STAGE 03

【1】


 始発を待って店を出るとあたりにはすでに日中の暑苦しい夏の気配が感じられた。いつから東京はこんなにもじめついた街になったのだろう。俺がガキの頃はもう少し暑さにも風情のようなものがあった気がした。そう思いながら今日も一日あのうだるような暑さが続くのかと思うとうんざりする。俺はまだひと気のない西武新宿線に飛び乗ると酔いと火照った身体を冷ますように目を閉じた。


 離婚してから俺は店の二階に住みこむようになった。抵当に取られ競売にかけられた物件を改めて借家として借りることの間抜けさはさておき、ここが幼少期からを過ごした家であることには違いはない。どんなに拭っても拭い去れない記憶が至るところに貼りついている。ただ違うのはあの馬鹿のような大きな体軀の親父の姿がどこにもいないことだった。どこを通るにしても頭を下げなくちゃ身動きの取れなかった親父はもうこの世にいない。それだけでこの家はかつてとなにかが違った。それは無愛想な親父の遺影を飾っても戻ることはない。


 そんな我が家に帰り着いてすぐに二階の窓すべてを開けた。築40年のおんぼろの物件。競売にかけられたこの物件の買主は結局のところなにをするわけでもなくそのまま放置されたまま、結果として俺は生まれ育った我が家をそっくりそのまま取り戻すことができたわけだが、落ち着くことや親しみを感じる以前にいまは開放した窓から入りこむ生温い外気に気の滅入る日々だった。


 俺は扇風機の電源を入れて下着姿になると複数の筐体と基板とパーツ、ケーブルの類で散らかり放題の部屋の片隅に引きっぱなしの万年床に倒れこんだ。使い古しのガラケーの画面には6時過ぎを示す数字が浮かんでいる。気晴らしにしてはちょっと呑み過ぎたことを軽く反省したが、とはいえ店の開店まではあと6時間ほどあった。俺はその間を泥のように眠りこもうと決めていた。だが近所の公園から鳴り響くラジオ体操の音楽がそれを阻害してくれる。


「ったく…」


 寝返り混じりにそう愚痴ったところで静かになるわけでもなく、苛立ちだけが募った。さらに徐々に上昇し始める朝の気温がそれに拍車をかける。あたりに飲みさしでいいからミネラルウォーターのペットボトルのひとつでもと探したが見当たらない。全身を伝う不快な汗も生ぬるい風しか送らない扇風機の前にはなす術がない。


 俺はあきらめて眠気を押し殺すと一階の店へと降りた。入り口は外からシャッターを閉めていて、窓らしい窓は壁上の排気口代わりの横長の磨りガラスくらいなので照明を消した店内はいつも薄暗い。かといって日差しが差し込まないから涼しいというわけでもなく、日中の熱気が室内に生ぬるく立ち込めている。気休めに例の不調なエアコンの電源を入れるが大きなうなりを上げるだけで冷気を送ってくる気配はない。


 拾い上げたタオルで汗を拭うとカウンター脇の冷蔵庫から瓶コーラを取り出してライターで蓋を空け、そして乾いた喉に炭酸水を一気に流しこむ。アルコールと暑さで脱水症状気味の身体にはさすがに染みた。


 そのときようやく俺は異変に気づいた。


 同業者の閉店話を聞くたびに明日は我が身と暗い気持ちになっても、ネットでの例の騒動から地味に続く子供じみた嫌がらせのひとつひとつにめげそうになりながらもシャッターだけは開けてきた。そうしてきたのはそうすることからしかなにも始まらないと思ったからだし、俺の場合はそうすることからしかなにもやり直せないと思ったからだった。


 なにかあるたびに折れそうになるやる気とやらと底が抜けそうになる心をどうにか支えてきたのは、かつての薄暗い店内を埋め尽くす人々と充満する紫煙を照らす電子の光、そして何層にも重なり合う電子音と喧騒の風景、そしてそれを眺める誇らしげな親父の姿をこの店内に見てきたからだった。


 かすかに酔いの冷めてきた頭で薄暗い店内をおもむろに見渡す。全身に貼りついていた倦怠感や酔いが一瞬にして退いていくのがわかった。恐る恐る店の照明のスイッチを入れると眩しい光が店内を照らす。


 浮き彫りになった現実は俺を叩きのめした。

 どうやら、いまの世の中はコンティニューもさせてくれないみたいだな。

 さっき店主に言った自分の言葉が反すうされる。


 いくつかの筐体はブラウン管が破壊され、数台のテーブル筐体は天板ガラスが粉々になっていた。外からシャッターで塞いでいる入り口は無傷だったが、壁という壁は金属バットかなにかで殴りつけたような跡が至るところついていた。


「なんだよ、これ…」


 俺はそう独りごちるしかなかった。荒れ果てた店内に公園から聞こえるラジオ体操の音だけが生々しかった。


【2】


「ひでえ有様だな」

 

 複数の警察官が現場検証で出入りするその片隅でアイスキャンディーを舐めながらキャサ夫は言った。どこから聞いたか知らないが警察がやって来る頃にはすでに店に顔を出していた。時間はすでに正午を過ぎていた。


「ひでえ有様だよ」


 隣に座りこんだ俺は鑑識の人間が店内を慌ただしく行き交う姿を眺めながらそう返した。俺は昨日からの疲労と眠気で意識が朦朧としていた。


 ラジオ体操が鳴り終わった頃、所轄警察の馴染みの警官に電話をするとすぐに事件として取り扱われることとなった。


 風俗第八号営業。ゲームセンターの経営にはこの許可が絶対でこれを守らなければならないのと同時にこの風営法によってゲーセンは警察からその立場を守られている。ゲーセンの経営をしていれば店内での喧嘩や乱闘、酔っぱらいに他店の人間の換金ほかトラブルは絶えない。そんなことが日常茶飯事のなか長らくこの商いをやっていれば馴染みの警官のひとりやふたりできるのは当たり前だ。


 ただ今回はさすがに店が荒らされたとあって風営法管轄外の立派な事件として身なりのしっかりした警官たちが大勢立ち入ってきた。犯人は普段使っていない裏口のドアを破壊して店内に侵入していた。侵入の目的は金銭ではないようで実際、両替機も筐体のコインボックスも荒らされた様子はなかった。


「レイジさん、ちょっといいですか?」


 警官のひとりが俺に声をかける。ただそいつが元うちのアルバイト経験者だっていうんだからなんとも緊張感に欠ける。


「んだよ。バイト。話すことは全部もう話したっつうのバイト」

「そのバイトって呼ぶのやめてくださいよ、下に示しつかないじゃないですか」

「ったってバイトはバイトじゃん、それが嫌なら元をつけてやるよ。元バイト」


 苦笑するキャサ夫を横目に俺はバイトからの質問にいくつか答えた。そうしながら荒れ果てた店内を目の前にしてあれこれと考える。なぜ俺の店がここまでされなきゃならないのか。どれだけ考えても答えが出なかった。俺の店はそこまで誰からに憎まれようなことをしたのか。


 かつて荒れ狂っていた頃の俺への仕返しかとも考えたがいまさら犯行に及ぶのはどうもピントが重ならない。さらに例のネットでの炎上騒動——暇や退屈潰しが焚き木でしかないあの手の出来事を発端に誰が建築物不法侵入、器物破損まで犯すだろうか。


「それでどうするのさ、店。これじゃ当分営業できないだろう」


 キャサ夫の言葉に俺は深い溜息をついて立ち上がった。朦朧とする意識を気力で振り払った。


「悪いんだけどちょっとふたりとも手伝ってくんねえ?」


 そう言って俺はキャサ夫と元バイトを二階へ誘った。万年床を抜けた先にあるかつてリビングだった場所——そこが店の倉庫件、俺の作業場だった。俺は手前のテーブル筐体をどかして奥に仕舞い込んだ筐体を引きずりだした。


「レイジ、おまえこれって」

「キャサ夫ならわかるだろ? 駄菓子屋筐体だよ」


 駄菓子屋筐体——駄菓子屋の店頭に設置してもらうために作られたアップライト直立型筐体の通称。低年齢層に向けた台だけに高くない背丈と屋外での使用を前提とした日差しがついているのが特徴だ。


「どうすんだよ、レイジ。こんな古いもん引っ張り出して」

「営業すんだよ。店内がダメだめなら外がある。そもそもこの筐体は軒先に置くためのもんだ。このあいだのドラマの撮影でメンテナンスをしたばかりだから電源と基板をぶち込めばいますぐにでも動く。いま動くのは全部で3台だけど当面はこれで店頭営業して、鑑識が終わり次第、二階から動く筐体を降ろして本格的に営業再開させる」


 なにがあっても店は開ける。警官だろうがヤクザだろうが誰が止めようとしてもこの店だけ死んでも開ける。


 実際、毎日カウンター越しに人気のない店内を眺めていると現実がどんなものかを思い知る。店を閉めた連中にかける言葉も見つからない。なぜなら明日は我が身なのだから。そう何度も思ってきた。


 それでも俺はやっぱり店を閉めない。今日荒れ果てた店内を見て痛感した。


 店を荒らしたのがどこの誰かは知らないがそいつらが今後どんな嫌がらせや暴力を振りかざしてきたとしても俺は絶対に店を開け続ける。店を開けて店を閉める、たったそれだけのことを俺はなにがあっても譲らない。


 なぜなら俺はゲーセンの店長だからだ。


 店を再開するときそう決めたじゃねえか——この荒れ果てた現実を前にようやくそのことを思い出す。日本中のゲーセンが閉店していったとしてもこのゲームセンター・タナベはその最後になってやると。前のめりに倒れる以外じゃ閉店やめられねえと。


 アイスキャンディーの棒を咥えたキャサ夫がやれやれといった顔で呟く。


「で、どれから運べばいいんだ?」

「一番重いヤツ」


 俺はそう言って笑った。


(つづく) 

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