。僅かにウェーブしたプラチナブロンドのセミロングヘアーは、ユリの花を思わせる飾りの付いたティアラのようなカチューシャが添えられ、一層輝きを増して見えた。彼女の浮かべる意地の悪い笑みも、思わず見惚れてしまいそうな程だ。

 その笑顔の裏にどこか不穏なものを感じ取ったアルカが、おずおずと口を開く。

「な……何? 何なんですか?」

「貴方に、少し協力して貰いたくてね」

台詞の後の彼女の合図で、青く染めた髪をポニーテールに纏めた女によって、左手の暗がりからピッチングマシンが運ばれてくる。その直後に気付いた、周囲から刺さる多数の視線に、彼は自分の置かれた状況のまずさを悟った。

「貴方はつい先程、自らの姿を変えてエラーを倒した。どんなからくりがあるのかしら?」

 一月前のリディアの言葉が、アルカの脳裏に去来する。

“貴方の任務はロス高周辺に出現するエラーを倒し、帰還すること。そしてその際誰にも情報を漏らさないこと。これは社長だけじゃなく、大統領の威信も賭かっているわ”

 リディアの言う「社長」とは、Gアームズの社長ハルベルト・フランケンシュタインのことである。直接会ったことはないが、リディアからは叔父と姪のような古い付き合いで、変人だと聞いていた。彼女がバイオドライブを作ることができたのが、ハルベルトとの技術提携があったからこそであることも知っている。

 目前の少女クリスティールは、ファミリーネームを「フランケンシュタイン」と名乗った。自分の記憶する限りでは、フランケンシュタインなる姓を持つ者はハルベルトしかいない。

 髭、髯、鬚の全てをぼうぼうに生やし、死んだ魚のような目をしたハルベルトの写真を見たことがあるアルカは、それが単なる偶然の一致だと思いたかった。それならば、クリスティールがバイオドライブについて何も知らない様子であるのにも納得がいくからだ。

 しかしもしも、彼女が本当に彼の娘、つまりGアームズの社長令嬢であるのなら――

 クリスティールに問われた後の数秒でそこまで考えて、アルカは、

「……何も、吐かないよ」

情報提供を拒否した。

 「そう」

クリスティールの手元のスイッチが押された。ピッチングマシンが作動する。

「がっ?!」

放たれた野球ボールは真っ直ぐに飛び、アルカの鳩尾に直撃した。

「大人しく洗いざらい吐いてくれたなら、こんな手段を使わなくて済むのだけど?」

 彼女がGアームズの社長令嬢であるのなら、このような暴挙に出てまでしてバイオドライブの情報を得ようとすることの必然性とは何なのか。家族なら多少は父の友人関係や会社の持つ技術について知っていてもおかしくはない筈。

 ともかく、アルカは口を堅く閉ざすことに決めていた。“大統領の威信”が果たして何を意味するのかは追究しなかったが、彼にとってリディアとの約束を破ることは、たった一人の家族の信用を失うことに等しかったのだ。

 大きく三日月形に吊り上がる彼女の口を、アルカはキッと睨みつける。が、またすぐに野球ボールが飛んでくる。

「ぐはっ!!」

また一発。

「ぐおっ!」

更に一発。

「げほっ……」

「ほらほら、さっさと言わないと大事なトコロに当てるわよ?」

下卑びた笑みが涙で滲む。それでも、アルカは怯まない。屈しない。バイオドライブが、全人類をエラーの恐怖から救う切り札になると、そう信じていたから。今ここで耐えることが、‘誰かの為’であったから。

 「止めて!!」

息を整え、痛みを和らげようと努めるアルカと、無慈悲に次なる球を吐き出そうとしていたピッチングマシンとの間に、赤毛の少女が割り込んできた。

「カナ、そこをどきなさい。情が移ったの?」

「こんなのあんまりよ……酷過ぎる!」

「いい加減になさい。次は百キロ越えよ」

「私の知ってるクリスはこんなことしない!!」

カナと呼ばれた彼女は、先程までクリスティールの取り巻きの一人だった。大方何も知らずに拷問に参加させられたのだろうと、痛みと格闘しつつアルカは推測した。この状況で自分に味方してくれる者がいることに、少なからず安堵しながら。

「……仕方ないわね。ピート、ジャッロ、その娘好きにしちゃっていいから」

ところがその安堵は脆くも崩れ去った。

 「へへっ、ありがとよお嬢」

「お嬢は高嶺の花で手ぇ出す気も起きなかったけど、こいつは前々から目ぇ付けてたんだ、フヒヒ」

指名された取り巻きの男二人が、ピッチングマシンの隠れていた暗がりから現れると、カナの表情に明らかな恐怖が湧き上がる。二人は双方がカナの手首を掴み、強引に部屋の入り口側の壁に連れて行こうとする。

「いっ、嫌ぁ。放してっ……!!」

「おいおい暴れんなって」

「すぐに嫌なんて言えなくしてやんよ!」

 ピートとジャッロが――どちらがどちらかは不明だが――何をしようとしているのかは最早明確だった。どす黒い男の欲望の捌け口にされようとしているカナの悲痛な声に、アルカの中の獣性が爆発する。

「グルァアアウウウ!!」

足は固定されている訳ではなかった。アルカは渾身の力を振り絞り身体を、正確には顔を縄の結び目の上まで持ち上げ、食らい付いて噛み千切ろうとした。尤もバイオバーストしていない彼にはそんな咬力はなく、元々筋力のない腕もすぐに脱力してしまったが、代わりに大きく吼えた。

「彼女を放せ!!」

「ええいいわよ。私から二人に言ってあげる。貴方もくれたらだけど、ね?」

「ッ、人でなし……!」

クリスティールの言葉で、アルカの胸の内で真っ赤な義憤が渦を巻く。自身の使命と目前の悲劇に板挟みになった彼は、不運を嘆き、己の無力を恨んだ。進退窮まった局勢で、デウス・エクス・マキナの登場を望みさえした。

 だが神でなくとも、救世主は存在した。もうここにいる者達の前でバイオバーストするしかないとアルカが諦めかけ、ワイルドシャウトの準備をし始めた時――

  窓ガラスが破られ、何者かが突っ込んできた。

「?!」

その場にいた全員が、唐突に登場した少年に目を奪われた。

 日本人にしては高めな鼻、墨のように黒い髪と血よりも赤い目。その目は光を反射せず、くすんでいるようにも見える。右腕に携えた銀白色の筒型の銃器には、螺旋を半分に切り、向きを揃えてくっ付けたような四本の黒いラインと、変形する先端部から手が入る開口部までを、きっかり三等分する二本の黒いラインが入っている。その特徴的な紋様こそが、彼を『彼』であると証明していた。

 彼の名は、四島しじま小櫃おびつ。コーカサスに於いて『人類最強』とも言われる賞金稼ぎバウンティハンターである。

 「待たせたな、アルカ。短時間で仕留める」

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