第四話 日本嫌いのお嬢様

 横浜の山手は山とも呼べない小高い丘の上にあるが、それでも一度登れば海に面した横浜の街を一望できる。山手から見て手前が異人の居留地、奥が日本人の住む街だ。

 何軒もの大きな建物が軒を連ねる姿は、数年前までさびれた寒村だったとはとても思えない。街の周りは水をたたえた掘割に囲まれ、海に向かって開けているから、まるで街全体が海に浮かんだ島のように見える。

 英国公使館の庭で、私は横浜の街を見るともなく眺めていた。

 山手に作られたこの役館の庭では、午後の茶会が開かれている。色とりどりに着飾った人々が銘々庭に出された椅子に座り、紅茶を片手に歓談している。そこにはもちろん私が警護しているヴラドもいた。奥まった、大きな木が枝を張り出し影を落としている席に座って紅茶を飲んでいる。

 今日は十月の末にしてはよく晴れて、わりに温かい陽気だった。だからエゲレス人達も外で茶会をする気になったのだろうが、そんな日でもわざわざ日陰を選ぶヴラドの気が知れなかった。

 彼女と出会ってもう一月以上過ぎたが、陽の光を浴びている姿をまるで見かけない。日に焼けたことがないのだろう、ヴラドの肌は病人のように真っ白いままで、白髪にも見える銀髪と相まって幽霊のかと思うこともある。別手組になってから異人の生活に面食らうことは数あれど、ヴラドほど変わった人間には出会わなかった。昼間はほとんど眠っていて、たいてい日の傾きかけた頃に起きだすし、出かけるときは必ず背の高い帽子と長い外套を身に着けている。いつも笑顔を浮かべているが、何を考えているのかまるでわからない。恐ろしく頭がいいのと商売がうまいのだけは確かだった。

 そんなことを考えていると近くに誰かが立つ気配がした。ふりかえると、女中のクレアがにこやかに笑っている。彼女は焼き菓子の乗る皿を前に掲げて言った。

『サツキさんもいかがですか』

 初めて出会ったころと比べてだいぶ彼女の言葉もわかるようなってきた。素直で優しい彼女は、他の異人と違ってとても話しやすい。

『いや、菓子はいらない。ただお茶があればいただこう』

 私が英語でそう答えると、クレアはやや残念そうな顔をする。

『最近お菓子を召し上がりませんね。遠慮なさらないでください』

『いや、違うんだ。正直菓子はヴラドの屋敷で食べ飽きていてな』

 ヴラドは茶と砂糖の貿易を主な商いにしている。そこで屋敷には輸入された砂糖やそれに付随する菓子がふんだんにあり、私も時々その味見をさせられているのだった。どちらかと言えば素朴な干菓子のほうが好みなので、異国の甘すぎる菓子にはややへきえきしている。

『そうですか。では緑茶を用意しますね』

『ああ』

 クレアはそう言って奥へ消えた。やがてお盆に湯のみを載せて戻ってくる。彼女の気遣いに礼を言って、湯のみを受け取った。

 クレアのお茶の淹れかたはどんどん上手くなって、ほとんど日本人が淹れるのと変わらない美味しさだ。温すぎず、熱すぎず、ちょうどいい温度で運んでくれる。

 警護役としてここに来てはいるが、英国公使館の庭で何か事件が起きそうには思えなかった。冬の太陽が投げかけるやわらかい光の中で、人々は笑いさざめいている。海の方を見れば波も穏やかで、大きな異国の船が波止場に錨を下ろしていた。ここだけ見ればまるで天下泰平そのもので、世の騒擾とは無縁の場所に見える。

 が、見えるだけだ。

 血風吹きすさぶ京の都は比較にならないにしても、近くの江戸ですら押し込み、辻斬り、放火が横行していると聞く。

 まして来年には将軍家が数百年ぶりに上洛するとの噂で、日本中上から下への大騒ぎだ。ここ横浜も少し前まで異国人を狙う刃傷事件が相次ぎ、今も喧嘩や小さな騒ぎはしょっちゅう起きている。これからヴラドを警護して屋敷に帰るときも、きっと何かしらの騒ぎが起きるだろう。

 だというのに、ヴラドはむしろ進んで喧嘩を眺めに行くところがあった。私がどんなに危ないから離れろと言っても、聞く耳を持たない。

 裕福な商人は普通の遊びでは満足できなくなると決まって危険を愉しもうとするが、ヴラドのそれも似た悪癖なのだろう。やめろと言ってもやめるものではないから、警護役として悩みの種だった。





 七つ(午後四時)過ぎ、茶会はお開きになり、ヴラドはようやく公使館を後にした。山手から街へ、急な坂道を下りながら私は尋ねる。

「この後はどうする? 屋敷に戻るのか」

 ヴラドは外套の胸元から懐中時計を取り出し、今にも没しそうな西日を見て言った。

「もうすぐ日が落ちますね。せっかくですからこのまま港崎みよざきまで行きましょう」

「また女遊びか。よく飽きないな」

「私にとっては食事と同じですから。それに、今日は中引で済まします」

「そんな言葉どこで覚えてくるんだ」

 普通異人は使わなそうな隠語もすぐに覚えていくヴラドに呆れる。港崎ではすっかり得意の客になった彼女だから、きっと馴染みの遊女達に教えてもらったのだろう。今日は泊まりでないと知って彼女たちも残念がるかもしれない。

 話をしていると本町通りに出た。幅が十間(※約18メートル)もある大通りは、街の中央を東西に貫いている。脇には大小様々な店が軒を連ねていて、まだ暮六つ(※午後6時)の鐘には早いせいか多くの人で賑わっていた。何処かへ足早に過ぎ去っていく中年の町人、集まって世間話をしている女たち、荷駄を数人がかりで引いている人夫、棒を振りながら声を上げて野菜を売り歩いている若い男……夕焼けに染まる横浜の街は、さいわい平和な様子だった。事件といえば、若い女中が魚を犬に取られて追いかけているくらいか。

 私とヴラドは本町通りをゆっくりと歩いて行った。通りの周囲は異人の居留地だが、日本的な建物が多い。それが逆にヴラドには珍しいらしく、こうして街を歩くときはあれやこれと指をさして質問してくるのが常だった。

 ことに今日は普段ヴラドの出歩かない、日のある時間だから、なおさら興味を惹かれたのか辺りをキョロキョロと見回している。通りの脇では見世物師たちが最後の一仕事をしていて、その見物人で所々人の混み合っている場所があった。歩きながら横目で見ると、清国人らしい軽業師が見事な芸を披露しているのがあり、飼い慣らした猛獣で見世物興行をしているのがあり、夕方でもなかなか流行っているらしかった。

 ヴラドが、ふと熊の見世者の前で立ち止まったので私も足を止める。首輪を鎖で繋がれた熊は、ちょうど見世物師の合図で二本足で立ち上がったところだった。

 熊を指して、ヴラドが話しかけてくる。

「日本の熊は喉に変わった模様がありますね」

「月の輪か。エゲレスにああ言う熊はいないのか?」

「いませんね、初めて見ました。なるほど、月の輪とは美しい表現をしますね」

 他にも猛獣興行のところには豹だの大蛇だの珍しい生き物がいた。正直私はあまり猛獣が好きではない。どうせなら猫とか子犬とか、もっと可愛らしい物を見せてくれれば良いと思うのだが、珍しい物好きの横浜の人間にはこちらのほうが良いのだろう。

 ヴラドはしばらく熊を眺めていたが、やがて満足したのか再び歩き始めた。が、半町も行き過ぎないうちにまた別のものに目をつけた。


「サツキ、あれは何を売っている店ですか?」

 ヴラドの指差すほうには盛んに煙を出している小さな店があった。軒に墨で「八里半」と書かれた旗がぶら下がっている。

「ああ、あれは焼き芋屋だ」

「焼き芋? しかし、里とは確か日本の距離の単位ではなかったのですか」

「洒落だよ。くり(九里)と同じくらい甘い芋を売るから八里半・・・・・・、その様子だと食ったこと無いんだな。少し待っていろ」

 私は焼き芋屋に近づいて、店番をしている主人に声をかけた。二人分の芋を包んでもらうと、自分の巾着を出して駄賃を支払う。まだ湯気の立っている芋を受け取って、ヴラドの元に戻った。

「食ってみろ、うまいぞ」

「おやどうしたんです、やさしいですね」

「・・・・・・嫌ならいい、私一人で食べる」

「これは失礼、いただきますよ」

 そういってヴラドは焼き芋のひとつに手を伸ばした。

「エゲレスに焼き芋は無いのか? 何処にでもありそうなものだが」

「ロンドンで焼いたジャガイモを売っているのは見たことがありますね。しかしsweet potato は見かけませんでした。……はぐ、ん、名前の通り甘いですね。おいしいです」

「うまいか、良かった」

 異人に日本の食べ物をうまいと言ってもらうと、なぜかしら誇らしい気持ちになる。ことにヴラドは普段から砂糖の商いで甘いものは食べなれているから、彼女に素朴な芋の甘みを美味しいと言って貰えるのは素直に嬉しい。

 二人で焼き芋をかじりながら、またぶらぶらと本町通りを歩く。宵闇は少しずつ迫ってきたが、まだ提灯を出すような暗さではない。

 両端の店についてヴラドにあれこれ質問されるのを答えながら、二、三町ほども歩いたときだった。

 なにやら往来の真ん中に人垣が出来て、通行の邪魔になっていた。見世物師が人を集めて興行しているわけでもなさそうなので、私はすこしく不審に思った。

「何かあったかな」

「事件でも起きたんですかね」

 早くもヴラドが楽しそうな気配を見せたので、内心嘆息する。このままでは道を通れないのは確かなので、様子を見るため人垣の後ろについた。近くにいた職人らしい二十歳くらいの若者に尋ねる。

「何かあったのか」

 相手は私を見上げてぎょっとしたが、腰のものを見て丁寧な口調で答えてくれた。

「これはお侍様、実はあっしも詳しくは分からないんですが、前のほうでお侍様二人と異人の女子二人連れが言い争っているんです。どうもお侍様のほうが何か異人に難癖をつけたのが諍いの始まりのようで」

 人垣越しに見ると、確かに異人の女二人連れが浪人らしい男二人に詰め寄られていた。異人の女二人はその格好から、主人と従者らしい。屋敷への帰り道だったか、市内を見物していたのか、ともかく警護をつけないまま通りを歩いていて、運悪く争いに巻き込まれたのだろう。周囲を取り巻いている人々は心配そうに顔を見合わせて、何事かささやきあっているが、助けようとするものはいない。浪人のさしている刀に怯えて、手出しが出来なくなっているようだった。

 しかしこれだけの騒ぎになっていれば、すぐにでも市中見廻組が駆けつけてくるだろう。よりにもよってこの横浜で異人と諍いを起こすなど、浪人のほうの格も知れる。この人だかりの前でよもや斬りかかりもしないだろうが、格の低いものほどかえって大きな騒ぎを起こすこともあるから油断はできない。

「さっき話してた難癖とはどういうことだ」

 先ほどの職人に尋ねると、腕組みをしながら彼は答えた。

「いや、きっかけはひどくつまらないことのようで……、何でも往来であのお侍さんと異人の肩がぶつかったのに、異人のほうが謝らず通り過ぎたのをお侍さんたちがとがめたらしいんです。この混雑ですから肩がぶつかることもありましょう、それをあのお侍さんたちは、手をついて詫びろ、さもなくば斬る、と凄んだんですよ。さらには言い争っているうちに、百両の詫び金を払えと途方もねえことを言い出して」

「あきれた奴らだ」

 思わず舌打ちした。どう考えてもあの二人組の目的は後のほうだろう。

 伊豆の海に黒船が現れてからというもの世情が騒がしくなって久しいが、こういうくだらない連中が湧いて出てきたことが一番腹立たしい。攘夷と称して異人を切るのは論外だが、攘夷を笠にしてこうした無法をはたらくのもまた同じようにとんでもないことだった。大方あのふたり組も本当の攘夷志士ではないだろう。食い詰めた浪人か、たちの悪い御家人か、ともかくもそんなゴロツキに目をつけられた異人の娘が哀れだった。

 そう思っていると、後ろから指でつつかれた。

「ねえサツキ、もっと前のほうで見ましょうよ」

 ヴラドがそう言って私をせっつく。あまり関わりあいにはなりたくなかったが、放っておくとヴラド一人でも行ってしまいそうなので、しかたなく人混みをかき分けて私は前のほうに出た。後ろからヴラドもついてくる。

 人垣の一番前まで来ると、言い争っている異人と浪人ものの姿がよく見えた。浪人たちは見せびらかすように刀の柄に手をかけながら詰め寄っている。異人の主従は身を寄せ合うようにして縮こまり、従者のほうは涙ぐんでさえいた。

 浪人たちはどちらも年頃二十五、六の、色の浅黒い、あまり人相の良くない若者だった。異人の二人は、従者のほうが背も小さく幼い顔立ちをしていた。異人の年はわかりづらいがまず十四、五歳くらいだろう。

 主人のほうは年頃十七、八に見える娘で、いかにも貴族らしい立派な身なりをしていた。こちらはさすがに気丈にふるまって浪人たちを見上げていたが、従者をかき抱く手は震え、花のように大きく広がったドレスの裾は砂に汚れている。そういえばヴラドが以前、エゲレス貴族の娘がはく大きいスカートは非常に動き辛く、とっさのときに逃げ遅れることが多いのだと教えてくれたことがある。きっと浪人たちに絡まれたときもそれですぐにその場を離れられなかったのではないかと察せられた。

 そのときうしろでヴラドが、おや、と声を上げた。見れば貴族の娘の方に視線を当てている。

「知り合いか?」

「直接話したことはありませんが、顔は見たことがあります。キューパー提督のご令嬢ですね」

「そうか、災難だったな」

「相手は攘夷志士でしょうか」

「いや、おそらく違うな。たぶんどこかの屋敷の中間あたりだろう。刀を持って気が大きくなっているんだろうな」

「何故わかるんです」

「私の足を見てみろ」

 私は袴の裾をつまんで持ち上げた。

「左右で太さが違うだろう? 武士は普段刀を腰にさしているからどうしても左足が太くなるんだ。で、あいつらは」

 あいつら、と向こうを顎でしゃくる。

「両足の太さが違わない。普段刀を差すことに慣れていないだろうから、あんなこれみよがしにいじっているんだ。おおかたどこかで刀を手に入れたばかりの中間か、浪人のたぐいだ」

「なるほど」

 ヴラドが納得したように頷く。その視線がまだ私の足に注がれているので、あわてて袴の裾を戻した。

「あんまり見るな、恥ずかしいだろ」

「あなたが見せたんじゃないですか」

「見すぎだ」

「きれいな足でしたね」

「うるさい」

 ヴラドと言い合ってる間に、異人に絡む二人の町人の声は高くなっていった。いよいよ荒っぽく、娘をいたぶっている。

 少しいらだってきた。

「遅いな、見廻組は何をやっているんだ」

「どうもすぐには来そうもないですね」

「しかたない、ちょっと預かっていてくれ」

 ヴラドに芋の包みを渡す。驚いたように彼女は言った。

「助けるんですか? 異人は嫌いなはずでは?」

「だからといって、放っておくわけにもいかないだろう」

 私はまっすぐ浪人組の元に向かった。いきなり荒っぽい真似はしたくないので、うしろから声をかける。

「その辺にしておけ、もうすぐ見廻組が来るぞ。今ならまだ間に合うからどこへなりとも失せたらどうだ」

 男たちは剣呑な目つきで振り返った。が、私が女だと見てとったのか、すぐに侮るような笑いを口の端に浮かべる。

「おい姐さん、誰だかしらねえが口を挟まねえでくれ」

 浪人の一人が嘲るように言った。続けて隣の男も口を添える。

「お呼びじゃねえから向こうに行ってな。その顔に余計な傷をこしらえることになるぜ」

「威勢がいいのもその辺にしておけ、これでも私は別手組だ。今なら見逃してやるから、早く消えたほうが身のためたぞ」

 別手組の名を出せば向こうもおとなしくなると思ってそう言った。が、浪人たちはきょとんとした顔をすると、すぐに笑い出した。

「ははは、馬鹿馬鹿しい、姐さんに別手組が務まるなら俺は御先手組になれる。つくり話にしてももう少しうまくやったほうがいいぜ」

 浪人の一人が頭から馬鹿にしてそう言う。

 少しく当てが外れてしまった。横浜に来てもう一月は経つから少しは顔は知られていると思ったのだが。確かに女の身で別手組など、普通は信じないかもしれない。

 相手はいっそう強気になって、私を脅してきた。

「おう姐さん、いいからさっさと引込みな。これ以上横槍を入れると容赦しねえぜ。はばかりながら俺たちは命を惜しむようなことはねえ。見廻組だろうが、外国御用だろうが食い物にゃあならねえ、ましてやあんた見てえな女にあげられる俺達じゃあねえよ」

 むこうとしてはすごんだつもりなのだろうが、私より背が低いので今ひとつ迫力にかける。素人だとわかっているのであまり腕ずくで抑えるのはしたくなかったが、こうなれば仕方ない。

「一人斬るのも二人斬るのも同じことだぜ、ぐずぐずしてねえで素直におとなしく……」

 相手が言い終わらぬうちに、みぞおちに当て身を食らわした。凄んできた浪人はうめいてその場に崩れ落ちる。もう一人の浪人が慌てて刀を抜いたが、手刀ですぐにはたき落とした。相手は刀を拾おうと慌てて手を伸ばしたが、しびれたのだろう、柄を持ち上げることができなかった。

「まだやるか」

 訊くと、浪人の男は這いつくばった。

「畜生」

 相手はうめいたが、敵わないと覚ったのかおとなしくなる。あんまり意気地がないので逆に拍子抜けした。

 折よく後ろから馬の蹄の音が聞こえてきた。遅い見廻組がようやく到着したらしい。

 浪人たちがそれ以上手向かいしないのを確認して、異人の娘を助けに行った。

「大丈夫だったか?」

 貴族の娘は地面に座り込んだまま目をいっぱいに見開いていた。立ち上がれないようなので、片手を差し出す。

「つかまれ」

 貴族の娘が、私の手を見た。

 パチン、と乾いた音がした。


『触らないで、汚らわしい。日本人のくせに』


 一瞬、何が起こったのかわからず、何もできなかった。ややして、自分の右手がはたかれたのだと気づく。貴族の娘は自分で立ち上がると、傍らで守っていた従者を助け起こした。そして憤然とした表情で言う。

『あなた達のせいでひどい目にあったわ。相変わらず最低の人種ね。お父様に言って抗議してもらうからそのつもりでいなさい!』

 青い目を燃やすようにして彼女は憤っていた。おそらく彼女は私が英語を聞き取れることをわかっていない。一方的に自分の言いたいことを、まくし立てているように見えた。

『まあまあミス・キューパー、少し落ち着かれては? 一応そちらの危機を救ったのはこちらのサツキなんですから』

 そのとき、後ろから声がした。いつの間にか近づいてきたヴラドが、貴族の娘に話しかけていた。

 貴族の娘は今度は冷笑してヴラドに答える。

『あなたのこと知っているわ。東欧の田舎貴族ですってね。夜な夜な女性と遊び歩いているとか……話しかけないで、耳が腐るわ』

『これは、なにか誤解があるようですね。私は女漁りにしか興味のない放蕩貴族ではありませんよ……。それはそれとして、何故そんなに怒っているんです。サツキがなにか失礼なことでも? でしたら私の警護役ですから、私が代わりに謝罪しますが』

『失礼? 決まっているわ、日本人が存在していることそのものが許しがたい悪よ。おかげで今日もこんなにひどい目にあった』

『ですが、それをお救いしたのも日本人ですよ。そもそも、今の横浜で護衛を連れずに出歩くのはいささか不用心だったと思いますが』

『それは神奈川奉行の連中が私にサムライを護衛につけるなんて言うからよ。こっちから断ってやったわ。こんなことになるならイギリス陸軍に頼んで護衛してもらうんだった』

『怪我が無いようで何よりです。いっそこのままお屋敷まで送りましょうか?』

『結構よ。日本人に護衛されるなんて絶対に嫌。見てれば彼女、素手で殴り倒していたじゃない。蛮族の女はやっぱり粗野で下品ね。信じられない』

 貴族の娘がヴラドと素早い英語で話しているので、口を挟むことができなかった。彼女は言いたいだけ言うと、さっさと一人歩き出した。従者がこちらに一度頭を下げて、慌てて追いかけていく。私はただ呆然と、彼女たちが人混みの中に消えていくのを見送った。

 ようやく衝撃から立ち直ると、彼女の消えた方を指さしながら思わず叫んでいた。


「何なんだあの女は! 私はあいつを助けたんだぞ! 礼を言われるならともかく、罵倒されるなんて思っても見なかった」

「イギリス海軍のキューパー提督は反日強硬派で有名ですからね。自然彼女も影響されたんでしょう。それに、正直あのくらいの人はイギリスでは珍しくないですよ」

「それは、いや、わかっていたんだが」

 

 思わず頭を振る。ヴラドが、尊大とはいえ割と友好的な態度で接してくるのでつい忘れてしまっていたが、多くの異人は日本人のことを見下しているのだ。それをまざまざと見せつけられて、悔しいやら悲しいやら、どんな顔をすればいいのかわからない。

「あそこまで言われたのは初めてだ。日本人をなんだと思っているんだ」

「ああいった反日派が少なくなってくれると、私ももう少し商売がやりやすくなるんですがね」

 そういえば意外だったのは、同じく人前で罵倒されたのにヴラドが一言も言い返さなかったことだ。今もほとんど怒っているようには見えない。

「珍しいな、お前があそこまで言われて怒らないなんて」

「彼女は美人でしたからね」

「お前……女を顔しか見ていないのか?」

「身体も見ていますよ。さて、私達も行くとしましょうか。すっかり遅くなってしまいました」

 ヴラドはそう言って、私の先に立って歩き始めた。見ればいつの間にか夕日は沈もうとしていた。東の空では星が一つ二つ、弱い光を放って浮かんでいる。

 さっきの嫌な出来事を振り払うように、もう一度頭を振ってヴラドを追いかける。


「やれやれ……、そういえばヴラド、芋の包みはどうした?」

「海風が出てきましたね……冷え込まないといいのですが」

「おい待て。全部食ったのか、食ったんだな!?」

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