Duae 古のローマで故郷を想う

「困ったねぇ……」


 まだ酔いの醒めない男たちを仕事に送り出してから、酒屋の主人はひとつの椅子に座って肩を落とした。


「すみません……本当は私ひとりで考えなきゃいけないことなのに」

「そんなことないよ」


 ネイナスはきっぱりと言って、笑う。


「難しいことを言うつもりはないけどね。人間は誰かに優しくすることはとっても気分がいいことだからさ。君はどうしても控えめに考えてしまうようだから、この親切は俺たちの自己満足だと思ってくれ。――な? 主人」

「いいねぇ、それ。気が楽でいいや」

「……ありがとうございます」


 ネイナスさんはすごいな、と少女はうつむいて少し微笑む。そんな彼女を見て、ふたりの男も満足げにうなずいた。




2 古のローマで故郷を想う



「ノクスは、何か自分の故郷について手がかりとなるような思い出とか、ない?」


 ネイナスに訊かれて、少女は目を伏せ頭の中を探る。


「とにかく木がたくさんあって……川もありました。いえとかはここのものより弱そうで、形も全然違くて……」


 とりあえず思い出せる限りのことをつぶやいてみるが、これがほとんど役に立たないことは少女にもなんとなくわかっていた。


「あー……そういえば前の冬――国に下りたときです――、ナ国が漢帝国に出した使者が帰ってきたとか帰りそうだとか聞きました。後ろ盾をもらえれば、ほかの国との戦いに有利になるとかで……」

「漢に?」

「ネイナス、知ってるのかい」


 自分は聞き覚えのない言葉に、酒屋の主人は身を乗り出してネイナスを見る。


「漢というのはセレスたちの国、絹国セリカのことだ。スグナトゥス様が、インドの向こうにある東の大国で、ローマと同じように技術が発展していると言っていた。でも、使者をやりとりするほどの国交はないし、何よりも距離があるらしいからな……」

「よくは、わからないんですね」

「そうだね……」


 さすがに漠然としすぎていて、一市民にはよくわからない。肩を落とすふたりに、主人はさらに問いかける。


セリカって、東にどれくらい行くとあるんだい?」

「さあ……ただ、マケドニアのアレクサンドロス大王もさすがにそこまでは征服できなかったらしいから、かなり遠くじゃないかな」

「へえ、あの大英雄がねぇ……。きみの故郷は、漢からどれくらい離れていたの?」

「海を挟んだ北側にあるということは聞いていますが、距離はよくわからなくて」

「そっかぁ。そうだよなぁ」


 うーん、とネイナスは伸びをする。

 中身の減った器に主人がまた注いでくれたラクトを一口飲んでから、少女は首をかしげた。


「このあたりには海がありましたけど、その海と私の故郷の近くにあった海は繋がっていないんですか?」

「どうもそのようだね。海は広くて、ずっと向こうまで行って帰ってきた人はいないようだから、わからないけど」

「そうですか……」


 うん、とネイナスはうなずいてから、海ねぇ……と小さくつぶやく。そして、


「そうだ」


 ポンと手を叩いた。


「――スクル、そうだ、今度でいいからネアポリスに行ってみよう」

「ネアポリスに?」


 きょとんとする少女に代わって、主人が聞き返す。ネイナスは大仰にうなずいてみせた。


「あそこはネアポリス湾最大の港町で、シュリア属州とかからいろんなものが運ばれてくる。シュリア属州は絹の道シルクロードで漢のほうとも交易していたはずだから、もしかしたら馴染みのあるものとか見つかるかも」

「漢のものが、シュリア、属州? を渡って、ネアポリスっていうところまで来るわけですか。そのネアポリスはどこに?」

「この町の東隣りだよ。行こうと思えばすぐ行けるけど、町自体が大きいからなぁ」

「漢から運ばれてきたものに出会えるかがちょっとわからないわけだ」


 ネイナスの言葉を継いで、主人は顎に手をやる。少女はまだあまり理解ができていないようだったが、ネイナスは大きくうなずいた。


「そうだな。でも、行ってみる価値はあると思う。ノクス、どうする?」


 大男が見やった小柄な少女は、はっきりとうなずく。


「行きたいです。ネアポリスに行って、もし漢からのものを見つけられなくても、何か手かがりがあるかもしれないから」

「そうだな。本当はローマまで行けるともっといいんだが、少しばかり遠くて行くには旅をしなきゃいけなくなるからな。まあとりあえず、ネアポリスに行ってみるか」

「はい。よろしくお願いします」


 よし、と気合いを入れるような仕草をしたネイナスに、少女は丁寧に頭を下げる。


「俺はここの仕事があるから行けないけど、健闘を祈ってるよ、お嬢さん。気をつけてな」

「ありがとうございます。また、ここに来てもいいですか?」

「かまわないよ。酔っ払いがわんさかいるけど、番犬がいるなら安心だしな」

「番犬……」


 少女はネイナスを振り返る。彼は、目をつぶって深い溜め息を落としていた。


「ふふ、……あ」

「ん、なんだい?」

「私、飲み物をもらったのに交換するものがなくて……どうしよう、こんな使い古した足輪しかない」


 ぽかんとする店主。ネイナスが少女の足首を見ると、すこし古ぼけた貝の輪がふたつ、右の足首につけられていた。


「大丈夫だよ。ローマではね、ものを売り買いするときには物の交換より金銭のやりとりが主流なんだ。……ほら、こういうの」


 ネイナスが懐から取り出したのは、くすんだ色の小さな薄っぺらい円盤。そんな小さなものでも、同じ紋様が描かれているからか、なぜか特別な感じがする。


「それが、きんせん? さっきの男の人が落としてたのも、それだったんですね」

「うん。いいものは皇帝が描かれた金貨コインとかあるんだけど、庶民のあいだではこういう小銭――銅銭がよく使われている。そもそも庶民の生活で金貨を使う機会なんてそうそうないから」

「そうなんですか。……でも、それならますます小銭なんて持ってない……」


 そう言ってうなだれる少女に、主人は軽く笑い飛ばす。


「ははは。今回はお代はいらないよ。ちょっとした親切心だと思ってくれ」

「い、いいんですか?」

「いいのいいの。きみのかわいい笑顔を見れるならラクト一杯なんて安いもんだ。もし気にかかってしょうがないなら、ネアポリスの市場に行ったときに、なんかちょこっとした珍しいもんでも選んできてくれたら嬉しいなぁ。お金はネイナスが出してくれるだろうから」

「うん。それでいいんじゃないかな」


 ネイナスも同意してくれたので、少女は安心して微笑んだ。


「わかりました。じゃあ、ネアポリスで見てきますね」

「ありがとう。楽しみにしてるよ」


 柔らかい笑顔で軽くお辞儀をする少女。それを見てから、ネイナスも主人にひらりと手を上げる。


「じゃ、また」

「がんばれよぉ~?」

「なんだその気持ちの悪い笑みは……」

「おっさんは君を応援してるからね!」

「黙れ」

「??」


 ちょっとヘンな気のいい主人に見送られて、ふたりは午前の町の中へ再び歩き出していった。






*Praeterea…


『アレクサンドロス大王』

 古代マケドニアの王様で戦士。「大王」は通称であり、本当はアレクサンドロス三世という。英語風に読んでアレキサンダーとも。

 チート並みに強くてインドの手前まで征服しちゃったんだから当時の人はもうびっくり。インドも攻めようとしてましたが、病に倒れまだ若かった彼の栄光はそれっきりだったとか。

 それからうん世紀後、ローマ帝国の時代がやってくるのですが、当時のローマ人は彼を昔話の英雄としてかなり尊敬していたらしいです。自分たちに何かしてくれたから感謝してる、って感じじゃなくて、「俺もあんなふうに強くてかっけぇ男になりてぇー!」と、ラテン男たちの熱い心をくすぐっていたんでしょうね。ちなみにポンペイからも彼の絵が見つかっています。いや、ナルキッソスじゃなくて。

 また、アレクサンドロス大王時代のマケドニアは、かのモンゴル大帝国(もっともっと後の時代)とこの話の舞台であるローマ帝国に次ぐほど大きな帝国だったようですよ。ひとりでそんなにやっちゃうって、ほんとチート並みに強いですね。


『マケドニア』

 ギリシアとたくさん喧嘩をしてた都市国家のひとつ。現在では東欧の小さな国です。ヨーグルトで有名なブルガリアの、左端あたりにあります。

 アレクサンドロス大王の時代は古代ローマ、つまりこの話の時代よりかなり前になります。だからアレクサンドロスの話をするローマ人にとって、彼はいわば昔話や伝説の英雄だったんですね。

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