ギューフ

水石さざら

第一章 出会い

Unus 異風でのどかな遠くの地

 風が吹いて、稲穂がさわさわと重く揺れた。


「あっ、ちょ――痛!」


 つかもうとした稲が風に揺れてすっと逃げてしまい、少女は鋭い石器で手を切ってしまった。


「こら、大丈夫かい?」


 声をかけたのは、近くで手早く稲を刈っていた初老の女だ。


「あ、ごめんなさい。大丈夫です」

「川行って洗っときな。それと、もう稲刈りはいいから、稲を束ねるほうの作業にまわっておくれ。せっかく育てた稲を鳥たちに食べさせるんじゃないよ」

「はい」


 女の言葉に少女はうなずき、きびすを返して田んぼから出る。背後で、あの子は本当に不器用ねえ、と数人が忍び笑いをこぼすのが聞こえた。



       


「稲を刈り終わったら、なるべく早く国に下りようね。あたし、海から来る貝殻の腕輪が早くほしくてたまんないよ」

「わたしはやっぱり塩がほしいかなぁ」

「こら、稲を刈り終わったら、でしょ?」

「そうだけどねぇ」


 火を囲んで、女たちはいつものように明るく会話を交わしている。男たちはやっぱり猟の成果を自慢しあっているようだった。

 冬になると、夏に各地で暮らしていた村や集落が、冬越えのために国にたくさん集まってくる。少女のいる村は山の中で猟をしたり川で魚をとったり、最近ではから伝わった稲を育てたりしていた。

 そうして春から秋にかけて作った稲を冬に人々が集まる国に持って行き、各地から集まった様々なものと交換する。年に一度の楽しみだから、女たちはもうすでに国へ戻るのが楽しみなのだった。


「国にはいろんな男たちも来るしねぇ。あんた、今年こそお嫁に行けるといいね」

「はあ……」


 突然話題を振られて、少女は困ったように笑う。すると、それを聞いたひとりの女が、あきれたように手を振った。


「この子はね、気だてはいいけど見てくれがあまりよくないからさ。やっぱり頬はすうっと細くて、目も切れ長でなくちゃ」

「うーん。お前、今年でいくつになるんだっけ?」

「この秋が十七回目です」


 秋に生まれた少女は、苦笑しながらそう答えた。

 すると、訊いてきた女のひとりが顎に手をあてて軽く考えこむようにする。


「ふむ……ならもう、子のひとりやふたりいたっておかしくない歳だろうにねぇ」

「あはは……」

「この村にはあんたくらいしかいないけど、他の村のお前と同年代の子は、もうきっとい人を見つけて子供を持ってるよ?」

「そうかも、しれないですね」

 少女は無理やり笑って立ち上がると、火を離れていえに戻った。

 自分の寝る場所に横たわり、ごわごわで薄っぺらい毛皮にくるまって目を閉じる。


(はぁ……この頃ずっとこの話題……)


 少女は心の中で溜め息をついて、まあ早く所帯を持たない自分のせいか、ともう一度溜め息をついた。


(お母さんは、十七のときにはもう私を産んでいたのかな……)


 少女は自分の父と母をよく知らなかった。少女に物心がつくより前に母は死んでしまい、そもそも母はひとりで自分を身ごもっていたらしかったので、いるはずの父の存在ははっきりしなかった。


(このお腹から人が産まれるなんて……へんなの。信じられないよ)


 少女は自分の腹をさすって、ぎゅっと目を瞑る。

 そして、もう一度目を開けたときにはもう朝になっていた。




1 異風でのどかな遠くの地



「ん……」


 なんだかやけにまぶしい。

 居のなかはこんなに明るかったっけ、と少女はうすぼんやりとした頭で考えていた。


「ふあ……」


 目をこすりながら体を起こす。ふと、自分の座っている場所に違和感を覚えて、少女はぱっちりと目を開いた。


「……あれ」


 まず手に触れたのは草。その下には当たり前だが土がある。

 視線をあげると、ごつごつとした木の幹が目に入った。もっと視線をあげると、その木がそれほど背の高いものではないと知る。


「え、えぇと……」


 まず少女が考えたのは、自分が寝過ぎて放り出されてしまったのではということだった。

 だが、あたりを見回しても目に入るのは背の低い木々と草、そしてこの妙に開放的な場所がゆるやかな斜面になっているということばかり。

 慣れ親しんだ田んぼもまだ刈っていない稲の金色も見あたらず、森の荘厳な静けさもあまり感じない。


「うーんと……」


 なんだか頭がぐるぐるする。何度まばたきをしても、自分がいるのはあまりにものどかな草原で、遠くにはうっすらと山が見えた。


「……とりあえず、なにか探してみよう」


 自分は村と国くらいしか行ったことがない。なんだかしょっぱいにおいもするし、もしかしたらどうしたのか海の近くまで来ていたのかもしれない。……本当、どうしたのかはさっぱりわからないけれど。


「坂を登れば、わかるかな」


 少女は見晴らしのよさそうな斜面の上のほうを見あげて、つぶやいた。

 それから立ち上がって衣服についた草を適当にはらい、坂の上を目指して木々の下をくぐり抜けていく。


「なんだろう、この木。いいにおいがするけど……うん、しょっぱいにおいじゃないか」


 途中で木の香りをかぎながら、少女はやっと坂を登りきった。坂の向こう側が見える場所まで駆けて、そして――目を見張った。


「なに、ここ……」


 少女は何度も何度もまばたきをする。それでもやはり目の前の景色は変わらない。

 坂を下っていった先には、国のような大きな集落がある。よく見えないが、見たことのない建物がずらりと並んでいて、ときどき息を呑むほど大きくて立派な建物があるのも見えた。そしてその街があるところで途切れ、青い水がどこまでも広がっている。


「すごい、こんなのはじめて」


 あの水のかたまりが海というのか、と少女はずっと遠くのほうを見つめながら感心していた。そのとき、


「あっ……あそこに人がいる」


 斜面のすこし下のほうを人が横切っていくのが見え、少女は思わず駆け出した。


「あの――すみません」

「ん?」


 振り返ったのは、見たことのない顔立ちをしている男の人だった。白いひらひらした衣をゆったりとまとっていて、あたりを嗅ぎながら歩く犬を連れている。


「ええと、ここはどこですか? 村でしょうか、それとも国?」


 訊くと、男の人はすこしぽかんとしたように少女の顔を見つめていた。


「あ、もしかして言葉が変ですか? どうしよう……」


 国に行ったときも、遠くから来た人とは言葉が通じにくかったりすることがあった。それを思い出して訊くと、


「いや、そうじゃないんだが」


 と男のひとから答えが返ってきて、少女は逆に驚いた。

 目の前の男の人は見たことのない服装をしていて、髪は濃い茶色。目と鼻がくっきりとした顔立ちで、それなのに言葉はちゃんと通じるのだ。

 そんなことを考えていたら、今度は男の人が口を開いた。


「きみ、とりあえず町に行ってみようか。どこから来たんだい?」

「それが、気づいたらここで寝ていて……」

「へえぇ。寝る前はどこにいたの?」

「村です。稲を刈っている途中で、確かに居のなかで寝ていたはずなんですけど……」

「いね? ふぅん……」


 まあとりあえず、と男の人はきびすを返す。

 足を滑らせないようにという注意にうなずいて、少女もそのあとを追った。



       *



「…………」


 少女は視線を落としたままじっと土を見つめる。

 目の前には人だかり、やけにくっきりはっきりとした顔立ちの人々の誰もが自分を見てわいのわいの騒いでいるのは、容易に見て取れる。


(はあ……なんでこんなことに……)


 少女は溜め息を落とす。

 男の人に連れられて行った町で、長老という老婆に引き合わされた。そこでなぜか老婆は自分のことを「東から来た魔女だ」と決めつけ、男の人は反対し、なんだかよくわからないが偉い人々が呼ばれて議論が始められた。

 その間少女は椅子という座れるものに縛りつけられ、建物の外にぽつねんと放り出されてしまっていた。そして今に至る。


(魔女って、なんでだろう……。私、また何かしちゃったのかな)


 故郷では聞いたことのない言葉だったのに、不思議と自分にはその意味がわかる。

 なんでだろう、なんでだろうと考え続けて、いつしかここが自分の暮らしていた場所からずうっと離れた場所にあるのだと気づき始めていた。


(とりあえず、こんなところに縛りつけられてるのはもういや……なんかすっごい見られてるし寒いし)


 少女はうつむいたまま小さく足を揺する。そのとき、落とした視線の先にぬっと影ができた。


「……?」


 少女は顔を上げる。そこには、今度はびっくりするほど背の高い男の人が立っていた。


「きみ、ここで何をしているの?」

「わかりません」


 男の人の問いかけに、少女は私が知りたいと即答する。すると、その人は面白そうにくすくすと笑った。


「そうなんだ。とりあえず、窮屈じゃない? へたな縛りかたでかわいそうだ」

「はぁ、まあ窮屈ですが……」


 ぽかんとしていると、目の前の男の人は腰からすらりと光る何かを抜いた。それが驚くほど尖っていてきらきらと陽光を反射していて、少女はびくっと肩をすくませる。


「大丈夫だよ。縄を切るだけだから」

「え?」

「――こら!」


 男の人が私を縛りつけている縄を断ち切ろうとしたとき、建物の中から怒声が響いた。


「あんた――って、またネイナスか。どうでもいい、そいつを逃がしちゃだめだよ! 東に住む魔女だからね!」

「魔女?」

「だから長老、あの子はきっと魔女なんかじゃなくてだな……」


 振り向くと、さっきの長老という老婆が、建物に四角く開いた小さな場所から顔を出して叫んでいた。うしろで他の人たちが言い争う声も聞こえる。


「きみは魔女なの?」

「自分ではそのつもりはありません」

「……そう」


 目の前の男の人に聞かれて少女が首を振ると、彼はうなずいて、光る棒のような刃物を携えたまま建物の中に入っていってしまった。

 どよ、と人だかりがざわめきに揺れる。

 あの刃物で何かするんじゃないだろうか、と少女は焦って背後を見つめた。でも、座っている自分よりすこし高い位置にある窓からは中を見ることができず、老婆の金切り声と、落ち着き払った男の人の低い声、他にもいる人々の戸惑ったような声だけが聞こえてくる。

 そうして、しばらく時間がたった。


「――おまたせ」


 建物から最初に出てきたのは、背の高い男の人だった。何をしたのか訊く前に、その人は懐から抜いた短い刃物で少女を縛っていた縄をぶつりと切った。


「……あの、」


 はらりと落ちる縄を呆然と見つめてから、少女は戸惑ったように視線をあげる。


「きみは僕が買った。だから、もうここにいなくて大丈夫だよ」

「買った?」


 故郷でも物を交換することを買うと言った。何かと交換したのだろうかと思って男の人を見つめると、彼は持っていったはずの長い刃物を携えていなかった。


「もしかして、あの、何かと交換したんですか?」

「そう、あの剣だよ。報奨としてもらったいいものだったんだけど、飾りがごてごてしてて使い勝手は悪いから売ってしまった」

「それで、私を?」


 うん、とうなずいて男の人は椅子から少女を立たせる。


「こんなところに長居はしたくないでしょう? とりあえず俺の家に来るといいよ。もてなしてあげるから」

「いいんですか?」

「うん。せっかく買ったんだから、お茶くらい一緒にしてくれると嬉しいかなぁ。なんて」

「……わかりました」


 茶目っ気を含ませて笑う男の人に、少女はくすりと笑ってうなずいた。



       *



 男の人はネイナスと名乗った。少女には呼び名がなかったので、好きに呼んでもらってかまわないと言うと、彼はすこし考えてから少女のことを「ノクス」と呼んだ。


「ノクスって、なんですか?」

「夜っていう意味。きみの黒髪が夜空のように黒いから」

「ここの人たちは、私と同じ黒髪でもすこし違った感じがします」

「そうだね」


 少女はネイナスを見上げたが、彼の髪は布に覆われていてよく見えなかった。

 そうしてしばらく道のような場所を歩いていくと、大きな門が現れた。


「ここから先がプテオリの町だよ。この門から入るんだ」

「へぇ……」


 少女は珍しげに門を見上げながらそれをくぐり、プテオリの町に入った。――途端。

 さあっと空気が変わったような気がした。

 物を売る人々が飛ばす威勢のいいかけ声。荷車が走る重くてごつごつした音。どこからか動物の鳴き声も聞こえる。

 目の前で急ぎ足に町を出ようとしていた男が円形の何かをぱらぱらと落として、少女も一緒にそれを拾ってあげた。


「ありがとね、嬢ちゃん」


 へらりと笑って町を出ていく男を見送り、少女はまた視線を戻す。

 道路は石畳でよく整備されている。道のわきには道に沿ってへこみがあり、ちょろちょろと水が流れていた。

 建物はどれも土や石でできていて、故郷のものとは比べものにならないほど頑丈そうである。見たことのない野菜や実をかごいっぱいに入れて運ぶ子供たち、たおやかに笑いながら服をなびかせて歩く女性たち。――この町は、何もかもが輝いているように見えた。


「すごい、……すごいですね」

「そう?」


 高揚したふうに目を輝かせる少女に、ネイナスは楽しげに笑った。


「きみの――ノクスの住んでいた場所は、こんな感じじゃなかった?」

「全然違いました。まず、こんなにたくさんのひとが集まって賑やかになるなんて、めったにありませんでしたし……国に行かないかぎり、私は一日中ずっとコメを作っていましたから。あとは土の器とか」

「そうなんだ。じゃあ、ちょっと紹介がてら町を見ていこうか」

「はい」


 少女は前を歩くネイナスの背をつかんで道を進んでいく。町を歩く人の数はとても多く、体も大きくて流されそうになるのだが、町の人々より頭一つ抜き出て背の高いネイナスは、慣れているのかすいすいと人をかき分けて進んでいった。


「あれが居酒屋。お酒を飲めるところだ」


 ネイナスが指さした先にあるのは、道に向けて大きく開いた建物の前にたむろする人々。まだ朝なのに、そこはまわりより一層陽気な空気がはじけているように見えた。

 少女は、酒と聞いて故郷で飲んだあの苦い飲み物を思い浮かべる。春の迎え祭りで、夏祭りで、収穫祭で、占いで。儀式のなかで出された酒は、ひとくち飲んで捨てるかほかの誰かにあげていた気がする。


「お酒って、あのまずいやつですか……」

「うーん。俺はまずいとは思わないけど……きみは飲んだことあるの? どんなやつ?」

「祭りで使われていたお酒です。大人たちと同じように作法として飲むんですけど、すっごく苦くて」


 べぇっと少女が舌を出すと、ネイナスはくすくすと小さく笑った。


「はてさて、その酒がまずかったのか、きみの舌が子供だったのか」

「……子供だったのかもしれませんね。大人は喜んでいたので」

「まあ、おかしくはない」


 むすっとする少女の手を引っ張って、ネイナスは道をはずれる。そして、大股に居酒屋へ近づいていった。


「え、だから私、お酒はいいですって、むりですから」

「いいのいいの」

「うあぁ」


 かまうことなく笑うネイナスに引っ張られて、少女は居酒屋の前までたどり着いてしまった。

 ぷうんと漂ってくる酒のにおいに、少女は思わず肩をすくませる。


「よう、ネイナスの旦那。なんだいその娘、妙に怯えちまってるじゃねえか」

「なんだ、さらってきたのかあ?」

「ははは、ネイナスならやりかねん!」

「お前らなぁ……朝は酒じゃなくてラクトにしておけよ」

「なに、酒が入らんと俺たちの朝は始まらんぞ! ネイナス、おまえも飲め!」

「いいから、こら、よせ」


 ネイナスは眉を寄せて酔っ払いの対処をしている。あんな困り顔もするんだ、と少女はなんとなく記憶に焼きつけておいた。

 すると、酒瓶を押しつけてくる男たちを押し返しながら、ネイナスが振り返って口を開いた。


「ああ、主人。この子に何か飲ませてやってくれ。酒以外で」

「酒はだめなんだね?」

「できればラクトか水がいいな。そう、こいつ祭りの酒を飲んだらすっごいまずくて苦手になったんだって」

「ちょ……」

「あはは、子供だねぇ」


 そんなこと言わなくてもいいじゃないか、と少女はネイナスをねめつける。が、彼は楽しげに笑うだけだった。

 すると、居酒屋の店主は何かを入れた小さな器を差し出しながら、少女に向かって片目をつぶってみせる。


「大丈夫。酒は酔いを誘うものだから、きみみたいな清純な子が飲むのにはまだ早いんだよ。そんなことしたら、このおっさんが変になってしまう」

「はあ……。?」


 おっさん、と指されたネイナスを見上げながら、少女はなんとなくうなずいた。

 と、そのネイナスが慌てたように店主の肩をつかむ。


「ちょっ待ちなさい、変なこと教えないでよね。俺そんなんじゃないから」

「えぇ、そういうんじゃないの? ネイナス……もういい歳なのに」

「うわあすっごく胸に突き刺さるけどそれはいまのところ別問題にしといてね」

「いまのところ。なるほど覚えておくよ」

「ごめんねノクス、このおじさんのほうがちょっと変なんだ」

「いや、まあ、……そうですか」


 暖かい飲み物を両手で包みながら、少女はまたなんとなくうなずく。正直一応聞いているふたりの会話の意味がよくわからないので、少女にはなんとも言えなかった。

 また穏やかな言い争いをはじめるふたりを目尻に、少女はもらった飲み物に口をつける。

 見た目は白くて、ちょっと獣くさいにおいがするけれど、すこし飲んでみるとそれは意外と甘かった。ほかほかと、体があたたまっていくような甘さだ。


「あったかい……おいし」

「それはラクトっていうんだよ。ヤギの乳で、子供も大人もみんな飲むやつだ」


 近くで酒をあおっていた男の人が親切に教えてくれる。


「そうなんですか。おいしいですね」

「だろう。プテオリのいい空気をたくさん吸ったんだろうさ」


 軽快に笑う男に少女もうなずいて、秋の朝の寒さで冷えた体を、ゆっくりとその飲み物であたためていく。

 すると、他の男が酒をあおいでからチッチと舌を鳴らした。


「待て待て。このヤギはホットアで放されてるのさぁ。プテオリの空気なんぞホットアには及ばないね」

「おまえのホットアびいきはもうわかったから」

「でも魚はやっぱプテオリだぜ?」

「なんだとぉ。ホットアだって、魚の一匹や二匹くらい空を飛べるんだからなぁ」

「おま、それおかしいから!」


 会話にどんどん男たちが混ざってくる。空を飛ぶ魚と聞いて、少女も思わず小さく吹き出した。

 すると、ラクトを飲んでだんだんあたたまってきた少女の肩に、ぽんとまた別の男の手が置かれる。


「嬢ちゃん、ノクスっていう名前なのかい? いいね、ノクスは確かにおまえさんのような美しくて麗しい艶のある髪をあらわしている……」

「また始まったぞ、ティトスのへたな女落とし」

「はあ。まったく困った酔っ払いさんだね」


 ネイナスと店主も言い争いをやめて、髪をいじられる少女のほうを振り返った。


「こら、ティトス。女落としならうちの店じゃなくて外でやってくれるかい? まったく、いつもこうじゃ女の客が減ってしまう――」

「困るよ、ティトス・コルネリウス・ムルサ」


 店主の言葉をさえぎるように声がして、すっと少女の頭に大きな手が載せられる。それとは逆の手が、少女の髪をすくっては誉めていた男の手を丁寧に、けれど強くどかした。


「あまり、俺のノクスを気安く呼んだり触ったりしないでほしいな?」

「……?」


 頭上から降ってくる落ち着いた低い声に、少女は頭に載っている手がネイナスのものだと知る。


(俺の……?)


 少女はすこし考えたが、彼は自分を買ったのだと言っていたことを思い出して頭上に意識を戻した。


「や、べつに手を出そうってわけじゃないぜ? ただきれいな髪の毛だったからよぉ」

「前科がありふれたお前の言葉を信用して、みすみすこの子を汚してしまうのは嫌だな」


 くすりと、ネイナスは油断のない笑みを浮かべる。


「そっ……前科とか言うなよ、人聞きの悪い」

「ほんとのことだろー、ティトス」

「この酒呑みムルサめー」

「おっまっえっらっ」


 のんべんだらりと酒を口に運びながら経緯を見守っていた他の男たちが、茶化すように声をかけた。

 ティトスは男たちを振り返って目をつり上げるが、彼らは飲み干した器を台に置いてゆっくりふらふらと腰を上げる。


「いいから、ほら。ネイナスと嬢ちゃんに謝って、そろそろ俺たちも仕事に行こう」

「なんで俺が」

「ネイナスの嫁さんに手を出したのは間違いだった。お前の負けだっつうの」

「だって、こいつそんなこと一言も――」

「見てりゃわかるって、だからお前は女に蹴落とされる女落としなんだよ」

「はあ?」

「仕事終わった飲みなおそうぜ。だから、な?」

(嫁……)


 結局まわりの男たちに言いくるめられたのか、ティトスは軽く居住まいをなおして気まずそうに頭をかいた。


「その、な。悪かったぜ。お前に何かしようとか思っちゃいないから、またここに来て一緒に話とかしてくれるかい?」

「絶対に手を出さないならな」


 少女が返事をする前に、ネイナスが強い言葉で即答する。


「出さないぜ、決まってるだろ。……つうか、ネイナス、お前さん……」

「何か?」

「いや、お前と嬢ちゃんって、なんとなく、なんとなくだな、」


 言いにくそうに口ごもるティトス。ネイナスが怪訝そうに眉をひそめていると、ティトスは決心ひたように顔を上げた。


「お前ら、夫婦っつうより親子だよな。ネイナスすっげえ保護者感」

「ぶっ、確かに!」

「…………」


 ティトスの言葉に店主はうしろで吹き出し、ネイナスは顔をしかめる。とりあえず否定する言葉も理由もないので、少女は黙ったままにしておいた。


「ネイナス、お前もう二十七になっただろう? 嬢ちゃん、きみはいくつだ」

「十七になった、ばかりですけど……」

「へ?」

「え?」


 訊いてきたくせにぽかんと口を開けるティトスに、少女も聞き返す。見ると、ネイナスたちも驚いたように目を見張っていた。


「……これはこれは。てっきり十二、三歳かと」

「俺もそう思ってた……」


 口々に溜め息のような感嘆のような息をもらす男たち。子供っぽいってことか、と肩を落とした少女の頭を、ぽんぽん、と載せられたままだった手が優しく叩いた。


「そんな顔しないの。十七で見た目が十三でも、ノクスはノクスだから。困ることなんて何もないよ?」

「ネイナスさん……」


 すこしかがんだネイナスを、少女はすこしびっくりしたように見上げる。その笑顔は優しくて、載せられた手はあたたかくて、少女も安心したように微笑んだ。


「意外と優しいんだなネイナス父ちゃんは」

「ティ、ト、ス、は、黙ってろ!」

「ほんとばかだよねぇ、彼」


 ほのぼのと笑うふたりを見ながらまた同じ過ちを繰り返そうとするティトスに、店主もあきれたように肩を落とす。


「うーん。でも、ノクスがちっちゃいのは確かだよね。5ペデース程度ってところか……」


 す、す、とネイナスが手を上下に動かしながら首をかしげる。


「ネイナスは6ペデースはあるだろ」

「うん。ちゃんと測ったことはないけどね」

「ご? ろく? ぺでーすって?」


 なんだか聞いてもわからない言葉に、少女はそう訊いた。


「長さの単位だよ。1パルムスが手のひらの横の長さ。これが四つぶんで1ペース。ペースはペデースと同じ意味だけど、ペースは1ペースにしか使えなくて、2から上は2ペースじゃなくて2ペデースっていうの。つまりペデースはペースの複数形ってことだね。ノクスは5ペデースだから、手のひら二十個ぶんの身長ってことだ」

「へえ……長さ、ですか……」


 じっと自分の手のひらを見つめながら、少女はふと故郷のことを思う。

 思えば、故郷ではあまりそういうのに触れたことがなかった。……故郷。


「そういえば」

「うん?」


 少女がつぶやいて顔を上げると、ネイナスが口元に笑みを浮かべたまま次の言葉を待っていた。


「私、どうやって帰ればいいんでしょう。そしてここはどこなんでしょうか」


 居酒屋にちょこんと座る少女には、一番面倒な問題がまだ残っていた。






*Praeterea…


『弥生時代』

 縄文時代から続く形とされている古代日本の一区分。大陸から伝わった稲作により、縄文時代からすでに定住していた人々は「狩猟採集民族」から「農耕民族」となりました。

 またこの頃になると、今でいう九州は大陸から人々が渡ってきてとても栄え、ムラが集まって大きな集落「クニ」を形成し始めました。古墳時代の女王卑弥呼ひみこよりも少し(?)前の時代です。


『ペース』

 古代ローマで使われていた長さの単位。複数形はペデース。

 1ペースは29.6cmなので、ノクスの身長は148cm程度、ネイナスは177.6cm程度となります。ちなみに5ペデースは同じく古代ローマの長さの単位で1パッスス(複数形はパッスース)となりますが、わたくし混 乱 い た し ま す ので今回はペース・ペデースのみにしました。


『身長』

 このころのローマ住民の多くを占めるラテン人は、身長が150〜165cmだったとされ、頭ひとつ分も大きかったゲルマン人は彼らにとって巨人のような存在だったのでしょう。そこの進撃しそうになった方、落ち着いて。民族移動時代はまだまだ先ですよ。


※未成年は飲酒しちゃいかんよ!この話みたいに大人に勧められても飲んじゃいけないからね、いやマジで!

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