Tres 妖精トロルのいたずら
「ううぅ……う!」
ぶち、とあまり小気味よくはない音がする。
「ははは、やっと噛み切れたね」
力を入れてパンを噛みちぎった少女を前に、ネイナスは朗らかに笑いながら易々とパンを噛み切って咀嚼した。
3 妖精トロルのいたずら
「顎が痛い……」
「そりゃ、そんな細い顎で硬いものを食べたら痛くなるだろうね」
「ネイナスさんの家は、この町にあるんですよね?」
まだ顎をさすりながら少女が訊く。
「うん。大きいから少し中心部からははずれるけど。ちょっと山を登ったところだよ」
「へぇ。景色はいいんですか?」
「そこそこ」
「海は?」
「見えるよ」
「やった」
立て続けに訊いてから、少女は小さく跳ねる。
ぷす、と小さく笑いながら、ネイナスは嬉しいオーラをぽろぽろ出している少女を見た。
「ノクスは、海が好きなの?」
「いえ、あの、故郷ではそんなに見たことがなくて。山も故郷を思い出せるから好きなんですけど、海はもっと心が躍ります」
「ふふ、じゃあ港に寄ってみようか?」
「みなと? 海?」
「海から船がたどり着く場所。魚がたくさんいるよ」
「魚が、たくさん? 泳いでいるんですか?」
「そんなに活き活きはしてないかな……うん」
きらきらと目を輝かせる少女に、むしろ生きてすらいない、などとはとても言えず、ちょうど出た大通りを右に曲がって港のほうへ向かった。
「とっても活き活きしてますね……!」
「ああ、うん」
「見てくださいネイナスさん! この魚、お肌がピッチピチですよ! こんなお魚、見たことありません……」
港につくと、早朝から漁に出ていた漁船がちょうど戻ってきたのか、港は水揚げされた魚介類でいっぱいだった。
ちゃんと近くの人に許可を取ってから、ついつい、と魚をつつく少女は、つるつるの魚に感動してほうっと溜め息をつく。
よっぽど魚が好きなのか海が好きなのかは知らないが、港ではしゃぐ少女に、ネイナスは子供ができたような気分で少々疲弊していた。
(くそっ、ティトスのやつ……あれが俺のことを父親みたいだとか言ったから、こんなことになったんだ。……あとで睨む)
結局、女に蹴落とされる女落としティトスは、またもや罰を食らうことになる。
それにしても見た目がかなり幼く見える少女は、はしゃぐとさらに幼く見える。ネイナスを知っている者たちも港には何人もいて、彼らはそろってネイナスに意味深な生暖かい微笑みを向けていた。
「ネイナスさん、ほら! ぷよっぷよ~」
「……ふふ」
にっこりと笑顔を向ける少女。意外な場所で彼女の満面の笑みを見ることができて、まあ悪くはないかな、とネイナスは心中で苦笑を漏らした。
「すっごいなぁ、海きれいだなぁ」
あらゆるものにぽーっと目を輝かせながら、少女は港町をゆっくり歩いて回る。
ネイナスは先ほど知り合いの漁師と話を始めたので、少女は彼が見える範囲で漁港を歩いていた。
……つもりだったのだが。
「あっれ、ネイナスさんいない」
背の高い彼だからもし見失ったとしてもすぐに見つけられると思ったのに、振り返ると人混みの中に彼の姿は見あたらなかった。
「え、えぇえ、どうしよう」
ネイナスさん迷子なっちゃだめですよー、と口の中で小さくつぶやく。自分が迷子なのはわかっているのだけれど、何となく自分を元気づけたかった。
「はぁ、やだなぁ、どうしようかなぁ、……?」
ふと、視界の端を何かが横切ったような気がした。
なんだろう、と首を巡らせてみると、細い路地をてくてくと歩いていく……小さな人の影。
(何あれ、ちっちゃい! え、というかまず人!?)
少女はそうっと路地を覗き込んだ。その人影の高さはちっちゃいと言われた自分の膝にも及ばない。
ちょっと行ってみよう、と少女はそうっと路地に入っていく。
小さなひと(仮)は気づかず、どんどん歩いていく。よく見ると、暗がりの中でその小さなひと(仮)の周りには、ふわふわきらきら、粉のように小さい何かが舞っているようだった。
(きらきら……なんだろう?)
少女はじーっとその舞っている何かを見つめる。足下に注意をやっていなかったために次の瞬間、こけた。あほだと自分でも思った。
「いて、っあ……」
しまった、とぽふんと口元を押さえるが、その小さなひと(仮)はくるりと振り返り、そのかわいらしいつぶらな瞳とずっこけたままである少女の真っ黒な瞳が、汚い路地裏でロマンも何もない出会いを果たした。
「……あの、こんにち」
何度も目をしばたかせるつぶらな瞳にあいさつをしようとすると、その小さなひと(仮)は言い終わらないうちにダッと駆け出した。
「ええぇ待って!」
少女は立ち上がり、適当に服の裾をはたいてから駆け出す。狭い路地裏を必死に駆けると、突然すこしひらけた場所に出た。
「うん……?」
くるりと周りを見渡すと、追いかけていたはずの影がない。……いや、あった。自分の足下に。
「あ、こんにちは」
一歩下がってあいさつをすると、今度はその影はうなずいた。
「えーと、……あ、追い回してごめんなさい。ずいぶんちっちゃいなぁと思って」
『妖精ダカラナ』
「よーせい、って?」
『分カランノナラ、イイ』
ふいっとそっぽを向いた小さなひと(妖精)を、少女はまじまじと見つめる。
まるい体はよく見ると緑に近い茶色で、手足は短くあたたかそうな毛皮の服を着ている。でもその小さな顔は普通の人間と同じようなつくりで、大きなまぶたに覆われた瞳は綺麗な緑色だった。
『……オマエ、見ナイ顔ツキダナ。ドコカラキタンダ?』
「え、私? よくわからないんだけど、……イト国ってところ」
『イト国? 知ランナ。マアイイ、チョットコッチキテミロ』
ぐい、と足輪を引っ張られて、そのすこしひらけた路地裏に置いてあったとても大きな壷のようなところの前に立たされる。少女が両手をひろげたくらいの直径の壷には、水がたっぷりと入っていた。
「これが、なあに?」
『コノ水ノ中ニ入レバ、イト国ッテトコロニカエレル』
「うそん」
『イイカラ、ホラ』
「え」
背後から飛び上がった小さいひと(仮)にとんっと背中を蹴られて前へつんのめる少女。
「わっぷ、あぶな!」
『ホラ、入ランカ、ホラ』
「えっえなんで、むり、むりだからあっうぐぶ」
頭の上に意外と重い体が乗っかって、水の中に頭が沈む。助けを求めて開いた目に映ったのは、驚くほどきれいにすきとおった水と、その奥に見える――あきらかに壷の底ではないどこかの景色。
波に揺れるかのようにたゆとう揃えられた金の草は、たっぷりと米をつけて重く垂れ下がり、その近くにある森の木々はたくさんの実を結んでいる。
(故郷……)
頭にその言葉が浮かんだ。たぶんまだ、ほんのすこしの時間しかあの場所と離れていない。それでも懐かしくて涙があふれてきた。
この場所は、あの懐かしい故郷からあまりにも離れすぎていた。
ふわ、と体が浮く。あとすこし。あとすこしで、またあの場所へ行ける。
――それでも
(それでも、……?)
別の寂しさが風のように襲ってきた瞬間、
「戻れ!!!」
「っぷ!?」
ぐい、と肩を摑まれて、そのまま後ろへ強く引っ張られた。
くらくらと尻餅をついて何度も咳き込む。顔を拭って開いた少女の目には、今度は自分よりすこし背の高い誰かの後ろ姿が映った。
「……?」
「とっとと消え失せろ!」
しゃがれた声が小さな影を追い払って、少ししてから少女を振り返る。白い髪がかかった顔は、どこかで見たことがあるような気がした。
「……あ、魔女の……」
「魔女はあんただよ!」
目の前で仁王立ちをしているのは、確かここへ来てすぐ、少女を魔女だと言いつけて椅子に縛りつけた老婆。
「まったく、あんたの後をつけて行ったら、まさかあんな邪悪な妖精なんかに誘われて。もうすぐ死ぬところだったんだよ、わかってるのかい!?」
「え、死ぬ……? でもあの子は、私を故郷に帰してくれるって……」
正直、気がついたらこの地にいたという不思議な経験をした少女は、あの妖精というものの言った言葉も半分は信じていた。
「そんなことあるかい。あれは邪悪のかたまりだよ。女子供をさらい、金品を盗むのさ」
「……でも、私が水の向こうに見た世界は、私の故郷でした」
「幻覚だよ。人それぞれに合った
「そんな……」
もしかしたら帰れるかもしれない。それを思ったとき嬉しかった。少女はまだ、この地に自分の居場所を見出せていなかったから。
(でも、なぜだろう。故郷に帰れると思うと必ず襲ってくる……この寂しさは)
少女が目を伏せ、そっとその寂しさの風を感じたときだった。
「……ノク、ス? ――ノクス!」
ネイナスの、声がした。
「ネイナスさっ……」
路地の奥から何かを抱えたネイナスがはっとして走ってくる。よほど急いでいたのだろう、かぶっていた頭巾は肩に落ち、昼の光に輝く金の髪が露わになっていた。
「ノクス、……よかった、大丈夫だったんだね」
見開いていた青の瞳がすうっといつもの大きさに戻る。
少女は立ち上がって、うなずいた。
「ちょっと大丈夫じゃないようだったんですけど、今は大丈夫です。……あれ? その子って」
「ああ、これ?」
少女が指さすと、ネイナスが小脇に抱えていた何かを少女に見せる。それは、先ほど少女が出会った小さなひと(仮)だった。
「ノクスがいなくなっちゃって捜してたら、トロルが走っていたからさ、捕まえて、何があったのか問い詰めたら、ノクスのような子を連れて行く途中だったとか言って。……でも、無事でよかった」
「連れて行く? あの、私はどこに連れて行かれそうだったんですか?」
「妖精や魔物が住む世界。言ってしまえばあの世」
「え……」
「だから言ったろ」
青ざめた少女を見て、老婆が口を開いた。
「あたしはね、あんたに光の守護がついているのが見えて、あんたたちを追いかけていたんだ。そしたらどうだい、この小娘がひとりでふらふら邪悪な妖精についていって、あの世に連れて行かれそうになるところだったんだよ、まったく」
「それで、シビラが助けてくれたんだね」
「見殺しにするのは気が進まないからね」
ネイナスと老婆が話している姿を、少女はぼうっと見つめている。そしてとりあえず、疑問になったところを尋ねてみた。
「あの、光の守護ってなんですか?」
「ほら、そこに漂っているやつだよ」
老婆が指さしたのは、少女自身。正確には、彼女の周りに漂っているきらきらした何かだ。
「え、これ? こんなものいつの間に……」
自分の周りを漂う何かを見つめて、少女は首をかしげる。
「この、あんたやそこの妖精に舞っているのが光の守護だ。妖精たちの世界、つまりあっち側の世界から何らかの力を授けられた者がその印としてまとう。
自分にこの印があるのかどうかは、あちら側の強い力に触れたりしないと分からない。だからあんたは今まで自分の印に気がつかなかったんだ」
「へ、へぇ……。あれ? でも、おばあさんは光が見えませんよ」
「あたしは別に力を持っているわけじゃない。ただわけあってその印が見えるだけだ」
そうなんですか、とうなずいてから、少女はネイナスを見上げる。彼にも、自分とは色の違う光の守護が舞っていた。
すると、少女の視線に気づいた彼がくすりと笑う。
「ちなみに、この光の守護があったり、その印が見える人は大抵こういった妖精なんかも見ることができる。でもこいつらは普段、よほどのことがない限り人前にありのままの姿を現さない。このトロルは姿を変えたりして人間たちの世界に紛れることはできるけど、姿を消すこともできる。その、姿を消しているときにこいつらに話しかけたら、普通の人には思いっきり変な人だと思われるから気をつけてね」
「は、はい……」
少女は思わずうつむいた。さっきこの妖精を追いかけていたとき、誰かに見られてはいなかっただろうか……とすこしだけ心配になった。
「さて、じゃあこの話はこのあたりにして、こいつを飼い主に返してくるとするか」
「飼い主だってえ!?」
声を上げたのは老婆だ。
「こいつはトロル、
「うえ、あたしゃいいよ。そんな妖精を飼えるような化け物と一緒にいたら気分が悪くなる」
「うんうん。じゃあね、もうついてこなくていいからねー」
「お黙り!」
ネイナスが老婆に手を振って歩き出した。少女はぺこりと老婆に頭を下げてから、彼のあとを追って歩き出す。
「この妖精は、トロルっていうんですか?」
「そう。北欧の、ノルウェギアとかに棲む妖精だ」
「ノルウェギアって?」
「――俺の故郷」
*Praeterea…
『魔女』
自然を超越した呪術的なものを扱う者。日本語で「魔女」は女だけというように扱われますが、海外で「witch」は男性の魔法使いにも用いられます。でも魔女狩りの時代の魔女の多くはやっぱり女性だったようですね。
呪術などを使って他者を害することは古代ローマ時代から刑罰の対象だったため、古代ローマでも魔女のような存在は知られていたと思われます。
昔、出産(助産師)や臨終(医師)などの人間にできることには限度がある瞬間に立ち会う者が、その瞬間の超自然的なイメージをつけられ、畏れられ、やがて自然を超越した呪術などを扱う者、というように一種の差別として「魔女」が広まったようです。
魔女という不確かなものであるからこそ、偏見や勘違い、生まれや姿形などによって周囲から魔女と見られてしまい、差別され、最悪魔女狩りという形で殺されてしまうこともあったのでしょう。
『
ラッピアは正確には現代でいう北欧を指すものではなく、スウェーデン、ノルウェーがある「スカンジナビア半島」の北部からフィンランドの北部に広がる場所、つまり現代でいう「ラップランド」を指します。が、この話では北欧ということにしています。
ちなみにネイナスの生まれた場所を当時の言葉で正確にいうとノルウェギア、現代でいうノルウェーになります。妖精トロルの伝承が伝わる国です。ネイナスが生まれた場所はそれほど北ではないので、ラッピアというのはかなり適当な表現です。かなり適当です。
『トロル』
トロール、トロルド、トラウなど。ノルウェーなどの北欧の伝承に登場する妖精。地域によって伝承が異なり、スカンジナビア半島のスウェーデンでは「
小人の妖精で、気に入った者には幸福をもたらし、気に入らない者には不幸をもたらすとされています。女子供をさらい、財宝を盗むことも。彼らにさらわれないためには、人も動物もヤドリギの枝を身につけなければなりません。トロルは金属工芸や、薬草や魔法を使った治療などにも秀でていると言われています。日の光に当たると石に変わるため、夕暮れ時から明け方までしか姿を見せません。
というのはノルウェー、スウェーデンがあるスカンジナビアに伝わるトロルの話で、他の北欧を始めとするヨーロッパやカナダなどの北に位置する国では、ハリーポッターにあったようなくさい巨人であったり(「うえ…トロールの鼻くそだぁ……」のやつ)、醜い姿であったり、大きさから性格、名前までかなり違った伝承が残っていたりします。
ちなみにこの話でのトロルは、スカンジナビア半島に伝わる伝承と、フィンランドに伝わる「水の中へ引きずり込む」などといった伝承などを混ぜています。ノクスが水に頭突っこまれたのはそのせいです。あと、日の光にあたると姿が石になるというのは、トロルが人間や獣など他の何かに姿を変えているときのみとしています。ノクスと出会ったときのトロルは普通の人には見えないありの〜ままの〜状態なので、日の光にあたっても大丈夫です。
『パン』
だいたい一回目の朝食「イェンタークルム」で、エンメル麦という小麦のような穀物で作られた平らで丸いパンが少量の塩と一緒に食べられていました。世界ふ●ぎ発見のポンペイの話でやってたけど、このパンけっこうでかいぞ。そして硬そう。
パンはラテン語で「Panem」、パネムでしょうか。……パンでいいよね。ごめんなさい。
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