第二話 横浜にて



 次の日から、横浜での新しい生活がはじまった。

 ヴラドは昼間は寝てるか机上の業務をこなし、午後、それも夕方以降を好んで外出した。外出の時はもちろん私も、ヴラドの身辺を付かず離れず護衛した。

 ヴラドは遊び好きな面はあるが仕事はなかなか勤勉で、様々な書類を作成したり各国の商人と会合したりと精力的に働いていた。特に情報を重視しているらしく、部屋はすぐに手紙や外国の本、書類で溢れかえった。各国公使や幕府の役人とも頻繁に会合し各地の情報を集め商売に活かしているようだった。

 日程は多忙を極め、午後の外出は公使館から商館を何軒もはしごするのが普通だった。ヴラドについて歩くだけで私もすっかり横浜の地理に詳しくなってしまった。

 

 数日が経ったある日のこと、ヴラドが家移りすると言い出した。


「前々から頼んでおいた屋敷の準備ができたとのことで明日ホテルを引き払います。ヴラドも荷物などあれば、江戸から持ってくるといいでしょう」

「わかった」


 とは言ったものの、わずかな着物のほかに私物はほとんど持ってない。残りの荷物は江戸城内の御庭番長屋においてあるから、あとで奉行所に頼んで送ってもらおう。

 


「これから長くこっちに住むことになりますし、ご家族にも挨拶されたほうがいいのではないですか」

「家族はいない。知己も城にしかいないから心配しなくていい」

「そうですか」

「お前はどうなんだ。エゲレスに、家族はいるのか」

「私も血のつながった家族はもういません。両親も、……弟もいましたが、すでに死んでいます。どうやら私達は似た境遇のようですね」


 そう言われても特段親しみはわかなかった。私とヴラドとではあまりに何もかも違いすぎていたためだろう。

 ヴラドも同じだったのか、話は実務的な面に移った。


「では、明日の予定を決めましょうか。私は荷物が多いので人夫を雇いますが、公使館にも頼んで人を出してもらいましょう」

「本当ニールを容赦なくこき使うなブラドは」


 翌日、とどこおり無く引っ越しもすみ、夜には新しい屋敷に住める状態となっていた。

 居留地の住居は全て幕府が用意したものだが、異国住民の要望を聞かずに作ったため全てが日本式の作りとなっていた。

 これを見たとき正直ほっと胸をなでおろした。西洋式の建物に住むことになったらどうしようと思っていたのだ。私は椅子よりも畳が、ベッドよりも布団が、石造りよりも木の家がずっと好きだし落ち着いた。

 むしろヴラドのほうが文句をいうかと思われたが(実際この家の造りに反発する外人も大勢いた)彼女もまた日本式の家を物珍しそうに見て回っていた。


「サツキ、この狭い場所はベッドですか?」

「押入れだ。そこの布団を出して床で寝るんだ」

「サツキ、toiletの使い方がわかりません」

「なんだそれは。――ああ、便所か。ここに立ってしゃがむんだ」

「サツキ、大きな木桶が!」

「風呂だ、それは」







 引っ越しの日の夕方になって、ヴラドが酒宴を開こうと言い出した。


「たまには一緒に飲みませんか。引っこし祝いということで」

「……酌取り女が欲しいなら港崎から呼べ」

「嫌ですね、そんなんじゃありませんよ。ただのお祝いです」

「む」


 すこしためらった。ヴラドはきれいな顔に似合わず大酒飲みで、毎日葡萄酒を数本以上も飲んでいる。私も酒は強いほうだが護衛役があまり羽目をはずすのはどうかと思われた。


「せっかくだが葡萄酒は遠慮する。私は日本の酒しか飲まん」

「そう言うと思って用意しておきました」


 ヴラドはどこからか包みを取り出した。ほどくと一升は入りそうな大徳利が姿を表す。


「む」

「さ、これでお互い飲めますね」


 さらには膳や二人分の猪口も次々と準備していく。ここまで用意されてはさすがに無下に断るわけにもいかない。

 肴は近くの仕出し屋から適当に誂えてもらい、奥座敷で飲み始めた。


「これがハシ、ですか。なかなか厄介ですね」

「慣れればそう難しくは無い。ほら、人差し指と中指でこうして、こう」

「……やはり、はじめはナイフとフォークを使います」

「そうか。異人には難しいのだな」

「難しいといえば、椅子と机は早々に用意しないといけませんね。この床に直に座るのはどうも落ち着きません」

「私は足を伸ばして座るほうが落ち着かないと思うがな」


 他愛もない話をしながら杯を重ねた。私は大徳利だったがヴラドは量の少ないギヤマンの瓶で、しかもヴラドのほうが飲むのは早いため空になるとたびたび彼女は外の氷室へ取りに行った。手伝おうかと腰を上げてもヴラドはそれを押しとどめる。本国から大量に輸入したことと言い、わざわざ氷室を作らせたことといい、ヴラドは葡萄酒になみなみならぬこだわりがあるようだった。


「ブラドは本当に葡萄酒が好きだな」

「これがないと生きていけないんですよ」

「そのようだ」

「五月も飲んでみますか」

「いや、いらん」

「物は試しといいますし、少しだけならいいでしょう」

「む」


 少し考えて、意地悪な返事をする。


「ブラドも日本の酒を飲むというなら、いいだろう」

「かまいませんよ」

「なに、いいのか?」


 てっきり断られると思っていたのであてが外れた形となった。


「私も興味はありましたから、ぜひ」

「むむ」


 こうなると断る口実はもうなかった。あきらめて、一杯だけもらうことにした。

 白いお猪口に赤紫色の液体が注がれた。血を飲むようで気が進まなかったが、勢いをつけて一息に飲み干した。


「どうです?」


 初めて知る味だった。甘味と酸味と渋みとが口の中で溶け合いなんとも言えない味わいになる。が、喉奥を通りすぎてみれば……


「うまい……」

「それはよかった」


 ヴラドもまた自分のグラスに酒をつぐと、ゆっくりと味わいながら飲み始めた。


「日本の酒も初めて飲みましたが。おいしいものですね」


 しゃくだが私も似た気持ちだった。自分には合わないと思っていても、試してみれば意外に悪くないものだった。


「しかし、私はやはり酒のほうが好きだがな」


 ただその気持をそのまま言うのは恥ずかしく、ついそううそぶいてしまった。ヴラドは何も言わず笑っている。もしかしたらこちらの気持ちなど見抜かれているのかもしれなかった。






 次の日、用事のあったヴラドの付き添いで英国公使館に行き、いつもの様に執務室の前で待っていると、あの女中の少女が再び現れた。

 再会できたことはうれしいものの、今度もまた彼女は茶器を持って近づいてきたので困ってしまう。

 いま思えば過日はずいぶん失礼な態度をとってしまった。いつかあやまる機会がないかとは思っていたのだが、少女を探すために広い英国公使館をウロウロするわけにもいかず何もできないでいたのだ。

 それだけに彼女の方から会いに来てくれたことはうれしいが、今度もまた無理に茶をすすめられたら、どう接すればいいかわからなかった。

 どう声をかければいいか悩んでいるうちに、また少女はにっこり笑うとお茶を注ぎだした。先日の再現にあたふたする。


「いや、すまんがお茶は……む」


 先日と全く同じではなかった。少女が西洋の茶器からついだお茶は鮮やかな緑色をしていた。よく見れば茶碗も、取っ手のない湯のみのかたちをしている。

 少女が注いだお茶を笑顔で渡してきた。


「私に、か」


 自分を指さすと少女は首を振って頷く。ちょっと迷ったが、おそるおそる少女の手から湯のみを受け取った。

 お茶は呑み心地の良い温度まで冷まされていた。一口飲んでみるとやさしい茶葉の香りが広がったので驚く。一杯のお茶から、少女のいたわりと気遣いと親切心が伝わってくる。


「ありがとう」


 顔をあげてつぶやいた。目の前の少女は、きっとあのあと赤いお茶がダメだと思ったのだろう。英国公使館で紅茶以外飲むはずないから、わざわざ緑茶を求めてきて、今日私のために入れてくれたのだ。


「ありがとう。その、先日は本当にすまなかった」


 私の言葉は当然通じない。女中の少女は苦笑して首を傾げる。このように世話になっておきながら礼の言葉も謝る気持ちも伝えられないことが歯がゆかった。

 その場で立ち上がり深々と頭を下げた。いくらかは伝わったのか、少女はパッと笑顔になって再びお茶を注いできた。私も、もうためらいはせず受け取った。

 






 その日の夜、屋敷に戻ったときヴラドに頼み事をした。


「ブラド、すまないんだが私に英語を教えてくれないか」


 その時ヴラドは自分の机で懐中時計のねじを巻いていたが、私の言葉を聞いて驚いたように顔を上げた。


「おや、どういう心境の変化です? 英語は覚える気がなかったのじゃないですか?」

「公使館で世話になっている女中がいる。彼女に私の言葉を伝えたいんだ。お前が忙しいのは知っているがわずかでいい、頼む」

「ほう」


 ヴラドは片眉を上げると、時計のねじを巻き終えパチンと音を立てて閉じ、はいたずらっぽい笑みをこぼした。


「公使館の女中に、ほう。なかなか貴方もすみに置けませんね」

「どうしてそういう風に受け取るんだ、私はお前みたいに色っぱやくない」


 つい言い返してしまい、すぐに詫びる。


「いや、頼み事をしているのはこちらだったな。すまん」

「お気になさらず。からかっただけですから」


 ヴラドはくすりと笑った。


「私としてもサツキが英語を覚えてくれると助かりますし、構いませんよ」

「ありがたい、恩に着る」

「まずアルファベットから初めましょうか。少し待っていてください。書庫から良さげな本を取ってきます」

 そういいおいてヴラドは書院から出ていった。


 

 しばらくあと、机を挟んでヴラドと差し向かいになり、英語学習がはじまった。

 机の上にはヴラドの持ってきた、英語で書かれた本、英語の辞書、さらに絵草子のような挿絵入りの紙などが広がっている。

「すまんな、私のためにこんなに集めてくれて」

「いえいえ、教えるからにはきちんと教えますよ。しかしテキストになりそうなものはいろいろ見つくろってみましたが、やはり日本語と英語を訳す辞書がないのは不便ですね」

 ヴラドが、めずらしく憂鬱そうにため息をつく。

「日本の書物問屋(※本屋のこと)にはオランダ語の辞書しかないからな……それもすさまじく高いし。日本語と英語の辞書も作られたという噂は聞いたが、たぶん外国掛しか持っていないだろう」

「ま、いまは私を辞書代わりにしてください。こちらにも日本語の勉強になるので、助かります」

 ヴラドはそういって笑い、

「そうそうもう一つ、これもあげましょう」

 机に置かれた小箱から何やら金物でできた細い棒を取りだした。

「何だそれは」

「ペンです。筆でアルファベットの書き取りをするのは難しいでしょう」

「文字を書くための道具なのか?」

「ええ、筆と違っていちいち墨をつけなくても、中にインク……ヨーロッパの墨が入っているのでそのまま書けるのです」

 言われたとおりに半紙をなぞってみると、きれいな細い線が引けた。

「これは……便利だな」

 書くのに墨も硯もいらないとは、西洋人はさすがに進歩している。

「でしょう。書き終えたら発音を覚えましょう。私と一緒に読んでください」

 

 

 *



 それからというもの、お役目の合間を見てはヴラドから英語を習った。ヴラドには意外と律儀なところがあり、どれほど忙しく働いている日でも夜には必ず英語学習の時間をとってくれた。


 アルファベット……英語のいろはをほとんど判読できるようになったとき、ヴラドから新しい仕事を頼まれた。毎日届くおびただしい量の手紙を宛名別に仕分けるのだ。慣れればそれほど難しい作業ではなかった。

 手紙はほとんどが英国からのものだったが他の国のものも時には混ざっていた。フランス、オランダ、ロシア、プロシャに清国。その全てをヴラドは読めるだけで無く自ら返事を書いていた。


「いったいお前はいくつの国の言葉を知っているんだ」


 あるとき手紙の仕分けをしながらそう訊ねてみた。ヴラドは書き物の手を休めると、指折り数え始めた。


「英語、フランス、オランダ、ドイツ、スペイン、イタリア、ロシア、は一通り話せますね。あと清国とトルコ語と……、そうそう、日本語も、ですか」


 興味本位で聞いただけだったのだが思わずめまいがする。


「天才かお前は。いったいどれだけ勉強したんだ」

「そんなことはありません。ヨーロッパの言語は文法がそろってますから多く覚えるのもさほど苦ではないです」


 自慢するでも誇るでもなく、まるで当たり前のことように言うのでヴラドをすこし見直した。


「英語でもてこずっている自分が不甲斐ないな。もし外国語を覚えるコツがあれば教えてくれ」

「コツ、ですか。私の場合教師が良かったのもあるかもしれませんね」

「教師か」

「ええ」


 そう言うとヴラドは再び指折り数え始めた。


「ええっと、フランスはエレオノール、ドイツはグレーテル、スペインはイザベラ、ロシアのクラリッサにイタリアのアンナ、オランダは……」

「待て待て待て待て待て」


 いやな予感がして止める。


「おいブラド、まさかその名前」

「私に言葉を教えてくれた女性たちです。言葉以外も、ですが」


 ヴラドは言った。


「外国語はベッドの上で覚えるのが一番ですよ。……ああ、もしかしてそちらの教え方のほうが好みでしたか?」

「好みな訳あるかっ」

「それは残念。貴方が望むならこちらもやぶさかではありませんでしたが」


 クスクス笑うヴラドを見て、またからかわれたのだと知った。


「もう知らん。真面目に聞いて損をした」


 仕分け途中の手紙をうっちゃると、部屋の出口へ向かう。


「おや、どちらへ?」

「もう寝る」

「そうですか。ではまた明日よろしくお願いします」


 ヴラドも別段引きとめもしなかった。扉に手を掛けたところで振り返り、


「間違っても私の寝床にもぐりこんでくるなよ。そのまま叩き斬られたいなら別だが」


 そう念押しした。ヴラドはまたも笑った。


「気が向いたらそうしましょう。おやすみなさい、サツキ」

「ふん」


 手荒く扉を閉め、自分の部屋に向かった。





 ヴラドの護衛となってから、早くも半月の時間が過ぎた。世の騒然とした空気は相変わらずだったが、さいわい刺客に襲われるようなこともなく、思っていたより穏やかな日々を過ごしていた。

 その間に私の英語力も大分上達していた。これにはヴラドの方がむしろ感心していた。


「飲み込みが早いですね。サツキは。発音もだいぶ良くなってきましたし、これならもう挨拶ぐらいならできるでしょう」

「本当か」


 うれしくて、思わず顔がほころぶ。


「ありがとう。ブラドのおかげだ」

「良い教え子は教師にとっても嬉しいですよ。私の名前だけは相変わらずなのが残念ですが」

「むむ。すまん。Vの発音は難しいんだ」

「そろそろ、女中の子に話しかけてもいいんじゃないですか」

「む」


 あれから英国公使館に行く機会は何度もあったが、女中の少女にはまだ話しかけられずにいた。気恥ずかしさと、もし通じなかったらどうしようかという不安からだ。

 一方あの子は私が行くたびお茶を淹れたり焼き菓子を持ってくるなどやさしく世話を焼いてくれていた。


「そうだな。ブラドが大丈夫だと言ってくれるなら信じよう」

「ええ、言語はまず使うことが一番の勉強ですよ。ちょうど明日公使館に用事がありますし都合がいいでしょう」

「む。わかった」



 翌日、ヴラドとともに英国公使館に向かった私はいつもどおり扉の前で待っていた。

 そしてこれもまたいつもどおり、女中の少女が茶器を持ってやってきた。

 女中がそばにやってきたとき、意を決して話しかける。


「あ、あの……」

「?」


 女中の少女はお茶を淹れる手を止めて五月を見上げる。


「H,Hello」


 女中の子は目を丸くした。と思うと満開の笑顔になって返事する。


「Hello!」


(通じた!)


 内心飛び上がりたいほど嬉しかった。


「ま、My name is Satsuki Igarashi.」

「Wow! I'm Clare Westenra. It's good to speak you.(クレア・ウェステンラです! お話出来て嬉しいです)」


 私も同じ気持だった。初めて言葉をかわすことができ、ほっと安心する。


(次はなんて言うんだったか。そうだ、お礼を)


 続けて話そうとしたとき、急に言葉が出なくなった。思い出そうとすればするほど握った砂のように頭からこぼれて消えていく。肝心な場面だというのに練習した英文を忘れてしまった。


「ええっと、その」


 次につむぐべき言葉が見つからない。あせればあせるほど舌はもつれ、頭が真っ白になる。

 クレアは笑顔のまま、私の次の言葉を待っていた。次になんと言ってくれるのか期待して嬉しそうに。


「あ、あう……」


 意味もなく口をパクパクさせていたとき、はっ、と思いついた。話すのではなく書けば記憶がよみがえるかもしれない

 髪をまとめていた白布を解くと、懐からヴラドにもらったペンを取り出しそこに書き付けた。

 何度も書き取りをした文章は、筆を持つとスラスラと出てきた。書き終わると布をピン、と伸ばして少女に渡す。


[Thanks for always giving me a tea. I'd like to offer you all my heartfelt thanks for you.(いつもお茶をありがとう。心から感謝しています)]


 少女は文章に目を走らせると、白布をギュッと握りしめて嬉しそうに言った。


「It's my pleasure. I'm happy to be able to help. Is there anything I can help with? I'll do whatever I can.(どういたしまして。お手伝い出来て嬉しいです。他にできることはありませんか? なんでもします)」


 いきなりまくし立てられて面食らったが、どうやら伝わったらしい。

 ホッと息をついた。ようやく胸のつかえがとれた思いだった。

 ヴラドを待つ間、ほんの少しだったがクレアと片言の英語で話をした。


 気づけば私の異人嫌いはもうだいぶ薄らいでいた。

 

 

 しばらく後、ヴラドがニール公使代理との会合を終えて部屋から出てきた。


「お待たせしました。……おやサツキ、その髪はどうしたんです」

「む。その、いろいろあってな」

 

 私の髪は先ほど結んでいた白布をクレアに渡してしまったため解けたままになっている。

 ヴラドが何かに気づいたように視線をそらした。目線を追って見ると、クレアが仕事に励んでいる。その髪は渡した白布でまとめられていた

 それを見て大体の状況を察したのか、ヴラドが意味ありげな視線を投げてきた。


「これはこれは。うまくいったようですね」

「何を勘違している。違うぞ、ただ私はお礼を言っただけだ」

「サツキはテレ屋さんですね」

「違うと言っている。お前と一緒にするな」

 

 からかわれているとわかっていても、ついムキになって言い返してしまった。

 ヴラドはますます可笑しそうに笑う。


「ところでサツキ、少しここで待っていてもらえますか」

「む?」

 

 ヴラドはニールに何か言付けると、館の奥へ去ってしまった。

 仕方なく祖そのまま待っていると、程なくしてヴラドがもどってくる。


「たびたびお待たせしてすみませんね」

「それはいいが、いったいどうしたんだ」

「これを、取ってきました」


 ヴラドがそう言って取り出したのは、ひと目で西洋製と分かる髪留め用の紐だった。紅色をして、端から端まで刺繍が施されている。


「これがどうしたんだ」

「私はリボンを使わないので、ニール夫人のものから似合いそうなものを選んで譲っていただきました。どうぞ、五月」

「これ私にか!?」

 

 思わず後ずさってしまった。


「無理無理、無理だ、こんなひらひらしたもの着けられるか」

「髪がまとめられていないと動きづらくて不便でしょう」

「い、いい、いらんいらんいらん。あとで自分で用意する」

「そうは言ってももう買ってしまいましたし、もったいないですから。ほら、背中を向けてください」

「いらんと言って……ああっ」

 

 ヴラドにぐいぐいと引っ張られ、廊下にあった椅子に座らせられてしまった。

 ヴラドは私の髪を手で梳くと、あっという間に紅色のリボンで束ねた。


「ほら出来ました。やはり似合ってますよ」

「本当か?」

 

 他人に髪をいじられたのでくすがったいような変な感じがする。ヴラドが近くの髪を示していった。


「本当ですよ。確かめてみたらどうです。」

 

 言われるままに立ち上がり、廊下の鏡をのぞきこんだ。そこには赤い色の刺繍のついたリボンをした私が、同じくらい顔を赤く染めて映っている。


「は、恥ずかしい。こんなものをつけていたら外を歩けん」

「ここは横浜ですから目立ちませんよ」

「……本当に、本当に似合っているか?」

「似合ってます。かわいいですよ、サツキ」

 

 ヴラドにそういわれて、ますます顔が赤くなる。

 小さな声で言葉をこぼす。

 

「ありがとう。一応、礼は言っておく」

「フフ、どういたしまして」







 その日の夕方ヴラドの使いで、私は食料やこまごまとした日用品を買い出していた。

 あいつからもらったリボンはまだ落ち着かない。本当は似合っていないんじゃないかと、しきりに頭に手をやってしまう。


(全くヴラドはいつも強引で……む)

 

 ふと、通りにある酒屋の前で足を止めた。

 

(そういえば、世話になったヴラドに何のお礼もしていないな)

 

 その酒屋は通常の酒だけでなく外人用に葡萄酒や蒸留した洋酒も揃えていた。ヴラドに贈って喜ばれそうなものというと、まっさきに思い浮かんだのが葡萄酒だった。

 

(何か、買っていってやろうか)

 

 そう思い、酒屋の暖簾をくぐった。葡萄酒の味はわかからないので一番高いものと、自分用の酒も買った。私はお役目柄そこそこ高い給金をもらっていたので、買う金には困らなかった。

 

(一度くらい私から誘うのもいいかな)

 

 ヴラドとは夕食を共にしてたまに飲むこともあったが、いつもしぶしぶという感じで付き合っていた。だが、異人という点を割り引いてもずいぶんと不義理をしていたと思う。

 

(今回は随分世話になったし)

 

 今日の一件は心の枷が取れた気分だった。異人だとか日本人だとか関係なく、ヴラドにいつの間にか、ちいさな親しみを感じ始めていた。酒屋で買ったものを包んでもらうと、足取り軽く屋敷へと戻った。


 

 

 屋敷に帰りつくと何やら中が騒がしかった。


(来客の予定はなかったはずだが……)

 

 不思議に思いながらも台所に行き、買ってきたものを片付ける。

 普段この時間はヴラドは執務室にいる。しかし騒ぎは寝室の方から聞こえてきた。

 女中の少女と話せた礼を言うため、そして一緒に飲もうと誘うため、私は寝室の障子を開けた。


「ブラド、入るぞ。お前に話したいことが――」


 一瞬、入る部屋を間違えたのかと思った。極彩色に彩られ、むせ返るような白粉の香りが立ち込めている。

 艶やかな着物姿の遊女達が部屋にひしめいていた。中央で遊女に囲まれたヴラドがニッコリと笑う。


「あらサツキ、急にどうしました。今ちょっと取り込み中なのですが」


 当初の目的も忘れて思わず怒鳴った。


「何の取り込み中だっ。何のっ」

「いやですね、わかりきったことを聞くのは野暮ですよ」


 ヴラドはクスクスと笑って隣にいる遊女の髪を手で梳くようにくすぐった。遊女もポヤンとした顔でされるがままになっている。


「おま、おままままま」

「ね、だからサツキ、お話は少し待ってもらえますか。それとも一緒に混ざります?」

 

 指をさしてわなわなと震えていたがヴラドの最後の一言でついに堪忍袋の緒が切れた。


「誰が混ざるかっ! もう知らん、勝手にしろ!」


 そう怒鳴るとたたきつけるように障子を閉めた。わざと廊下を踏み鳴らして歩き去ると、中から「あらあら残念」という言葉と笑い声が聞こえた。


「~~~~~っ」

 

 隣の自分の部屋に戻ると、部屋の壁を通して嬌声が漏れてくる。部屋を飛び出して声の聞こえない場所を探して屋敷内をさまよった。

 やがて台所まで来るとようやく静かになった。


「あいつ、少し見なおしたと思ったらすぐこれだ」


 ふと机を見ると、ヴラドと飲もうと買ってきた酒があった。いらいらしたまま酒を開けると、茶碗にあけて飲み始めた。誰にともなくひとりごちる。


「……これだから異人は嫌いなんだ」

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