第十一話 五月、取材を受ける②
「くそっ、逃げられた!」
眼前で閉じられた扉に、思わず舌打ちする。
ヴラドとのやりとりを見ていたカネさんが、ややひきつった顔で言う。
「えっと、もしかして無理矢理取材させてもらうことになってしまいましたか?」
「いや……」
一つ大きなため息をついて、カネさんに向き直る。
「一度は了解したんだ。あいつの本当の思惑がどうあれ、大差はない……。もう慣れたしな」
「はあ……」
カネさんはよくわからないというようにあいまいな返事をした。
「とにかく、一度落ち着こうか」
彼女に椅子を勧めて私も座る。クレアが、『お茶をいれ直してきますね』と断って部屋を出ていった。
私の正面に座ったカネさんは、改めて見てもやはり美人だった。少しはかなげな印象もあり、ニュースペーパーの書き手と聞いて想像するのとはだいぶ違った。こんな線の細い女性がなぜ、と思う。
そこで、挨拶がまだだったことを思い出し、改めて名乗った。
「初めまして、
「いえ、こちらこそ急なことなのに会ってくださりありがとうございます。小田野カネです」
「いきなり尋ねて申し訳ないのですが、小田野さんはなぜエゲレス公使館に? いや、そもそもなぜニュースペーパーの書き手を?」
次々思ったことを尋ねると、カネさんは苦笑する。
「あの、その前に、敬語はやめてください。私は五十嵐様よりずっと身分が低いですから」
「む」
私はちょっと考えた。
「別に敬語をやめるのはかまいませんが、小田野さんはおいくつですか?」
「今年二十一になります」
「なら私より一つ上です。小田野さんは私の家来でもなんでもないのですから一緒に敬語をやめてください」
「いや、そうは言っても私は生まれは
困ったように眉根を寄せるカネさんに、続けて言う。
「小田野さんは、身分制度はお好きですか?」
少し意地悪な問いかけだった。
カネさんは少しの間黙っていたが、やがて、真剣な表情で言う。
「いえ、嫌いです」
「私もです」
思わず笑顔になって、言う。
「こんなところでまでお互いの立場を考えるなんて馬鹿馬鹿しいと思います。もちろん城や奉行所の中では意地を張ることはできませんが、ここはエゲレス公使館、日本の中の異国の地です。この中でくらい、身分を忘れて普通に付き合いませんか?」
カネさんはなおもためらっているようだったが、やがて淡いほほえみを浮かべてうなずいた。
「はい、では五月さんとお呼びしてもいいですか」
「はい、私もカネさんと呼ばせてもらいます」
私たちの間に流れる空気が少し弛緩した気がする。カネさんはほほえんだまま優しい声音で言った。
「聞いてたとおりの人ね、五月さんは。居留地の異人達に人気があるのもわかる気がするわ」
「そうなのか? たしかに子供にはよく声をかけられるが……」
「一度お話を聞いてみたいと思ったの。五月さんはそうやって騒がれるのが嫌いだと聞いていたから、今までなかなか勇気が出せなかったのだけど、思い切ってヴラドさんにお願いして良かった」
「あいつはカネさんと仲良くなりたかっただけだと思うが……」
「そうそう、最初の質問に答えないとね」
ぽん、と軽く手を合わせてカネさんが言う。最初の印象と違って、少女のように無邪気な笑い方をする人だ。
「私、もともとはあるイギリス人さんのお手伝いをするために横浜に来たの。と言うか無理矢理頼み込んで見習いにしてもらったのだけど」
「イギリス人?」
「ええ、チャールズ・ワーグマンっていう人なのだけど、知っている?」
「む……さて、どっかで聞いたような気もするが」
腕組みをして首をひねっていると、カネさんが風呂敷包みからなにやら取り出した。
「これ、今年発行された、『ジャパン・パンチ』の発行をしている人なの」
「おおっ! これは知っているぞ」
カネさんの取りだした本を見てようやく思い出した。横浜や日本で起こったことを、砕けた絵にして本にまとめた作者がたしかチャールズ・ワーグマンと言う名だった。絵が多くわかりやすい英語の本として、横浜に来たばかりの頃ヴラドが貸してくれたのだ。よく読んだので覚えている。
「これは本当におもしろい本だった。む。ということは、カネさんが見習いとして雇ってもらったというのは……」
「そう、このチャールズさんのところにいま住み込みで弟子にしてもらっているの。チャールズさんってものすごい絵が上手いでしょう。本格的な洋画を学びたくて、横浜まで尋ねてきたの」
「ほう。もともとの出身はどちらなんだ?」
「東北の秋田藩の出なの」
「秋田!?」
驚いて思わず叫んでしまった。私も行ったことはないが、雪深く険しいところだと聞いている。
「はー、それはそれは大変な旅だっったろうな」
「雪の季節じゃなかったから、女の足でもまあ何とかね」
カネさんもすこし苦笑いしている。それはそうだろう。想像以上に大変な旅だったに違いない。
「しかしそんな苦労をしてまでなぜわざわざ……藩命か?」
遠くから江戸や横浜まで洋学を学びにくる他藩の藩士は多い。どんなに過酷な旅でも、命令とあれば逆らえないのが武士の悲しさだ。
カネさんはゆるく首を振った。
「いいえ。私の家は禄高も低い下級藩士に過ぎないから、藩命をいただくことはないの。そもそも私は二女の
「では、なぜ?」
「……絵が、好きなの」
小さいが、思いのこもった声でカネさんは答えた。
「知らないと思うけど、秋田藩の小田野家は昔から
「ほう……」
秋田で
「子供の頃は絵の勉強はあくまで趣味で、極めようなんて思ってもいなかったけれど、そのうちにあの開国騒ぎがあったでしょう? 異人さんが大勢来て、蘭画や洋画に関する本や道具も大量に入ってくるようになったって聞いたら、いても立ってもいられなくなってね。そのうちにチャールズさんっていうものすごい洋画の上手い人が横浜に来たって聞いたらいよいよ我慢できなくなって、ダメもとで藩にお願いしたら、部屋住みがどこに行くのも自由と言うことになって……援助はないけど、とがめられることもなかったから、思い切って横浜に来てみたの」
「よく思い切ったなあ」
「親には死ぬほど反対されたけどね」
そう言ってカネさんはぺろりと舌を出しいたずらっぽく笑った。
「横浜に来たばかりの頃は右も左もわからなかったけど、なんとかチャールズさんへの伝手をたどって、会えたその日に弟子入りをお願いしたの。向こうは相当困っていたみたいだけど、こっちも今更藩には帰れないから必死に頼んだら最終的にはお願いを聞いてくれて、今はこうしてニュースペーパーの挿し絵画家見習いとして働いているというわけ」
「は~~~~~」
私は驚きの余り二の句が接げなかった。恐るべき行動力だ。並大抵の意思でできることではない。
なんと言っていいかわからず、ただ目を白黒させていると、ちょうど部屋へお茶を用意したクレアが入ってきた。
『お茶をどうぞ、オダノ様も』
「ありがとう」と礼を言って、カネさんはクレアの淹れたお茶をのむ。話通しで喉が乾いたのだろう。
私はと言えば、クレアのお茶に手を着けるのも忘れて放心していた。
……世の中にはすごい人がいるものだなあ。
『では、どうぞごゆっくり』
準備を終えたクレアがそう挨拶したところで、はっと我に返る。
反転して部屋の扉に向かう彼女に、あわてて声をかけた。
『あ、す、すまんクレアせっかくお茶を淹れてくれたのに礼も言わず』
クレアはボンネットを揺らしてくるりと振り向くと、いつものように優しい笑顔で、
『お気になさらないでください。大事な取材中なんですから』
『いやどちらかというと私が聞いていたところで……』
あたふたしていると、私とクレアのやりとりを見たカネさんが緩やかな声で尋ねた。
『なんだか随分と親しげだけど……お二人はどういう関係なの?』
エゲレス人の画家を師匠に持っているだけあって、さすがに見事な英語を使ってカネさんが尋ねる。クレアもちょっと驚いた様子だ。
クレアが扉の方から再び戻ってきて、カネさんの前に立ち、スカートを摘んで一礼する。
『初めまして、英国公使館付き女中のクレアと申します』
『小田野カネです。どうぞよろしく』
カネさんも丁寧にお辞儀を返す。
クレアが、少し恥ずかしそうにしながら話した。
『えっと、サツキさんとは直接何かの関係があるわけではないのですが、いつもとっても親しくしてくださって……。ヴラド様の警護で待機している間、一緒にお茶を飲んだり、おしゃべりしたりしているんです』
『クレアと話すのは楽しいし、待機中の時間があっという間にすぎるから助っているんだ。英語の勉強にもなるし、世話になってばかりだな』
『いえいえそんな! 私の方こそサツキさんとお話出来るだけその日一日楽しいんです! 最近は日本語も教えてくださって、本当に感謝しています』
『いやいや、こちらこそいつもおいしいお茶に菓子までいただいて申し訳ないくらいで……』
『いえいえいえいえいえ私のほうこそ……』
そのときくすくすと笑い声が聞こえた。見ればカネさんが口元を隠して小さく笑っている。
『お二人は本当に仲がいいのね』
『あ、いや……』
なんとなく恥ずかしくなって、クレアと顔を見合わせる。
こほん、と咳払いして話を戻す。
『えっと、それで、何の話だったか』
『私たちの関係は何かというお話です』
『そうそう、そうだった。つまり私とクレアは、一言でいうとだな……』
そこで、私は言葉に詰まった。
「……なんだ?」
つぶやき首をかしげる。
「どうしたの?」
カネさんが不思議そうな顔をする。クレアも目をぱちくりさせた。
『いや、考えてみるとどういう関係かわからなくなってな。ただの知り合いという浅い関係ではないが、仕事が同じわけでもないし、馴染みの客というのも違うし……。ああ~もやもやする! うまい言葉が見つからん』
クレアとはまだ出会って数か月しかたっていないが、時間では表せない親しい関係になれたと思っている。
なのにこれを表す言葉が見つからない。たしかな感覚が心にあるのに、言葉にできない。もどかしい。
言葉を探して頭の後ろをがりがりかいていると、カネさんがにっこり笑って口を開いた。
「何言ってるの、二人の関係を表すのにぴったりの言葉があるじゃない」
「なんだ。わかるなら教えてくれ」
「それはね…………百合よ!」
カネさんはちょっと勿体をつけてから、大仰なしぐさで答える
「百合?」
『英語で言うならLily』
『Lily?』
私とクレアは同時に首をかしげる。
『なんで私とクレアの関係が百合なんだ? というかそれは関係を表す言葉なのか』
『いや、ちょっと待って。私もこんなことを言う気はなかったのよ。なんか今急に頭に天啓がひらめいて……。いったいなんで百合なんて言ったのかしら?』
『いや、私に聞かれてもわからんが』
『う~~んわからない~~! でもなんとなくだけど百年以上未来には理由がわかる気がする~。二人の関係を百合って言ってる気がする~』
『いったい何を言っているんだ』
カネさんは頭を抱えてうんうんうなっている。どうしたというのだろう。
しばらくしてカネさんはうなるのをやめた。恥ずかしそうに咳払いをする。
『ンン、とりあえず気を取り直しまして、二人の関係を表すにはぴったりの言葉があるわよ』
『なんだ?』
『といっても英語なんだけどね。friend、っていう言葉よ』
『フレンド……』
聞きなれない言葉だ。
『日本人にはあんまりぴんと来ない言葉よね。私もうまく説明できないんだけど、特に親しい人のことを向こうではそう呼ぶらしいの。家族でも奉公先でもないけれど、とても大切な人のこと』
『家族でも、仕えているわけでもない相手、か……。たしかに私とクレアにはフレンドというのがふさわしいかもしれん』
しかしそういう言葉があるということは、外国にはそういうフレンドがたくさんいるということだろうか。家や役職にとらわれない自由な関係が普通に存在しているのだろうか。身分でがんじがらめに縛られた日本とは大違いだ。そういうところは少し外国がうらやましい。
なにはともあれ、これでもやもやはすっきり解決できた。フレンド。知ってみるといい言葉だ。
隣のクレアの手をしっかり握ってぶんぶん振った。
『よし、今日から私とクレアはフレンドだな!』
『は、はい。friend、friendです』
クレアはちょっと顔を赤くしてはにかんだ。相変わらずそういう仕草がとてもかわいい。
『えへへ、私、イギリス人以外のfriendはサツキさんが初めてです』
『私も日本人以外のフレンドはクレアが初めてだ』
クレアが不思議そうな顔をして言う。
『ヴラド様は違うんですか?』
『あいつは……まあ、あいつもフレンドと言ってもいいが……』
確かに日ごろからいろいろ世話になっているから、すでにただの異人と護衛役の関係とはいいがたい。毎日一緒の家で寝泊まりしているおかげで親しくもなったが……。
『ブラドは何を考えているかわからんところがあるからな。それに、あいつと親しくなったのはクレアのおかげだ。クレアは間違いなく初めての異人のフレンドだよ』
『なんか、そういってもらえるととっても嬉しいです』
クレアはますます顔を赤くして答える。
と、まだ手を握ったままだったことに気付いた。カネさんもすっかり置き去りにしてしまった。
『すまないカネさん、話がずいぶんあらぬ方向へ転がってしまった。取材の続きを……』
言いながらクレアの手をはなすと、思いもよらぬ鋭い声が飛んできた。
『待って! 二人ともまだ手をつないだままで! もうちょっとでスケッチが終わるから!』
『いったい何をやっているんだあなたは!?』
カネさんは膝の上に乗せた紙の上で、何やらものすごい勢いで筆を動かしている。
『なんか二人のこと見てたらすごいインスピレーションが刺激されたの! お願いあと10分そのままで!』
『だから何で急に私たちを描いているんだ!?』
うーん。
カネさんは見た目よりずっと変人なのかもしれない。
まあ女なのに絵師を、それも日本ではほとんど描く者のいない洋画家を目指そうというのだから、多少変わり者のなのは当然かもしれない。そういえば葛飾北斎の娘のお栄という人も、有名な女絵師だが変わり者という噂だった気がする。
まあ、剣でほとんどの男を倒してしまった私が言うことでもないのだろうが……。
結局私とクレアはカネさんのスケッチが終わるまで手を握り合ったままだった。
(つづく)
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