第五話 生麦村

 横浜で騒ぎのあった日から二、三日後の五つ半(※午前9時)頃、私はヴラドと連れ立って、英国公使館に向かっていた。こんなに早くヴラドが目をさますことも珍しいが、さらには昼のうちに出かけるとなるとこれは初めての事だった。

「いったい公使館に何をしに行くんだ」

「フフ、着けばわかりますよ」

  何度聞いてもヴラドはそう言ってはぐらかしていた。なんとなくいやな予感はしていたが、逃れられるはずもないので黙ってヴラドについていく。

 空はこの前と違い灰色の雲が厚く立ち込めていた。雨の心配はなさそうだったが、凍ったように動かない雲を見上げていると風までいっそう冷たくなったような心地がする。

 ヴラドが行くことは伝えられていたと見えて、公使館につくとすぐに奥へ案内された。そのまま部屋でしばらく待つように言われる。てっきり公使との仕事かと思ったがそうではないらしい。

 小半時もすると扉が叩かれ(ノック、というらしい)、部屋に新しい来客があった。

 入ってきた顔を見てぎょっとする。

「あっ、お前はこの前の!」

 街で助けたのにさんざんこちらを罵倒して帰っていった、あの嫌味な英国人がいた。先日とは服装が違い、先の丸まった黒い帽子に、細身の紺色をした外套を見につけ、灰色のズボンを履いている。一見するとエゲレスの男たちが着そうな格好だった。向こうにとっても私の存在は意外だったようで、いっぺんで不機嫌な表情になった。

「おい、どういうことだヴラド。いい加減何をしに来たのか答えろ」

『ちょっと、どういうことかしら。ここに日本人がいるなんて聞いてないのだけれど』

 ほとんど同時に私達は質問した。おそらくすべてを知っていたであろうヴラドは、飄然として答える。

『今日の護衛を、彼女に頼んではどうかと私がニールにおすすめしたんですよ、ミス・キューパー。ニールも、それはいいと承諾してくださいました』

 おそらく、承諾「させられた」のだろうな、と思うが口にはださない。護衛の話を私にも隠していたのは、来る前に話しては私が断ると思ったからだろう。ヴラドはいつも相手が逃げられないような罠の張り方をする。

『お断りするわ。私がニールに頼んだのは神奈川の地理に詳しい者であって、日本人じゃないわ。誰か別の、英国の兵士を呼んで頂戴』

 そうしたヴラドのことを知らないだろう貴族の娘は憤然として抗議した。ヴラドはにこやかな笑みを崩さないまま言う。

『それが、周辺の地理に明るいものは皆、急な演習が入ったとかで……護衛につけるものは誰も居ないんだそうです。残念ですね』

『じゃ、じゃあ今日はもう外出はやめるわ! 明日にする』

『私達外国人が関外への外出許可を得るのは大変ですよ。あの煩雑な手続きをもう一度するのですか? 次はいつ行けるかわかりませんよ』

『なら、私一人で結構よ。護衛はいらない』

『先日あんなことがあったばかりです。護衛なしでの遠出は禁止と、公使からも通達があったでしょう』

『うぐっ……』

 ついに貴族の娘は何も言えずに押し黙る。底意地の悪い笑みを浮かべてクスクスと笑ったヴラドは、次に私の方を向いた。

「と、いうわけで、よろしくお願いしますねサツキ」

「なんの相談もなしによろしくもないだろう。断る」

「おや、この件は神奈川奉行所にも話を通してあるんですが、あなたが下命を断ったと伝えてもいいんですか」

「む……」

 やはり、すでに手回し済みらしい。無駄と思いつつもヴラドに尋ねる。

「だいたい、お前の今日の護衛はどうするんだ」

「市中見廻組にお願いしました。せいぜい屋敷でおとなしくしていますから、ご心配なさらず」

「どうも向こうは納得してないみたいじゃないか。私だってお前ならともかく、こんなやつの護衛なんてしたくない」

「だからですよ。サツキにお互いの誤解を解いて欲しいんです。なに、国は違えど同じ人間同士、話せばすぐに打ち解けられますよ」

「もしや……お前まさか前に言っていた、反日のエゲレス人を親日派に変える役を私に頼んでいるのか? だとすれば隅田川で鯨を釣るより無理な話だ」

「そんなことありません。あなたが普段通りにしていれば十分できますよ。なに、護衛と言ってもほんの半日ばかりのことです。彼女の行きたい場所まで連れて行き、無事に戻ってくれさえすればいいんです」

「無茶苦茶な。だいたい遠出とは、どこまで行くんだ」

「それは彼女に聞いてください」

 ヴラドはそう言って貴族の娘を手ぶりで示した。彼女は唇を引き結んで、じっと私をにらみつけている。行き先を聞くどころか、口を利いてくれるかも怪しい。

 ため息も出なかった。ヴラドに言いたいことは山ほどあるが、これもお役目と思って飲み込むしか無い。

 一歩、貴族の娘の方に近づいた。彼女も一歩後ずさる。縮まりそうもない距離に、頭痛がする。

 いちおう友好的な態度を示してみようと、右手を差し出して挨拶する。

『あー、初めまして、ミス・キューパー』

 彼女は思いっきり私の手をはたくと背を向けて一人で部屋を出て行った。一度目の時よりはるかに強く叩かれ、じんじんと鈍い痛みが手のひらに広がる。

 黙って、ヴラドを睨みつけた。彼女は肩をすくめて、

「がんばってください」

 と言った。


 覚えていろ。





 貴族の娘を追いかけると、彼女は公使館の馬小屋にいた。当然のように馬の手綱を引いているので、慌てて手を広げて止める。

「待て待て待て、お前馬に乗れるのか?」

 思わず日本語で話してしまったが、意味は伝わったらしい。一度鼻を鳴らして彼女は言った。

『貴族ですもの、馬くらい乗れるわ。そこをどきなさい、怪我したいなら別だけど』

 言うが早いかひらりと馬にまたがった。その姿は堂々としていて、乗り慣れているようにみえる。遠出の外出とは馬の遠乗りの事だったのか、と驚いた。

 私は馬を用意していなかったが、厩舎番に聞くとすぐに乗れる馬を出してくれた。おそらくヴラドが手配してくれていたのだろう。

 馬術は修めていたが、西洋の馬は日本の馬よりずっと背が高いので少し乗るのに難儀した。苦労して跨った私を、貴族の娘は冷ややかに笑っていた。

『日本の女性は馬術も下手なのね』

『普通は乗らない。私が特別なんだ。お前の国では違うのか?』

『貴族ならだれでも乗れるわ。狩りだってできるのよ』

『そうか、変わってるな』

 変わってる、という言葉は彼女のかんに障ったようだった。語調を強くして言う。

『おかしいのはあなた達の方よ。余計なことは言わないで、早く道を案内しなさい』

 言い方にかちんときたが、ここで言い返してまた黙られても困るので、気にしないふりをして尋ねた。

『わかった、道案内をするのは構わないが、くれぐれも一人で先に行ったりするなよ』

『わかっているわ』

『それで、どこに行きたいんだ』

『東海道を走りたいの』

 頭のなかに地図を浮かべる。横浜は直接東海道とは繋がっていないから、関外からしばらく北へ進まなければならない。

『ここからすぐには出られないな。まず吉田橋から関外に出よう』

『わかったわ』

 言うが早いか彼女は突然馬を駆け出させた。私も慌てて追いかける。

『ま、待て! 先に行くなといっただろう!』

 叫んだが、彼女は止まらない。言うだけあって馬術の腕前は見事で、あっという間に距離を引き離されていった。もしかするとこのまま一人で先に行くつもりかも知れない。見失っては困るので、必死に追いすがった。

 西洋の馬は素晴らしい早さで走った。山手を降り、横浜の街をあっという間に駆け抜けて、関所のある吉田橋まで瞬く間に着いた。彼女が関で足止めされていたので、ようやく追い付くことができた。

『ま、待てといっただろう……』

 息を整えながら、彼女の隣に馬を進める。久しぶりの乗馬はなかなかきついものがあった。

『あら、ようやく追いついたの』

 対して彼女は息一つ乱さず悠然と馬にまたがっている。悔しいが、馬に関しては彼女の方に分があると認めざるを得ない。

『このまま来なかったら一人で行こうかとも思ったのに。まあ道案内が戻ってきてくれて助かるわ』

『すまないが、もう少し速度を落としてくれないか。西洋の馬は不慣れで……』

『いやよ。追いつけないあなたが悪いんだもの』

 関所を通って私が次の道を教えると、すぐにまた彼女は馬を駆けさせた。やむなく私もその後ろを追っていく。

 それから東海道に出るまでというもの、ひた走りに走り続けた。冬の大気は冷たく凍り、馬上で顔に当たる風は鋭く斬りつけてくるようだった。あたりの風景を見る余裕はなく、ただ前の馬の尻を見つめて追い続けた。

 やがて東海道に出て道幅がグッと広くなると、彼女は少しずつ馬速を緩めていった。ようやく追い付くことができて、隣に馬口を合わせる。

 見ると、今度は彼女も息を乱していた。

『はあ……はあ……、な、なかなかやるわね……。ほ、褒めてあげるわ』

『ぜえ、はあ、これに懲りたら私から逃げようとするのはやめろ……、急ぎすぎだ』

『は、まだまだ、本気は出して、いないんだから。甘く見ないで頂戴』

 言い返す気も起きず、黙って額の汗を手で拭った。冬だというのに大汗をかいてしまった。帰ったらすぐに湯屋に行きたい。

 彼女もさすがにもう追っかけくらをする気は無いようだった。ゆるやかに馬を歩ませて、街道を往く。

 東海道まで出たが、いったい彼女は何処まで行く気だろう。このまま進めば川崎だが、厄除大師を見物でもするのだろうか。まさか多摩川までは行くはずも無いだろうが、今ひとつ目的地がわからない。

 やがて一里ほども進んだ頃、彼女はさらに馬の足を緩めた。キョロキョロとあたりを見回して、何かを探している風だ。

『どうした? 探しものか?』

 尋ねると、彼女はためらいがちに口を開いた。

『ねえ、この辺に村はある?』

 私はようやく彼女の目的地を察した。前方の街道沿いに板葺き屋根の家がまばらに見える場所がある。それを指さして、

『あるぞ、あそこが生麦村だ』

 と答えた。

 彼女は黙って私の指差す方を見つめている。その瞳は何も移してはいなかったが、引き結ばれた口元がわずかに震えていた。

 少しして、私達は生麦村に着いた。小さな村のためか、昼間でも人気もなくひっそりとしている。韮山笠をかぶった旅姿の者と一度すれ違ったきりで、後は野良犬一匹も見かけなかった。村の入口にある大きな欅の木は裸の枝を寒空の中へ伸ばし、家の周りの荒薦も寂しく風にあおられていた。

 貴族の娘は生麦村の中の街道を、馬で何度も行ったり来たりしていた。私はそれを黙って見つめた。やがて彼女は道の中ほどで馬を止め、十字クルスを切って目をつむり祈りだした。

 この村では今年の八月に英国人への刃傷事件があったばかりだ。もしかすると彼女の身内に、事件と関わり合いになった者がいたのかもしれない。そう思うと私もやりきれなかった。

 祈りを終えたらしく、彼女は顔を上げて目を開いた。馬首をめぐらして私に言う。

『もういいわ。横浜に戻りましょう』

 私は頷いて、馬を帰り道へと向けさせた。お互い黙ったまま、村を出て行く。

 生麦村を後にして二、三町もいった頃、私は彼女に尋ねた。

『お前もしや……生麦村の事件に、なにか関わりがあったのか?』

 彼女はすこし黙ったが、やがて低い声でささやくように言った。

『事件に巻き込まれたボロデールさんと仲が良かったの。幸い彼女は無傷ですんだけど、かわいそうに事件の夜から怖くて横浜の外へ出られなくなったわ。彼女はこの国へ観光しに来ただけだったのに』

『そうか……』

 沈鬱な表情に、なんと声をかけたらいいかわからなかった。私自身はあの事件は英国人の方に非があると思っている。が、思っていてもそのことは言わなかった。言ってはならないことは私でもわかった。

 何も知らずに、彼女は日本人が嫌いな英国人なのだと思っていた。そのことを、心の中で恥じる。





 私達はそれきり何も話さず、東海道を下った。やがて日が真上に輝き、横浜へと続く脇道に差し掛かった。

 なんの前触れもなく、彼女がパッと馬を駆けさせた。横浜への道に入り、泥を跳ね上げ走ってゆく。その姿はみるみる小さくなっていった。

 ややして、また逃げられたことに気づいた。もう帰りは一本道だから、道案内も必要ないと考えたのだろう。慌てて手綱を操って彼女を追いかける。

 まだ本気を出していない、という彼女の言葉に嘘偽りはなく、今度は容易に追いつけなかった。じりじりとその差は広がっていき、九町も先をいかれると草薮で隠れてその姿を見つけるのも困難になった。私の馬もよく走ってくれたが、技術の差は如何ともし難い。

 結局横浜の関まで姿を見つけることはできず、出てきた吉田橋に戻ってきた。朝はここで追い付くことができたが、今周囲にその姿はない。聞けば、一足違いで彼女のほうが先に関内へ戻ったのだという。関所の検分が終わるのをイライラしながら私は待った。出る時と違って横浜へ入るときは、異国人より武士のほうが治安のため厳重に詮議されるので、関内へ入るのに思った以上の時を費やした。

 入るとすぐに本町通りへと抜けた。どうで馬は公使館に返さなければならないのだから、彼女もきっと公使館を目指すはずだ。日が高くなり賑やかになった本町通りは人であふれているので、誤ってぶつからないよう気をつけて走らなければならなかった。これが彼女にも遅れをもたらしていればいいと、馬の背で思う。

 やがて、周囲の様子がなにやらおかしいことに気づいた。先ほどまで穏やかだった通りが、にわかに騒がしくなっている。こちらに向かって必死の形相でかけてくる人もいた。その内の一人が大声で何事か叫んでいる。

「熊だ! 熊だ! 熊が出た!」

 わっ、と周囲で叫び声が上がった。穏やかだった通りは一変し、逃げ惑う人々で溢れかえる。人なだれに押されてもはや馬にも乗っていられず、仕方なく裏通りに入った。馬を降りて適当な木に手綱を結わえ付けると、馬はおとなしくしてくれたので私は急いで大通りへと向かった。

 逃げてくる人の流れに逆らって、私は本町通りを進む。四、五町ほどもゆくと、どの人々も恐怖に襲われて、半狂乱になって逃げていた。熊のいる場所が近いことを肌で感じ、さすがに冷や汗が流れる。

 やがてふっつりと人波が途切れた。通りの真ん中には熊の大きな姿があり、その前にはあろうことか、探していた貴族の娘が腰を抜かして座り込んでいた。近くには熊に殴り倒されたのか、馬が血にまぶれて転がっている。怒り狂っている熊は立ち上がり、その鋭い爪を今度は彼女めがけて振り下ろそうとした。

 無我夢中で飛び出していた。彼女の身体を抱きしめると、その勢いのまま道の端まで地面を転がった。振り向くと、刹那の差で熊の爪は空を切っている。

 熊は怒りに燃える瞳を私に向けた。抱えていた彼女を熊とは逆の方に突き飛ばし、叫んだ。

「遠くに逃げていろ。とにかく離れるんだ」

 彼女は恐怖を顔に張り付かせたまま、転けつまろびつ逃げていった。私は刀を抜いて、熊と対峙する。

 幸い熊の興味は完全に私の方に映っていた。熊は巨大な前足を広げ、大きく一度吠える。次の瞬間猛然とこちらに突進し、牙を向いて襲いかかってきた。後ろに飛び下がりざまその右前足を切りつけたが、少しも怯む様子がない。むしろ牙を打ち鳴らし、ますます猛り狂っていく。

 一か八か、下がるのではなく熊の懐に飛び込んでみることにした。熊が大きく爪をふるうのに合わせ、姿勢を低くし前に突っ込んでいく、紙一重の差で熊の腕を交わし、急所と言われる月の輪のところを深く斬りこんだ。

 その一撃で熊は動きを止めた。刀を引き抜くと、そのまま今度は腹を断ち割った。これでさすがの熊も息絶え、ゆっくりと後ろ向きに斃れ伏した。ズシン、と岩でも落ちたような地響きが辺りを揺らす。

 獣の熱い血を浴びたまま、少しぼう、としていた。さすがに熊を倒すのは初めてのことで、心臓が早鐘のように打っていた。

 やがて正気に返って、懐紙で刀の血を拭う。そのまま鞘にしまおうとするが、途中で引っかかって奥まで入らない。よく見ると刀身が少し曲がってしまっていた。仕方なく身体に巻いていたさらしを取って、刀身に巻きつける。

 異人の娘はどこにいるかと姿を探すと、彼女は一、二町ほど離れた場所で、街の人々と共にこちらの様子をうかがっていた。

 刀を肩にかつぎ、彼女の元へゆく。

『怪我はなかったか?』

 そうたずねると、彼女は小さく首を縦にふった。ひとまず安心して力を抜く。

『あ、あの、ありが……』

 彼女が何かを言いかけていたが、それをさえぎった。

「まったく、あれほど勝手に行くなといっただろう! 無事だったから良かったようなものの、もっと自分の身を大事にしろ!」

 今までの怒りがあふれてしまい、気づけば大声で叱りつけていた。彼女は目を大きく見開いて、口をパクパクさせている。自分が日本語で話してしまっていたことに気づいて、英語で言い直した

『今度は一緒に公使館まで戻ってもらうぞ、いいな!』

 そう言うと、彼女はきっ、とこちらを睨み、立ち上がった。

『何よ、助けてくれなんて言った覚えはないわ!』

『何だと!』

『あなたが勝手に助けたんじゃない。いいからさっさとその血を拭いて頂戴、獣臭くて敵わないわ』

『な……、こっちはお前を助けるために熊と戦ったんだぞ!』

『野蛮な者同士ちょうどお似合いの相手じゃない』

「貴様っ、よくもそんなことを」

 最後の自分の言葉は日本語だった。さすがに堪忍袋の緒が切れて、彼女の細い腰に腕を回すと、そのまま一気に抱え上げた。肩に担ぐと、彼女は悲鳴を上げる。

『何するのよ、離して!』

『離さん。このまま公使館まで連れて行く』

『ちょっと、冗談じゃないわ。なんて無礼な日本人なの。降ろしなさい、今すぐに!』

 文句と罵倒を無視して通りを歩いて行く。背中を拳で叩かれたが、痛くもかゆくもなかった。

 私はそのまま本町通りを抜け山手の急坂を登り、公使館にたどり着いた。門をくぐって奥へ進む私を、門番が唖然として見送った。玄関に入ると、出迎えたヴラドやニールが目を丸くしている前を通り過ぎ、最初の応接間に彼女を放り込む。

『いった! 何するの、ひとでなし、このクズ、○○○○!』

 嵐のような文句が飛んできたが、無視して部屋の扉を締めた。罵倒はほとんど聞こえなくなり、ようやく静かになる。

 近づいてきたヴラドに、扉を指で示しながら言う。

「疲れた、あとは任せる」

 そして、まずは顔を洗うため洗面所に向かった。





 公使館の風呂場を借りて熊の血を洗い落とし、着物を着替えるとようやくさっぱりした。身なりを整えて部屋から出ると、廊下ではヴラドが待っていた。

 早速彼女に文句を言う。

「お前のせいでひどい目にあったぞ。馬で駆けまわるし熊と戦う羽目になるし、刀も直さなくちゃいけない」

「それはお疲れ様でした」

 まったく悪びれずにヴラドは言う。

「あいつはどうした?」

「先ほど自身のお屋敷に戻りました。いやいやなだめるのが大変でしたよ。迎えの馬車がくるまでミス・キューパーの叫んでいた罵詈雑言をまとめたら、英語のスラング辞典が作れますね」

 おかしそうにクスクス笑いながらヴラドは言った。

「そうそう、街では素晴らしい活躍だったそうですね。あとでニールが直に礼を言いに来てくれるそうです。街に現れたという熊は、見世物師のところから逃げ出したものらしいですね」

「そうだったのか」

 すると、昨日街で見かけた熊だ。仕方ないとはいえ、命を殺めてしまったことに気が重くなる。ヴラドが話を続けた。

「それと、ミス・キューパーからも言付けがあります」

「なんだ」

 聞き返すと、ヴラドはコホン、と咳払いして言った。

「『今日は最悪の一日だったわ、舌を噛み切って死んだ方がマシってくらい。あなたの名前はよく覚えたから覚悟しておきなさい』」

 無駄にうまい声真似でヴラドが言う。こいつは本当になんでもよくできる。

「『あと、あなたの英語の発音、子供みたいで聞きづらいったらなかったわ。もっと練習しておくように。それから、いつまでも‘you’なんて呼ばないで。私にはスカーレットっていう大事な名前があるんだから』、……だそうです」

「何だそれは。つまり次会うときは名前で呼べということか?」

 首をかしげると、ヴラドがクスクス笑う。

「言ったでしょう、あなたが普通にしていれば親しくなれると。あなたも、今日でいくらかうち解けたのではないですか」

 とんでもない話だった。盛大にため息をつく。

「いいや、もうこりごりだ。やっぱり異人は嫌いだよ」


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