リノリウムの床

つがさき翼

第1話 リノリウムの床

かつん、かつんと足音が響く。ゆっくり、しかし確実に。ああ、これは彼女の足音。破滅の足音。


ごめんなさい、ごめんなさいと私は頭を垂れる。目の前には、リノリウムの床。いつかここの廊下を瀕死の彼がストレッチャーに載せられて、運ばれたことを思い出す。あの時は本当に、心臓が破けたかと思った。

彼の苦しそうな顔が脳裏をよぎって、またじわりと視界を滲ませた。

けれど、それも終わる。

私はゆっくりと彼が眠る部屋へと足を進めた。行きたくない、行きたくないとぐずっても、燃える使命感が次の一歩を踏み出させる。

あなたは何のために苦しんだのかも忘れ、それでも守るべきもののために立ち上がり、血も涙も流しながら戦った。闘ったのだ。

もういいの、いいの。

私は彼の部屋の扉の前で深呼吸をして、力を込めてドアノブを握り、その引き戸を開けた。そこには、いつもと変わらない光景が私を受け入れる。

部屋中にびっしりと置かれた機械類とモニター。その中央には、円筒状のカバーガラスに覆われたベッドが据えられており、私はそちらへ歩み寄った。

「操」

私は愛しい人の名前を呼んだ。機械音に邪魔されてその声は響かず、私の胸の中へすとんと帰ってきた。

永瀬操。遠くに東郷平八郎の血筋を持ち、第三次世界大戦において、弱冠28歳で英雄と呼ばれた男。前線では幾億の砲弾の下をくぐり抜け、作戦指揮いくつもの部下を救い、敗戦がそこまで迫っていた日本の所属する先進国連合に電撃的な勝利をもたらした。その後、復活した国際連合、その新設された国連軍によりいつかきたる戦争のためにコールドスリープされた。

そして国連軍の思惑通り、第四次世界大戦、第五次、第六次世界大戦において同じように味方に勝利をもたらした。そして第七次世界大戦開戦の兆しを見せる中、私は彼を目覚めさせなくてはならない。それが、私の役目。

私は震えながら、ベッドの中で眠る、生命維持装置に繋がれた彼の顔に手を重ねる。起動ボタンを教えてしまえば、触れられる。触れられる。ガラス越しではなく、本物の彼に。

けれど私はそのボタンを、もう押すことは出来ない。

苦しんで、苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんで苦しんだ彼の涙を知るものは、そう多くはない。英雄だって人間であることを本当の意味で理解しているものも少ない。

誰かを殺す度に悔やんでいること。武器が発展し、より多くの人を殺せるようになっていくことに、一番生理的嫌悪を抱いていること。救えなかった部下のために涙を流すこと。笑顔で操に手を振る人は誰も知らない! 誰も知らない!

「もういいの…。あなたは十分生きた」

言葉にした途端、悲しみが背後から足を取った。がくんと膝から崩れ落ちた私は静かに懺悔を並べる。

「娘のサナはもう死んでしまったわ。孫はもう長くない。曾孫は年老いてしまったし、玄孫は今、立派に親を務めてる。

私たちは永く生きてしまったわ。もう、終わりにしましょう。あなたは苦しんだ。人の、何倍も。終わりましょう。終わりましょう。あなたの業も、一緒に背負う。あの世で一緒に背負う。だから、もう…」

終わりにしましょう。

私はおぼつかない足取りで立ち上がり、おこりにかかったように震える手を何とか制御し、強制停止スイッチを押す。

「大丈夫、大丈夫。私も一緒に行くから」

私は微笑むと、右耳につけた蒼いイヤリング――生命維持装置――を外した。

また、会いましょう。

私はそう口を動かせたという確信もないまま、意識を失った。


大おばあ様、大おじい様は微笑んで逝かれたわ。

私は遺された部屋の中、そう呟いた。ナガセの女の役目は、大おばあ様――天才学者永瀬真琴――の魂を宿した蒼いイヤリングをつけ、彼女の依代となること。彼女の選んだ男と結婚し、子供を産み、ナガセの血を守ること。

ようやく終わった。やっと終わった。ナガセの名はありふれた姓名の一つに戻る。けれど、けれど。

私はどうすれば良いのだろう。何をすればいいのだろう。

私は自由を知らない。選択することを知らない。そんな、そんな私は、

「どうすればいいの…。大おばあ様…!」

噎び泣く女が独り、遺された部屋で永瀬真琴が何度もそうしたように、リノリウムの床に水たまりを作った。

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リノリウムの床 つがさき翼 @TsubasaYukimiya

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