戦場取材編
第1話 お仕事の依頼
荒野は抜けるような青空で雲ひとつありません。
遮るもののない強い陽射しが遠くに陽炎を作っていて、そんな様子を眺める私の額やこめかみの隙間からは自然と汗がにじみ出て、鼻先を、頬を伝って滴り落ちていきます。
焼け付く地面に落ちたそれは、たちまち蒸しあがり、乾いた空気に溶けていきました。
そんな中、私とエイムズは寝そべって目の前の光景にフォーカスしているのです。
カメラを構えた場所から約100m。前方に迫撃砲が一門あり、4人がかりでこれを運用しています。
一人は双眼鏡で観測。
一人は弾道調整。
一人は装填手。
最後に奇襲警戒で小銃を構えた女性が一人。
警戒を行う彼女は昨夜まで私の取材に立ち会ってくれたジャイリーン。彼女は反政府組織のテロで故郷と両親、そして婚約者を失っています。
この暑さの中にあっても彼女は持ち前の涼やかな表情を崩すことなく周囲を警戒しています。
隣で今にも水筒を空にしそうな勢いで飲んでいるエイムズとは大違いです。
いずれにせよこの暑さです、私も人のことはあまり言えそうにない位にのどの渇きを潤したいと水筒に幾度となく手を伸ばしかけています。今更ながらなんでこの仕事を受けてしまったんだろう。
忌々しい太陽が照り付ける空を見上げると、一羽の大鷲が翼を広げて悠然と飛んでいました。
―――さかのぼること三ヶ月前のこと。
私が駆け出しの頃からお世話になっている、深海社という出版社から呼び出しを受けたのがこの話の始まりでした。
深海社は、中小の出版社ながらノンフィクション小説やレポート、エッセイ、写真集などに定評があり、最盛期には名のある賞を受賞した作家を2人抱えていました。
私たち、業界人の間では、装丁にもこだわりが強く、ユニークなデザインを施すことで有名で、この出版社で仕事を行いたいというデザイナー、カメラマン、イラストレーターは非常に多いのが特徴です。
しかし近年のデジタル化の波によって、紙媒体の生産コストは、大きな足かせになっているようで、出版部数は軒並み伸び悩み、新刊の刊行スピードは徐々に落ちているそうです。
そんな話を愚痴交じりに私の親友でもある編集員の
もちろんそういった流れはここだけの話ではないのですが、加えてここ数年はあまり目立ったヒット作に恵まれていないこともあり業績は右肩下がり。一昨年の経営方針の転換から会社規模も縮小され、編集室は場所こそ渋谷にあるものの、駅から10分以上離れた、セキュリティの低い雑居ビルの三階に間借りしているという有様だったりします。
渋谷駅を出て、渋谷警察署の裏手にある細道をしばらく歩くと、坂が多くなり、急に都会の景色が薄れる住宅街に出ます。そこからさらに歩くと見えてくる八階建ての古いビル、そこに深海社の編集室はあります。面倒なことに入り口は玄関からでなく非常階段を伝って登らなければならないというルールがあり、機材をもったカメラマンや搬入業者から不満の声が後を絶ちません。
なんでもフロアのもう半分を所有する会社と揉めたのだとか。そちらの会社は随分とお堅いイメージの会社のようでフランクなスタイルの深海社の社員とそりが合わなかったらしいのです。
まぁ、廊下に深夜営業しているラーメン屋の出前のドンブリが水洗いしておいてあったり、徹夜明けのむさ苦しい格好の編集員に廊下をうろつかれれば悪い評判が立つのも分からなくはないのですが、その影響が外注スタッフの私たちにまで及ぶのはいただけない話です。
それはともかく、面倒な階段を上って非常扉を潜ると、壁にこの会社の出版している雑誌、書籍新刊のポスターが張り出されていていかにも出版社然とした雰囲気なのですが、肝心の編集部の室内はといえば、まず扉を開けると薄暗い室内に書類の束で築かれたビルがそこかしこに乱立している光景が飛び込んできます。朝一なので今現在は時間外で電気がついてないだけなのですが、荒涼、混沌という言葉で言い表したくなるような乱雑ぶりです。デスクの脇にも見本誌や校正紙といったものが、どう分別されているのか机の主にしか分からないようなレベルでブックスタンドに積んだりねじ込まれたりと放置されているので、うっかりどこかに躓いて転倒、崩落なんて事は日常茶飯事だったりします。
こんな場所で一体どんな人物が働いているのかといえば、
「おーい、佐代子ー生きてるーーー?」
しばらくの静寂、奥のほうで微かに何かが軋むような音が聞こえたのでそちらに向かってみると………
「佐代子ー、あさだよー?」
ギッ、ギッっと椅子の背もたれが軋むような音が聞こえます。続けて「う」に濁点がついたような唸り声と共に奥のデスクの周辺がモゾモゾカラカラと音を立てて動いています。
机の奥を覗き込める位置まで近づくと、どうやらオフィスチェアを3つくらい並べてその上で寝ている様子。あ、寝袋に潜っているから自由に動けてないんだ。佐代子の動きに対してちぐはぐに動くキャスターはまるでムカデのようです。
そんな有様の佐代子を見ていると私はただただ哀しい気分になります。
この職業、確かに激務で、女性で長年勤めているとなると大半女であることを捨てているような人ばかりなのですが、とうとう、人であることすら捨ててしまったように見えてしまうのです。せめて人間らしく………あ、なにかアニメのサブタイトルでそういうのなかったかしら。
なんとも言えない気持ちを押し込めるように近づきながら声をかけると、
「まーた徹夜したんだー、おつかれーって、うわあ!?」
「うぶぅーっ」
空気を漏らすような声と共に、ぐにゅりと足の裏にものすごく柔らかい感触、慌てて足元に目をやると、人のお腹を思いっきり踏んづけていたみたいです。これは確かアシスタントの山崎君。まさか段ボールを床に敷いて寝ているとは………
いや、皆まで言うまいです………です。
靴で踏んづけた感触が妙に生々しくてキモイかも。
こんな感じのスタッフが昼夜問わず徘徊しているのが原因で、編集スタッフの素行の悪さをネタに苦情を入れられ、エレベーターと通常階段の使用は隣の会社が占有し、この編集室は非常扉が入り口になるという悲しい取り決めが結ばれ今に至っているのです。
正直私たち外注のカメラマンにとっては機材の持ち運びで毎度苦労するのでなんとかしてほしいとは言っているのですが、ベテランのさよこからしてこんな調子では到底難しいだろうなと諦めています。
さて、先ほど私におもいっきり踏みつけられた山崎くんですが、苦悶の表情を浮かべつつもまだ眠気の方が勝っているらしく目を開けようとしません。彼の恵まれた体格も相まってその姿はさながらマグロと間違えてうっかり水揚げされたトドのようです。築地の市場がよく似合いそう。
………なんだろう、ネタになるからこれは撮影しておこう。
手早くスマホのカメラを起動してシャッターを切り、SNSからさよこにダイレクトメッセージで画像を送信。さよこがモゾモゾしている付近からマナーバイブの振動音が短く響いたのを確認して私はスマホをポケットに滑り込ませました。佐代子はスマホの画像に目を通したのでしょう、不機嫌そうな唸り声を上げながら寝袋から這い出して来ました。
目の前で起きろと言う私よりスマホの着信の方が反応がいいってどういうことよ、と思わなくもないですが、これはこれで勤め人の悲しい性なのです。
「あー、ソーニャありがとう来てくれて」
佐代子は気だるげにそうつぶやくと、ボサボサになった長い髪を掻きむしりながら、反対の手で書類まみれのデスクをまさぐり始めました。あまりにも雑に弄るものだから途端に書類の束が次々に崩落して地面に落ちていきます。見事な書類の雪崩ですね。
あ、机上国語辞典が山崎くんの頭に直撃したっ!
「んびゃぁ!?」
男とは思えないほどの甲高い悲鳴をあげてものすごい勢いでのたうちまわる山崎くん。犯人である佐代子は、不機嫌そうにそれを眺めてため息をつくだけ。山崎くん可哀想に………
それにしても化粧を落とさずに寝たのでしょう、マスカラやシャドウ、チークが瞼や目頭に滲んでおどろおどろしい、まるでゾンビのような顔つきです。これはネタになると思わずスマホを取り出そうとしたところで佐代子の険しい視線が飛んできました。鋭いです。スマホはしまいました。
しかし、何をそんなに机を弄っていたのかしらと机を見てみると、佐代子がいつも掛けているメガネが見えたので、ああ、これかと、佐代子に手渡しました。
満足そうな表情で私からこれを受け取った佐代子は背伸びとあくびをしながら、
「ふぁぁ、ありふぁと」
「やさぐれてるわね、そんなに今月忙しかったっけ?」
「副編が寿退社、あと新人が一人ばっくれたわ」
「あー、ご愁傷様、え、でも柳川さん結婚したんだ!」
副編の柳川さんについてはおめでたい話だとは思うけれど、中小企業で2人の欠員はかなりの痛手です。
「あれ、じゃぁ、さよこ副編昇進?」
「さー、どうなんだろうね、なっても今とあんまり変わんない気がするわ」
首をコキコキと左右に振りながら体慣らすさよこ。
「ご飯くらいちゃんとしたもの食べたほうがいいよ、スタイル崩れてるんじゃない? 一応栄養ドリンク買ってきたけど……」
そう言って、24時間営業のドラッグストアで買った10本入りの栄養ドリンクを机に置くと、さよこはそこから無言で一本取り出しキャップを開ける。 口を付けようとした途中で思い出したかのように、
「ああ、いつもありがと、いいのよ、結婚とかはもう諦めてるしー………んっ、ぷはー、染みるわ!」
「悲しい事言わないでよねー、あと、オッさんみたいなリアクション板につきすぎ」
「はいはい、いい男紹介してくれたら考えるわよ」
今は起き抜けでメイクがぐちゃぐちゃになっているので説得力はあまりないのですが、ちゃんとしていれば物凄い美人なだけに、無頓着すぎる佐代子に対しては、つい突っ掛かりたくなってしまうのです。
それを察っするように佐代子は、私を適当にあしらいながら立ち上がって給湯室に消えて行きました。
こうなってしまうと行き場を失ったもやもやする気持ちはため息にして飛ばすしかなくなるのです。
佐代子が席を立った後、私の足元に散らばった書類の束を見ていると仕事一筋に生きることって幸せなことなのかなと思わずにはいられません。
ふと目線を移すと先程までもんどり打っていた山崎くんがなんと、再び眠りについていました。痛みよりも眠気を優先するあたりにこの仕事の業の深さを感じざるを得ません。手持無沙汰だったので私は床に散らばった書類や国語辞典を拾うことにしました。どこに直せばいいかわからないけれど。
給湯室から聞こえる水が流れる音と、佐代子がおっさんみたいに「あーうー」と唸りながらうがい、洗顔をしている音をBGMに、書類を拾い集めてみます。書類は雑誌の見開きページをB4やA3サイズの普通紙に印刷したものが大半のようで、注意深くみると同じページが何枚も印刷されています。それぞれ右上には初校、再校、再々校、再々々校と赤丸されていてページ内に赤ペンで打消し線や追記、写真の修整指示などが書き込まれています。これはゲラというものだそうで、製本前のチェックを行うために印刷されているものなのです。
副編集長や主任といった役割の編集員が初校あるいは初稿と呼ばれる最初に上がったページに対して修正(誤字、脱字、イラスト、写真の差し替え)が必要な個所を探し、それを赤ペンで指摘して再び担当編集員に戻す。担当編集員はそこに修正を行ったものを再度印刷する。これが再校と呼ばれるもので、それにも修正が必要だった場合は再度この作業を繰り返す、それが再々、再々々と続いて行って最終的なOKが編集長から出た時点で決定校となり印刷所に持っていくという仕組みなのだそうです。
さしあたって同じ種類のページ毎に書類を集め、初校を一番下にして再校、再々校と重ねていき、最新版が一番上に来るようにしておけば問題ないはず。
佐代子曰く、この再校が少なければ少ないほど仕事はスムーズに回っている証拠だといいます。しかし、再々校以降のものが結構な量あるので、多分あまりいい状況ではないのでしょう。
そんな感じで雪崩れた書類と格闘していると、佐代子が戻ってきました。先ほどまで生きる屍のようにしか見えなかったメイク崩れはキッチリラインを引きなおしてあり、ほんのり上気したような桃色のチークとリップがセクシーに決まっています。フケが飛んでそうだった髪のほつれや服のヨレもあの給湯室でどうやったのか一切なく、隙の無さそうなキャリアウーマンの出で立ちになって戻ってきました。書類を片付ける私を見るや、
「ごめん、ごめん拾わなくて良いわ、私やるから! って山崎あんた客働かせてなに寝てんのよコラ」
そう言って佐代子は山崎くんのお腹を爪先で思いっきり蹴飛ばす。うわ、容赦ない!
「っ、あざっす!!」
何故か悲鳴の代わりに感謝の言葉を叫び一瞬で立ち上がる山崎くん、色々おかしいよっ!? それにこの惨状は、佐代子がやらかした事なんだけどなぁ。山崎くんはどちらかといえば机上辞典直撃の被害者なのでは? なんとも理不尽な展開なので、
「ああ、気にしなくて良いわよ山崎くんもいつも大変ねー、こんなわがままなのが上司で」
と私がフォローを入れると、
「いえ、小出チーフは最高の上司です」
何故か気を付けの姿勢で答える山崎くん。ほんのり頬が赤いのはなんでだろう。
「そ、そう、まぁ大変なのはわかるけど体壊さない程度にね」
「いえ、小出チーフの為でしたら不肖この山崎粉骨砕身の覚悟で何事にも挑む所存であります」
毎度の事ながらこの軍人がかった四角四面な受け答えは変わっているけど面白い。こちらも先ほどまで意地でも起きようとしなかった姿から想像もできないくらいキビキビと動いています。ズボンからトランクスの柄がはみ出しているのは見なかったことにしよう。3人で散らばった書類をまとめたり整理してデスクマットが見えるくらいまで片付いたところで佐代子が話し始めました。
「えっと、お願いしたい取材があってね」
「うん、今度は何処に行けば良いの?」
佐代子が先ほど拾っていたゲラの一枚を私の前に差し出して見せました。
どうやらミリタリー関連の特集記事のようで、浅黒い肌に引き締まった体の女性が軍服姿で銃を構えている。中東系かしら、彫りが深くて中々の美人さんだ。さよこは、
「その女性兵士の密着取材。」
「場所は何処?」
「はい、グルジスタンのカー・シードです。」
山崎くんが答える。
「紛争地帯じゃなかったっけ? 」
「はい、立ち入り制限が解除されていますが、三年ほど前までは同地南部の領有を巡って反政府組織による占拠とそれを名目に連合軍が介入した戦闘が行われています。現在は基地と反政府組織の間にある荒野を挟んで対峙したまま膠着しているため実質休戦状態です」
「だったわね、でも、これ誰か他のカメラマンがここまで撮影してきたんでしょう? いいの私に振っても?」
基本的に一つの案件は発注を受けたカメラマンが最後まで携わるのが普通で、途中から引き継ぐというのはあまり無いのですが、その疑問に対して佐代子は左腕に注射器を打ち込むようなジェスチャーをしながら、
「これで警察にしょっ引かれたのよ。全く、あれほど注意したのに、やらかしてくれたわよぉ」
不機嫌そうに頭を横に振るさよこ、クスリかぁ、海外取材あるあるネタの一つではあるけれど、
「うん、いいわよ、詳細は文面で欲しいな」
「用意するわ、山崎」
「はい、今日中にメール致します」
仕事に関して、佐代子と私の間で余計なやりとりは殆どありません。仕事の内容と事情、条件を正確に伝えるただそれだけで、変に気遣ったり奥歯に物が挟まったような言い回しは私たちの間に存在しません。だから佐代子も私に仕事を振りやすいし、私も仕事を安心して受けられる。そんな関係なのです。
とは言っても、今回は戦場に近い場所であることには変わりないので、条件や保険などについては山崎くんが送るという資料で判断する部分は出て来ます。
仕事の会話がものの数分で終わったところで、写真屋から現像上がりのフィルムが届いたらしく、山崎くんが応対してこちらに持って来ました。佐代子は机の脇に置いてあるライトボックスの電源を入れて引き出しの中にしまっていたルーペを取り出し、山崎くんがフィルムを小分けしてスリーブに詰め替えたものを受け取って、それをライトボックスの上でルーペを当てながら、チェックを始めました。
フィルムは今では使っている方が珍しいブローニーフィルムです。通常の35mmフィルムと違って非常に大きな形で、現像もネガではなくポジで現像されています。
大きなセンサーで画を捉えることが出来る中判、大判クラスのフィルムであるため、雑誌の表紙やグラビアの現場では今もなお一定の需要があるのですが、悲しいかなアナログであるため現像の手間、チェックの不便さ、取り込みの手間、管理の手間といったものが人手や書類棚を圧迫するため、徐々に姿を消していっているものでもあります。何よりデジタルの高画素化が進んでいますからね。
私はデジタルから入った世代なので、これらを使いこなすカメラマンは無条件で尊敬してしまうのですが、
「ちなみに今見ている表紙写真が、彼の最後の仕事になるわ」
山崎くんが詰め替え作業をしているポジ画を見ながら、かなりの腕前であることは理解できます。勿体無い話だと思いました。
話が済んでしまえば、さよこ達は流れるように仕事に舞い戻ります。山崎くんも。やる事がなくなった私は、じゃあねと出版社を後にする。素っ気ないけれど、変に気を使われるよりはずっと気が楽です。食事の誘いがないので今夜は泊まりなのでしょう。
こうして振り返ってみると随分気軽に引き受けてしまったんだなと頭を抱えたくなりますが、未来の事なんて誰にも予想は出来ないものです。
私が、グルジスタン行きの『妖精の小路』を開いたのはそれから二ヶ月後のことでした。
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